中曽根vsフセイン
緊迫の人質解放交渉秘録

世界を揺るがした30年余り前の湾岸危機。
イラクが隣国のクウェートに侵攻。アメリカなど各国は一斉にこれを非難し、軍事行動の構えをとった。
これに対し、イラクは滞在中の外国人を人質にとり、“人間の盾”とも呼ばれた。日本人も213人が“盾”とされた。政府、国会、民間、さまざまなルートが解放に動く。
その1人が“大勲位”とも呼ばれた昭和の宰相、中曽根康弘だった。みずからイラクを訪問し、当時のフセイン大統領と直談判したのだ。
機密指定が解除となり公開された外交文書で、緊迫の人質解放交渉が蘇った。
(霜越透、岡野杏有子、青木新)

ミッションスタート

1990年11月4日、バグダッド。
イラク大統領府で、中曽根をトップとする交渉団は、フセインと向き合っていた。

「危機の平和的解決の端緒を探りに来た」
4時間におよんだ人質解放交渉で、中曽根がこう切り出した。

当時、通訳として立ち会った、現在バーレーン大使を務める宮本雅行は、こう振り返る。
「緊張感に包まれつつも、淡々と始まりました」

湾岸危機勃発

世界を揺るがした湾岸危機の勃発は、30年余り前の1990年8月。
イラクが隣国のクウェートに侵攻。中東の石油政策をめぐる対立が背景だった。各国は一斉にイラクを非難。アメリカを中心に軍事行動をとる構えをとった。

これに対し、イラクは、滞在していた外国人を人質にとり対抗。石油施設など、アメリカなどからの攻撃目標になり得る国内の重要施設などに分散して拘束したことから“人間の盾”とも呼ばれた。
日本人も213人が“盾”とされた。

突如として起きた世界的な危機。
当時、海部政権で官僚のトップ・内閣官房副長官を務めていた石原信雄は、こう話す。

「日本も石油を依存している湾岸地域で起きた危機なので、政府内に緊張が走りました。あんなに多くの人が人質状態になったのは初めての経験でしたし、とにかく解放を最優先の課題として取り組みました」

中曽根に白羽の矢

日本政府は、国連などを通じて、イラク政府に解放の働きかけを続けていたが、難航していた。
一方、各国は、正式な政府の外交ルートだけにとどまらず、イラクに太いパイプのある国のトップ経験者などを非公式な交渉役として派遣し、その一部で人質が解放される動きも出ていた。
日本でも同様の取り組みを呼びかける声が相次ぎ、白羽の矢がたったのが総理大臣を退任していた中曽根だった。
中曽根は「日イラク友好議員連盟」の設立に尽力。旧通産大臣時代にフセインと会談したこともあった。
政府とは別の非公式ルートとはいえ、多くの人の命がかかった重要なミッションだ。通訳は専門性の高さも求められ、外務省から宮本が同行することになった。
その時の様子をこう振り返る。

「上司から指示がありまして。最初は淡々と受け止めましたが、人命に直接関係する交渉の通訳ということで、後で大変なことを引き受けたなと緊張したのを覚えています」

複数の国会議員も含めた「中曽根交渉団」が結成され、11月3日から7日までの5日間の日程でイラクを訪問した。

まずは誤解を解き 和平を強調

フセインとの会談は、訪問2日目の11月4日。
双方、複数のメンバーからなる全体会合で中曽根が、まず説いたのは和平の重要性だった。

「本件は、世界的な拡大をするおそれがあり、自分の観測では事態は緊迫し、危険性は増している。もし戦争が始まれば取り返しのつかないのことになり人類的不幸を招致する。日本は平和国家として、平和的解決のために努力したい」

その上で、日本人だけでなく、外国人のすべての人質の解放を求めた。そして、こう続けた。

「日本の立場について、若干の誤解があるので訂正しておきたい。憲法改正などもしていないし、可能性もない。自衛隊を戦闘に参加させるものでもない」

中曽根の交渉スタンスについて、日米外交に詳しい五百旗頭真は、こう指摘する。

「もちろん人質の解放が最大の目的ですけども『返してください、お願いです』では、交渉として格好が良くないですよね。まずは『アメリカと戦争したら終わりだよ。だから一緒に考えよう』と頼りになる助言者と思わせる。『自衛隊の派遣もない』と中立性を強調して相手の心の中に入っていこうということでしょう」

自説訴えるフセインに平行線

こうした中曽根の言葉に、フセインは次のように切り返した。

「この国の建設を進めてきたのは我々だ。達成したことを破壊するような戦争は望んでいない。イランとの8年間の戦争は米国によって仕向けられたものだ。米国がこの地域において破壊者としての役割を果たしてきたことは明白だ」

イラクとしても、今、新たな戦争が起きるのは避けたい。
しかし、かつてのイラン・イラク戦争もアメリカのせいで、あくまでも、この地域の破壊者はアメリカで、イラクに非はない。そう自説を訴えた。

その上で、フセインは人質解放の具体的な条件を提案した。

☑安保理常任理事国5か国が武力行使せず、平和的に解決する
☑もしくは、日・中・ソ連・独・仏の5か国のうち2か国以上が同様の宣言をする
というものだった。

当時の国際情勢や日本が置かれた状況を考えれば即答しがたい内容だ。

中曽根は、こうかわした。

「条件には問題がある。戦争を回避するには、人質問題だけでなく、クウェート問題についてもイニシアチブが必要だ」

全体会合は、平行線の状態が長く続いた。

テタテ会談

このまま、進展なく終わってしまうのか。
そんな空気に包まれていた会合の終盤、中曽根は、重ねて強調した。

「戦争が勃発したならば、米国にも大きな影響を及ぼす。しかし米国人というのは、いったんカッとなると前後の見境がつかなくなる性質を持っている。戦争が起こってしまえば勝者も敗者もなく、人類全体が敗北する」

そしてこう続けた。

「いずれにしても米国に戦争を思いとどまらせる努力をすることが大切だ。自分は個人的にはアメリカ人が好きで、彼らがフランクなところはいいのだが、時としてティーンエージャーみたいなところがあるのが困りものである」

フセインは笑って応じた。

また、中曽根は、みずからが旧知のアメリカのカーター元大統領や、ドイツのブラント元首相と会談し、戦争回避に努めると強調してみせた。
そして、たたみかけるように呼びかけた。

「もう少しお話することは可能か」

うなずいたフセインは、中曽根だけを奥の別室に案内。通訳しか同席しない1対1の会談、いわゆる「テタテ会談」に移行した。

通訳を務めた宮本はこう振り返る。
「10畳ぐらいはあったでしょうか。両者は、壁際のソファーに、間に人が2人ぐらい入れるほどの間隔をあけて座りました。お互い向き合うのではなく、時々、目を合わせるような形で。静まりかえった中、淡々とやりとりが交わされました」

ここで中曽根は、全体会合のときより、アメリカなどによる武力行使の危機が迫っているとより強く警告した。

「この11月末から12月にかけて極めて高くなると危惧している。貴大統領が革命成就後に懸命に努力し築きあげてきたこの立派な国が破壊される様を決して目にしたくない。戦争の悲惨さは、われわれ自身、太平洋戦争の体験から痛いほどよく承知しており、貴国についても、その点を心配している」

一方、すべての国がアメリカを中心にした軍事行動に賛同しているわけではなく、クウェートからの撤退、人質の解放が今、アメリカが最も嫌がることだとして、軌道を修正する最後のチャンスだと説得を試みた。

「アラブの中で合理的な解決が図れるような今一歩の新たなイニシアチブを出していただければと思う。それは同時にアメリカなどに武力行使の口実を与えないことにもなる。アメリカは今大きな悪夢を見ているという記事をよく見かける。すなわちイラクがクウェートから撤退してしまうことで、アメリカが武力行使の口実を失ってしまう悪夢だ」

一方で、こうも言った。

「ブッシュ大統領は元来臆病な性格で、自分1人では武力行使を決断できない」

まるで、自分なら今のアメリカ、そしてブッシュ大統領をよく知っており、止められる余地はあるというニュアンスを伝え、フセインを揺さぶったようにも見える。

しかし、この時点では、フセインは首を縦に振らなかった。

「現下の状況では、イラクの政治家の誰1人として撤退を口にすることはできない」

結局、全体会合、「テタテ会談」、あわせて4時間にも及んだこの日の会談は結論が出ないまま終わった。

その時人質は…

交渉が続いていた時、人質はどのような状況におかれていたのか。

東京都内に住む長谷川捷一も、この時期、人質として拘束されていた1人だ。
クウェートに石油会社の技師として赴任していた際に、8月のイラクの侵攻に遭遇。バグダッドに連れて行かれ、イラク北部の製油所などで“人間の盾”とされた。
「中曽根交渉団」が来た時も、拘束は続いていた。

「住環境は、体に支障をきたすほどの問題はなかったですが、経済的に疲弊した国だったので、食べるものがひどかったですね。泥臭い魚を煮たものなどやパンです。パンは石のように固かったです」

その上で、こう振り返った。

「いつ解放されるか分からないということに加え、いた場所は、ただちに攻撃の標的になる場所ですから、まさに“人間の盾”となっていた不安がありました」

交渉で解放が実現

人質が不安な日々を過ごす中で続けられていた中曽根の交渉。
進展がないまま時が経過し、日本帰国の前日となった11月6日の朝。
イラク第一副首相のラマダンから、中曽根たちに突如、人質の一部解放が伝えられた。

ラマダンは、こう説明した。

「一部、人質を解放するのは、中曽根との交渉を評価してのことだ」

74人の日本人が解放され、8日に無事、日本帰国が実現した。
中曽根の交渉が、一部の人質の救出につながった形だ。

製油所で人質となっていた長谷川も、この時、解放された。当時の気持ちを、率直にこう話す。

「11月5日の夜でしたね。突然『あす朝7時までに荷物をまとめろ』と監視員に言われました。それで翌6日に製油所を離れて。私が解放されたときは、ほかの人質は残っていたので、喜びということはなく、『なぜ自分だけが』と申し訳ない思いでした」

その一方で、当時の政府の対応に厳しい評価を示した。

「一緒に人質にとられていたイギリス人が持っていた携帯ラジオを聞かせてもらっていたんですが、BBCでは、政府が『あなたたちを1人残らず助けるから、どうか頑張れ』と激励の内容が放送されていました。日本のラジオチャンネルは、当初、スポーツや料理番組などしかなく、情けない、そして悲しい気持ちになりましたね」

交渉の決め手は

交渉の何が決め手になったのか。五百旗頭は、こう分析する。

「あくまで目的は人質の解放なんだけど、それは表には出さずに『フセインに同情心を持っていて友人として助言をしたい』という姿勢を一貫してとりましたね。時にはアメリカをやゆするようなことばも使いながら、自分は本当にイラクのことを思っていると」

そして、こう続けた。

「さらに『アメリカの元大統領や、ドイツの元首相との間で和平のための努力もする。それほど自分はイラクにとって誠意を持っていて、日本を味方においておいたほうが、国益になるかもしれない』と思わせたことですね。実際、政府の立場じゃないから、そんな権限はないんだけど、そう思わせた。それが、最終的にフセインを動かした重要な決め手であり、理由だと思います」

交渉、その後

「中曽根交渉団」のあとも、日本による人質解放の試みは、さまざまなチャンネルで継続。
最終的には、日本人の人質213人は、全員無事に解放された。

当時、官房副長官だった石原は、政府としては日本の人質解放が実現するまで、アメリカ側に自制的な対応を働きかけていたことを明らかにしながら、あのときのことを総括した。

「外務省を中心に、アメリカなどの関係国ともやりとりはしていましたが、アメリカは、平和裏におさめるつもりはなく、大変厳しい考え方をしていました。アメリカが武力行使に出ると人質救出の動きは壊れてしまいますから、とにかく中曽根総理たちの交渉を見守ってくれということは伝えていました。それだけに解放が実現したときは、政府としてもほっとしました」

今につながる教訓は

30年余り前に起きた危機に際しての外交交渉。今につながる共通した教訓はあるのだろうか。
五百旗頭に聞いてみた。

「国際的な場では、総理大臣や外務大臣という公式な外交ルートも大事なんですが、別のチャンネルも必要だと思います。中曽根の時のような、それ以上の存在の交渉役というんでしょうか。総理経験者など、権限はないけれども国際社会で重みを持ちうる非公式の外交ルートですね」

また、今の激しさを増す米中対立を引き合いに出し、こう強調した。

「例えば、中国が台湾を攻撃をするかもしれないという懸念がありますね。そういう中で危機を火消しするために、総理経験者など、政治的な経験を積んだ人、大舞台で交渉力を持った人に、力を発揮してもらうことが必要になる場面があるかもしれませんね。そうした存在が必要です」

取材を終えて

今回、公開された外交文書は、あわせて7300ページを超える。通常、政府要人の会談は、冒頭撮影のみ報道陣に公開され、残りの大部分は外交機密となる。
それだけに、機密指定が解除された文書に触れるのは新事実を見つける貴重な作業で、取材班総がかりで読み込み、取材を行った。

資料には、同盟国のアメリカと、対立するイラクとの間で微妙な立ち位置をとり、人質解放を試みた中曽根だけにとどまらず、さまざまな分野で外交当事者がしたたかに国益を守ろうとするやりとりが記録されていた。
五百旗頭は「危機を防ぐ外交を最後に左右するのは、まさに“人”だ」と強調した。
米中関係をはじめ、日本を取り巻く国際情勢は変わらず厳しい。いまの外交当事者の交渉力やいかに。引き続き、深い取材を試みていきたい。
(文中敬称略)

政治部記者
霜越 透
2008年入局。札幌局などを経て政治部。18年から大阪局、ことし再び政治部に。外務省でアジア地域などを担当。
政治部記者
岡野 杏有子
2010年入局。大阪局などを経て18年から国際部。ことし政治部に。外務省でアメリカなどを担当。
政治部記者
青木 新
2014年入局。大阪局を経て20年から政治部。官邸で“総理番”取材を経験した後、林外務大臣の番記者に。