立候補断念の衝撃
何が菅を変えたのか?

「自民党総裁選挙には出馬しない」
菅総理大臣が9月3日、自民党総裁選挙への立候補断念を表明した。
役員人事の一任をとりつけるはずの臨時役員会でのことだった。
再選にあれだけ強い意欲を示していたのに、なぜ立候補断念に追い込まれたのか。
表明までの5日間の動きを追った。

勝負手は“二階切り”?

8月30日(月)

9月6日に行うとされていた自民党役員人事の動きが表に出てきたのがこの日だ。
午前8時前、いつものように宿舎を出て官邸の敷地内を散歩した菅は、10時半ごろ、政務調査会長の下村と向かい合った。

菅は総裁選に意欲を示す下村に対し、近く経済対策をとりまとめる考えを伝えた上で「総裁選に立候補するなら、政務調査会長の職を続けるのは難しいのではないか」と迫ったという。
下村は立候補を断念し、職務を続けることになった。

菅はこれにとどまらず、午後には幹事長の二階と会談し、交代させる意向を本人に伝えた。
総裁選を目前に控え、衆院選も間近となったこの時期に、幹事長を代えるのは極めて異例だ。

新型コロナウイルスの厳しい感染状況は変わらず、防戦一方だった菅が、反転攻勢に出たと受け止められた。

「菅総理は攻めている。政局だな」(参院幹部)

「選挙がこれだけ近い中で、幹事長を代えるとか、普通は考えづらい、総裁選を前にして求心力を高めるということではないか」(与党幹部)

「このままいっても苦しい状況が続くだけだから、マイナスはない。やらない判断はなかった」(閣僚の1人)

当の二階は周辺にこう語っていた。
「やらしてくれと言ったことも辞めさせてくれと、言ったこともない」

人事は二階以外にも党四役を代え、一部の閣僚交代にも手をつけると取り沙汰された。
内閣支持率も低迷するなか、人事の刷新は総裁選に向けて菅の求心力を高めるために残された数少ない手段とも見られ、いわば「勝負の一手」。
二階の交代を求める声は最大派閥の細田派や第2派閥の麻生派から特に強く、党内の支持基盤が強いと言えない無派閥の菅にとって、こうした声に応え、支持を取り付けたいという狙いがうかがえる。

しかし、菅政権誕生の立役者の一人として、支えてきた二階の交代を決断したことが、さまざまな影響を及ぼしていくことになる。

衆院解散は“9月中旬”に?

8月31日(火) 

正午ごろ、自民党幹事長の二階と公明党幹事長の石井らが会談。
野党側が求めていた、総裁選前の臨時国会召集には応じない方針を確認した。
これにより、臨時国会の召集が見送られることになった。

国会の開会中であれば、総理大臣が振るう“伝家の宝刀”はすごみを増す。“いつでも解散できる”からだ。
衆議院議員の任期が残り少ないとは言え、臨時国会の召集を見送ることによって、“いつでも解散できる”という選択肢を手放した格好となり、9月中旬の解散はないという見方が強まった。

にもかかわらず、この夜、永田町では「菅が人事を行った上で、9月中旬に衆議院の解散に打って出るのではないか」という話が駆け巡り、そして、実際に一部の新聞が報じることとなった。

党役員人事を刷新し、衆議院の解散に踏み切った場合、すでに日程が決まっている総裁選も先送りされることになる。
党執行部側からは、解散を求める声もあった。
この夜、菅は議員宿舎で二階と向き合ったが、結論はでなかった。

しかし、実際に菅は9月中旬の衆議院解散に踏み切ろうとしたのだろうか。

菅に近い立場の人たちはその胸の内をこのように察していた。

「選択肢の1つだが、まだ迷っている。内閣改造もどうやったらいいか悩んでいる」(党執行部)

「党役員人事をやることは総裁選を後にずらすという意味でしょう」(別の党執行部)

「まだどうするか決めていない。いろいろな声を聴きながら決めないといけない」(政府高官)

「総理はまだ解散を迷っている」(閣僚の1人)

解散に踏み切ろうとしたとまではいえないが、少なくとも選択肢の1つとして、検討していたことは間違いなさそうだ。
しかし「9月中旬解散」「総裁選先送り」に、党内から反発の声が一気に強まった。
そして、それは菅が「勝負手」としていた人事の刷新にまで及んだ。

「総裁選を衆議院選のあとにする話が出ている。さすがに党内からかなりの反発があるよ。人事も、前から考えていたことだと思うが、普通は総裁選のあとだ」(重鎮議員)

「人事をやって解散の可能性をいう人がいるが、さすがに誰にも理解されない。自分の目先のために解散するっていうことで、党内は持たない」(派閥領袖)

関係者によると、この日の夜、前総理大臣の安倍が菅に総裁選を衆院選の後に行うことには反対だと忠告していたという。


また、菅の再選支持を明確にしていた環境大臣の小泉もこう進言した。
「総裁選の先送りは絶対に許されない。衆議院の解散も大義がなく、もし踏み切れば菅総理も自民党も終わる」

 

解散権封じられる!?

9月1日(木) 

午前9時半すぎ、防災訓練のための記者会見を終えた菅は記者団に対し、こう述べた。

「これまでも、たびたび質問があり、その際に『最優先は新型コロナ対策だ』と申し上げている。今回も全く同じであり、今のような厳しい状況では、解散できる状況ではないと考えている。自民党総裁選挙の先送りも考えていないし、そういう中で(衆院選の)日程は決まってくるだろうと思う」

菅 自らが、党内に疑念や反発を生んだ見方につながる発言を公にしたことはない。それにもかかわらず、打ち消すことを余儀なくされた。
菅の解散権が事実上封じられた瞬間だった。総裁選は先送りされず、9月17日告示、29日投開票の日程で予定どおり行われることになった。

しかし、なぜこのようなことが生じたのか。政府高官は菅再選に向けた内幕をこのように明かす。
「情勢は刻々と変わっている。いいと思っていた案がよく検証したら、大きな問題点をはらんでいたりする。それを見極めながら、1日1日判断して、残す選択肢、捨てる選択肢を決めているのが現状」

菅の再選に向けた戦略が明確でなく、手探りで進められていることを感じさせる。
さらに菅の打つ手に対して、次のような評価もあった。

「菅総理の性格だから、誰にも相談せずに決めた話じゃないか」(参院幹部)

「総理も策士だから、自分で戦略を練っているのではないか」(菅に近い中堅議員)

果たして、今回も、菅らしくみずから陣頭指揮を執っていたのだろうか。
無派閥がゆえに、遠心力が強まっていると指摘する声もあった。

「今の菅さんは何をやっても延命だとしか見られないし、そういう声しか出ないだろう。無派閥で総理になるというのはこういうことなんだな」(党三役経験者)

“総理は辞めない”

9月2日(木) 

午前10時半すぎ、菅は小泉と会談。この日で4日連続となった。
会談後、小泉は菅に総裁選が終わるまで衆院選の日程を決める考えはないと強調した。

「菅総理大臣は総裁選挙で選ばれた人が、衆議院選挙を決めるべきだと考えている」
このような発信には党内でも疑問を投げかける声が出されていた。

そして菅は、公明党代表の山口と昼食をともにしながら、追加の経済対策をめぐって意見を交わした。
会談のあと、山口は、前日の「いまは解散できる状況ではない」という発言について、菅から直接説明を受けたことを明らかにして、こう述べた。

「菅総理大臣の言葉を、そのとおり承った。一貫してコロナ対応に最優先で取り組むという決意は全く揺るぎがないと感じた」

午後になって「人事をめぐる調整がつかず、菅総理が立候補をとりやめる」という情報が流れる。これに対し、菅サイドは「全くのデマだ」と即座に打ち消したが、情報戦は激しさを増していた。

午後4時前、党本部に赴いた菅は二階らと約15分間会談し、
再選を目指して立候補する意向を伝えた。
会談の内容はすぐ周囲に「菅総理は辞めない。そして党四役の人事を行う」と伝わった。

ただ同時に、いぶかしむ声も聞かれた。
「総裁選への立候補、党役員人事も行うのは既定路線なのに、それだけのために党本部に来たのか」

この日、菅と直接言葉を交わした与党幹部は菅の様子をこう語った。
「思ったより元気そうだった。やっぱり胆力があるなと感じた。安心していい」

衝撃の立候補断念 その理由は…

9月3日(金) 

“菅首相 自民党総裁選挙に立候補せず 自民党臨時役員会で表明”
11時49分、NHKの速報に衝撃が走った。

菅は9月6日に行いたいとしていた党役員人事についても実施しない考えを示した。
そして、月末の総裁任期満了に伴い、総理大臣も退任することになった。

午後1時すぎ、菅が約2分間記者団の取材に応じた。

「先ほど開かれた自民党役員会で、私自身、新型コロナ対策に専念をしたいという思いの中で、自民党総裁選挙には出馬をしないことを申し上げた。
今月17日から、自民党の総裁選挙が始まることになっている。私自身、出馬を予定する中で、コロナ対策と選挙活動を考えたときに莫大なエネルギーが必要だ。そういう中で、やはり両立はできず、どちらかに選択すべきだ」

総理大臣として、いま危機にある新型コロナの対応に専念したいというのが理由だった。

菅は3日に電話で公明党の山口代表に「きょうがギリギリだった」と漏らしたことが明らかになっている。

この日、人事の一任を取り付けるために予定されていた臨時総務会では、異論が出されることも想定されたが、政府関係者によると「乗り切れる」と計算していたという。

政府高官は立候補断念のタイミングをこのように解説した。
「人事をした後だと、その人まで巻き込んでしまうから、そういう意味では、きょうがギリギリのタイミングだった」

タイミングは分かるが、疑問に残るのは、前日にはわざわざ党本部に行き、二階に伝えた総裁選への立候補を、なぜ断念したのかという点だ。

総理大臣就任からこの1年、延期された東京オリンピック・パラリンピックの開催、新型コロナウイルスのワクチン接種の加速、温室効果ガスの排出2050年までに実質ゼロ、デジタル庁の設置など、実績を重ねてきた。
「菅総理だからできた」とも言われる。

一方で、デルタ株による感染者の大幅増加、長引く緊急事態宣言、低迷する内閣支持率、横浜市長選で支援した元閣僚が敗れた“横浜ショック”など、たしかに、菅をとりまく状況は一段と厳しさを増していた。気持ちが揺れること自体は不思議ではないが、それでも、再選に向けた意思をつないでいた。

菅の姿を近くで見続けた人はどう感じたのか。

「決して大きな理由1つだけということではなくて、複合的な要因が積み重なって最終的にあのように決断されたのだと思う」(政府高官)

「断念したのは1つの理由じゃないと思う。菅総理はもともと総理になるつもりはなかった。周りに推されて頑張ったのに、総理の座にしがみつこうとしているというイメージができあがり、この評価だと。それがショックだったんだと思う」(総理周辺)

「総理とは出馬しないことも含めてずっと前から話をしていた。これまでの成果にかかわらず、勝負に負けた総理になることで、これまでの成果にスポットライトがあたらずに正当な評価を受けられなくなると思ったから。しかし、決めるのは菅総理だ。仕方なかった」(閣僚の1人)

実は2日夜、菅は、周辺に総裁選に向けた公約をまとめるよう指示を出していたという。
一方で、翌3日の臨時役員会で表明する前には、官房長官の加藤をはじめ、ごく近い人には立候補しない意向を伝えていた。
とすると、意向を固めたとみられるのは宿舎に戻ってから、朝までの間だ。
その間に「立候補する」という気持ちが続かなくなった、なんらかの要因や出来事が生じた可能性がある。人事に行き詰まったのではないかという指摘もあるが、それは、いまのところ菅の胸の内にあり、明かされていない。

各党 衆院選へ

立候補断念を受けて、ポスト菅をめぐる総裁選は党内の有力議員の多くの名前があがっていて、混戦模様だ。
17日に告示されれば、複数の候補者による激しい選挙戦が繰り広げられる見通しだ。

これに対し、野党側は「コロナ禍で苦しい国民生活を置き去りにして、権力争いに明け暮れる自民党に政権担当能力はない」などと批判を強めている。
そして、総裁選後には臨時国会を開き、新内閣の政治姿勢などへの質疑を行った上で衆院選を実施するよう求めていく方針だが、菅・自民党を想定して描いてきた戦略の練り直しを迫られそうだ。
与野党決戦の衆院選は10月21日の任期満了を越えて、11月になる見通しだ。
(文中敬称略)