“黒い雨”訴訟 上告せず
政治決断の裏に何が…

広島に原爆が投下された直後に、放射性物質を含むいわゆる“黒い雨”を浴びて健康被害を受けたと住民などが訴えた裁判で、政府は上告しないことを決めた。
2審の判決には重大な法律上の問題点があるとしながら、上告しない背景には、何があったのか。
そして、原爆投下から76年となる中、問題は解決に向かうのか。
2審も国の“全面敗訴”
7月14日午後3時、広島高等裁判所。
国が指定した援護区域の外にいた原告の住民たちが、被爆者に該当するかどうかが最大の争点となった、いわゆる“黒い雨”をめぐる裁判の判決が出た。
原告の弁護士は“全面勝訴”と書いた紙を掲げた。

判決では、1審の広島地方裁判所に続き、原告全員を被爆者と認め、被爆者健康手帳を交付するよう広島市などに命じた。
政府としては、1審判決のあと“黒い雨”の援護区域を拡大することも視野に、科学的な検証を行っていた中で、“全面敗訴”と言えるものだった。

政府 受け入れは厳しい
その日の夕方、東京・霞が関の厚生労働省と法務省では、判決内容の分析に追われていた。
ある幹部は「1審の判決よりも厳しい内容だ」と、ショックを隠しきれないでいた。
今回の判決では“黒い雨”を浴びていなくても、空気中に滞留する放射性微粒子を吸い込むなどして体内に取り込んだことが否定できなければ、内部被ばくによる健康被害を受けた可能性があると指摘した。1審判決よりも、踏み込んだ判断を示していた。
厚生労働省幹部は「原爆の放射線による健康被害に給付しているという考え方に対し非常に影響が大きい判決だ」と指摘した。
法務省の幹部も「病気の発症にかかわらず、幅広く被爆者と認める内容は、ちょっと厳しすぎる。科学的根拠に基づくものではない」と語った。
政府高官も「極論すると、福島の原発事故とかでも、空気を吸った、水を飲んだ、野菜を食べたという人たちまで、被爆したと認定しないといけなくなる」と、判決が確定することで影響が波及することに懸念を示した。
「場合によっては、国の財政にも影響しかねない」そんな声も聞かれた。
厚生労働省や法務省などで対応の協議を進めたが、事務レベルでは、判決内容を受け入れるのは厳しく上告はやむを得ないという意見が支配的だった。
地元 上告断念を
政府とは対照的に、地元の広島市や広島県は、一貫して上告に否定的な立場だった。
被爆者健康手帳の交付業務は、国の委託を受けて市や県が行っていることもあり、今回の裁判の被告は、広島市と広島県だ。政府は、補助的な立場で裁判に参加していた。
広島市の松井市長らは16日に、被害者を救済するため裁判を終結させたいとして、田村厚生労働大臣に直接、市などが上告しないことを認めるよう要請した。

22日からの4連休中も、政府と市、県の担当者が対応を協議したが、こうした姿勢は変わらなかったという。
よぎる“政治決断”
一方政府内には、2審判決の直後から、上告しないという判断があるのではないかという見方が出ていた。
過去には、ハンセン病をめぐる裁判で、平成13年に当時の小泉内閣が、おととしには安倍内閣が、早期に解決を図るため、控訴を断念した例もある。

今回も、こうした“政治決断”があるかもしれない。
政府関係者の1人は、衆議院選挙が控える中で、広島では、河井元法務大臣夫妻の買収事件があったことも踏まえると、政治決断の可能性が否定できないと指摘した。
衆議院選挙で新たに広島の小選挙区に候補者を擁立する公明党からも「今、上告されるときつい」という声も上がっていた。
ある与党幹部は、判決の翌日に「困った人に寄り添う姿勢を示すためにも、政治決断として、上告は断念すべきだと菅総理大臣に伝えた」と打ち明ける。
別の与党幹部も「原爆の日の直前なので、上告したら影響はかなり大きい」と田村厚生労働大臣や加藤官房長官に伝えていたという。
それでも厚生労働省内では、1審よりもさらにハードルが上がった2審判決は受け入れ難いという考えに変わりはなかった。
「『1審と同じような判決だったら呑もうか』ともなるんだけど」という声すら漏れた。
上告期限が刻々と近づく中、上告を前提に、どのような支援策が示すことが出来るのかという検討が続けられ、21日には、こうした方針が菅総理大臣に説明された。
“急転直下”の決断
上告期限まで2日となった連休明けの26日。
取材に対する政府関係者の発言のトーンが一変した。
それまで「上告するという基本線に変わりはない」としていたが、この日は午前中から「わからない」を連発。
「総理がどう考えるかだ」と繰り返した。
総理大臣官邸には、関係省庁の幹部が、繰り返し訪れていた。
午後3時半ごろには、菅総理大臣と協議するため、田村厚生労働大臣と上川法務大臣が総理大臣官邸に入る。

「菅総理大臣が、およそ10分後に総理大臣官邸で取材に応じる」という情報が飛び込んできた。
そして菅総理大臣は記者団に、判決には政府として受け入れがたい部分もあるとしながらも、熟慮に熟慮を重ねた結果だとして、上告しないことを表明した。
“急転直下”の決断だった。
政治決断の背景には
複数の政府関係者は、この日の午後から、バタバタと物事が決まっていったと証言する。
このうちの1人は、疲れた表情でつぶやいた。
「結論は最後までわからなかった。直前、きょうの午後だ。こういう判断もあるかな、と。政治判断、政治ショーだ」
政府高官は「市と県が上告しないと言っている以上、上告する道も険しかった」とこぼした。
さらに官邸の関係者の1人は、菅総理大臣の判断をこう解説する。
「このまま裁判をやって勝てるのかという話だ。これまでも厚生労働省や法務省は『勝てる、勝てる』と言って勝てていない。次勝てるかというと、そういう状況ではないという判断だ」
一方、与党内からは、政治状況も踏まえた判断だという見方がでている。
「8月6日の原爆の日を前に、上告すれば政権への批判が噴き出しかねなかった。上告しても国が負けるのが目に見えている以上、政治判断にした方がいい」
衆議院選挙を控える中で「賢明な判断だった」と評価する声もあがった。
総理談話で政府見解明らかに
上告の見送りを受けて政府は、27日に持ち回り閣議で総理大臣談話を決定した。
判決に対する政府の見解を明らかにするためだ。
談話では、上告はしないものの判決には以下の問題点があると指摘した。
「今回の判決には、原子爆弾の健康影響に関する過去の裁判例と整合しない点があるなど、重大な法律上の問題点がある。とりわけ『黒い雨』や飲食物の摂取による内部被ばくの健康影響を、科学的な線量推計によらず、広く認めるべきとした点は、これまでの被爆者援護制度の考え方と相いれず、容認できるものではない」
そのうえで談話では、原告と同じような状況で被害にあった人も、訴訟に参加・不参加にかかわらず、被爆者として認定し救済できるよう、早急に対応を検討するなどとした。

76年目の解決なるか
上告の見送りを受け、今後はこの「原告と同じような状況で被害にあった人」の対象をどうするかなどが課題となる。
政府は、被爆者を認定するための指針の見直しに向け、検討を進める方針だ。
田村厚生労働大臣は検討を急ぐと強調する。

もう1つの被爆地・長崎では、原爆が投下されたときに、国が被爆者と認める地域の外にいた「被爆体験者」が、被爆者と認めるよう求める裁判を続けている。
厚生労働省は、被爆者認定の指針見直しの協議に、長崎市や長崎県にも加わってもらうとしている。
ただ、長崎の「被爆体験者」を被爆者に認定するかどうかは「少し別の問題だと考えている」と説明。
菅総理大臣も「長崎については、その後の裁判などの行方もあるので、そうしたことを、まず、見守っていきたい」と述べるにとどめている。

原爆が投下されてから76年。
“黒い雨”をめぐる今回の裁判の原告をはじめ、当事者は皆、高齢になっている。
政府には、談話で指摘した問題点と折り合いをつけ、関係者の納得が得られる結論を早急に出すことが迫られている。