月入学」なぜ見送り?

休校の長期化を受けて、導入の是非に関心が高まった「9月入学」。安倍総理大臣は一時、「有力な選択肢」とも言及したが、なぜ見送ったのか。
自民党の責任者のインタビューとともに、その過程をたどった。
(古垣弘人、金澤志江)

発端は知事

「思い切って9月の始業、入学を考えるタイミングだ」
発端は、知事たちの提言だった。

4月28日、宮城県の村井知事など全国17県の知事らは、オンライン会議で、「9月入学」の導入を含めた検討を政府に要請するメッセージをまとめた。新型コロナウイルスの影響に伴う臨時休校が続く中、入学や始業の時期をずらすことで、授業の時間を確保し、学習の遅れを取り戻す狙いがあった。

東京都の小池知事や大阪府の吉村知事も同様に主張。反対する知事もいたが、「9月入学」の導入を求める声が高まった。

総理も意欲

「前広にさまざまな選択肢を検討していきたい」
その翌日、安倍総理大臣は、衆議院予算委員会で、このように述べた。

「前広」という言葉で、「総理も前向きだ」と受け止められ、「9月入学」の議論が一気に盛り上がりを見せた。

文部科学省では、休校が長引いた場合に備え、来年4月からの始業時期を後ろにずらすシミュレーションを進めていたが、あくまでも始業時期の議論が中心だった。そこで、政府は、杉田官房副長官のもと、関係省庁の事務次官らが出席する会議で、「9月入学」制度の課題の整理や検討に着手した。

長年の歴史

そもそも「9月入学」制度は、中曽根内閣の頃から30年以上議論されてきた、古くて新しいテーマだ。
アメリカやイギリス、フランスなど主要国の多くが「9月入学」で、国際標準に合わせることなどがその主な理由だ。

第1次安倍政権では、「教育再生会議」を設置し、大学や大学院の「9月入学」について議論。大学の判断で始業時期を4月以外とすることを可能とする規則の改正につなげた。

また、安倍が自民党総裁として政権を奪還した2012年の衆議院選挙の党の公約にも、「大学の9月入学を促進する」と明記していた。

今回も自民党内からは「9月入学」を導入すべきだという声が上がった。
稲田幹事長代行ら女性議員グループは、「ピンチをチャンスに変える社会変革を起こすべきだ」として、「9月入学」を前向きに検討するよう安倍に要望。

文部科学大臣経験者も、「導入を前提に党で手段などを検討する。一斉休校といったことがないかぎり、この課題は動かない。これを機に『9月入学』を実現させるべきだ」と意気込んでいた。

そして、安倍も踏み込んだ。
5月14日の記者会見で、「有力な選択肢の1つだ」と述べ、今後の学校再開の状況や社会全体への影響などを見極めながら検討する考えを示した。

世論調査では…

このころ世論も「賛成」が「反対」を上回っていた。
NHKが行った世論調査では、入学時期を9月に変更することについて、「賛成」が41%、「反対」は37%だった。

この結果に、導入推進派の自民党幹部は、「反応がいい」と顔をほころばせた。
また、自民党の閣僚経験者は、「政府のコロナ対応に批判が出る事態が続いている。未来にプラスになる政策を打ち出していくのも大切だ」と指摘。「9月入学」の導入を政権浮揚につなげたいという思惑も見え隠れしていた。

議論開始も課題

自民党は作業チームを設けて検討に着手する。
座長には、安倍に近い、柴山・前文部科学大臣が就任。5月12日の初会合で、3週間後の6月初めまでに、政府への提言をまとめることを確認した。

ただ、柴山は当初から、「9月入学」の導入には課題が多いと感じていたという。
「知事会からも前向きな意見が出て、急に国民的関心を集めるようになり、緊急事態宣言がいつまで続くか分からない中、世論調査でも多くの方々が『有力な選択肢』としていたが、文部科学大臣経験者として、相当、解決すべき課題があると分かっていた」

こうした懸念は、文部科学省の報告で、早速、明らかになる。

文部科学省は、「9月入学」を来年から始めた場合の例として、2014年4月2日から翌年の9月1日までの1年5か月の間に生まれた子どもを一斉に小学1年生にする案などを示した。一方で、1学年の人数が例年より、およそ40万人増え、教師や教室の確保、それに30以上の法律の改正が必要になるなど、多くの課題が生じると指摘した。

加えて、小学校への入学を早めるのではなく、後ろにずらすことで実現させる「9月入学」は、義務教育の開始年齢を早めたいとしていた、本来の「9月入学」とは、似て非なるものだとして、議員などからは、デメリットを懸念する声も出された。

慎重論強まる

その後、5月14日には、全国の39県で緊急事態宣言が解除。
そうした中、教育や自治体などの関係者からも、慎重な意見が相次いだ。

自民党の作業チームが行ったヒアリングで、早稲田大学の田中愛治総長は、「来年3月で卒業し、就職する予定だった学生が収入を得られない状態になるのは、大きな反発を招く可能性がある」と指摘。全国高等学校長協会の荻原聡会長も、「学校システムの変更や教員の人事、カリキュラム全体の再編など、あまりに課題が多いため、慎重に検討すべきだ」と強調した。

さらに、全国市長会や全国町村会は、市区町村長へのアンケートの結果、8割以上が「9月入学」に慎重な立場や反対意見を表明したと報告。「今は感染対策に全力を挙げるべきで、『9月入学』の議論をしている状況ではない」、「職員の採用など多方面に影響が出る」などと指摘した。

柴山は、すでにこのころ提言の方向性は固まりつつあったと明かした。

「実は、関係者のヒアリングを重ねるにつれ、やはりすぐに導入することは相当重荷になると感じていた。腰を落ち着けて、学びの保障とは分けて検討するしかないと」

ヒアリングを受けて、慎重論が強まっていく。
5月22日、自民党の議員およそ60人が、待機児童の増加や労働力不足の深刻化の恐れを理由に、拙速な議論に反対する提言をまとめ、執行部に申し入れた。

提言をまとめた小林史明青年局長は、「国民は不安に思っている」と訴えた。

また議員たちのもとには、「9月入学」に反対する抗議の電話やメールが多く寄せられるようになった。特に、未就学児の親の世代からの意見が多かったという。

「9月になった場合、小学校に入学するまでの間、保育園が預かってくれるか不安だ」「移行期には1学年の児童・生徒の数が1.4倍になるとも聞く。将来の受験や就職などで不利にならないか心配だ」

ある自民党の関係者は、「検察官の定年延長を可能にする法案の数十倍もの意見が寄せられていた」と話す。

反対の大合唱

そして、5月25日。
すべての自民党議員が出席できる作業チームの会合で、若手議員を中心に、「現場の声を重く受け止めるべきだ」、「国民の理解を得るのは困難だ」などと慎重論が相次いだ。

柴山は会合の様子について「反対の大合唱」だったと振り返った。
「決定打となったのは5月25日。歴代の文部科学大臣の中には、来年度からの導入について『何とかならないか』というご意見も強かったが、若手議員らの論調とギャップがあった。ここまで隔たりが激しいのかと痛感した」

導入推進派の議員の1人も「この会合で流れが決まった」と残念そうに語った。

総理も慎重に

この会合について、報告を受けた安倍。直後に臨んだ記者会見で、「9月入学」は、子どもたちの学びを保障する上で有力な選択肢の1つだとしながらも、「学校再開の状況のほか、子どもたちや保護者はもとより社会全体への影響を見極めつつ慎重に検討していきたい。拙速は避けなければならない」と述べ、慎重に検討していく考えを示した。

関係者によると、このころ安倍は、自民党の幹部に「私からは口出しはしない」と伝えたという。
慎重論が拡大する中、党の議論に委ねることにしたものとみられる。

結論は見送り

一方、自民党内には、「来年の導入という選択肢を完全に排除すべきではない」という意見も残っていた。下村元文部科学大臣ら9人は、再び臨時休校となり、学習の遅れを取り戻すのが難しい場合に備える必要があるとして、「9月入学」の来年からの導入に向けて検討を続けていくよう柴山に求め、巻き返しを図ろうとした。

しかし、慎重論が弱まることはなかった。
安倍は5月末、自民党関係者に対し、「もうやらない」と述べ、水面下で、導入を見送る意向を伝えたという。

そして6月2日。意見集約を終えた柴山は総理大臣官邸を訪れ、安倍に最終的な提言を手渡した。

提言では、「9月入学」の導入は、国際化への対応のみならず、令和の時代に求められる社会変革・教育改革を実現する契機となり得るとする一方、幅広い制度改革には国民的な合意や、一定の期間を要するとして、「今年度・来年度のような直近の導入は困難だ」と明記。今後の議論は、専門家の意見や、広く国民の声を丁寧に聴きつつ検討するよう求めた。

これに対し安倍は、「緊急事態宣言が解除され、学びの保障をしっかりと自治体などと取り組んでいる時に、直近の今年度あるいは来年度の法改正を伴う形での制度の導入は難しい」と述べた。「9月入学」が、事実上、見送られた瞬間だった。

柴山は、今回の結論となった背景について、次のように説明した。

「世論は当初『9月入学』に賛成多数だった。だが緊急事態宣言が全国で解除され、6月には学校が段階的に再開されるメドがついたことで、五分五分か反対多数に逆転したと感じた。そのことも私たちの判断を後押しした」

一方で、内閣支持率が決断に影響した可能性を指摘する声もある。

ある閣僚経験者は、「内閣支持率が下がる中、党や世論を二分するような政策を選択する必要はないという判断だったのではないか。支持率がもっと高ければ、思い切って実行していた可能性もある」と分析する。

野党は

一連の経緯に対し、立憲民主党の安住国会対策委員長は、「教育現場のことを考慮せず、安倍総理大臣が軽々しく『前広にさまざまな選択肢を検討していきたい』と述べた責任は大変重く、小学生でも『どうかな』と思う。政府・与党に猛省を促したい」と批判。

その上で、「『9月入学』の是非は、5年、10年をかけてしっかり議論すればいいが、ことしの修学の遅れを解決することに全力を挙げるべきだ」と述べた。

また、国民民主党は、「9月入学」自体は、就学前の子どもたちへの影響が大きすぎるなどとして、導入を見送るべきだとする一方、受験生にも学びの格差や遅れが生じているとして、来年に限って大学入試の時期を遅らせて春と夏の2回行うべきだとしている。

玉木代表は、「政府は、9月入学の導入を見送るだけでは無責任で、受験生が心配している大学入試の時期などについて方針を示すべきだ」と述べた。

子どもの未来には国民的議論を

自民党の提言には、秋季入学の導入の可能性について、「政府は、総理の下の会議体で検討すべきだ」とも盛り込まれている。
安倍は提言を受けた際、「『9月入学』の問題について、多くの国民の関心が高まったのは、意義深い。引き続き腰を落ち着けて議論することを提言に盛り込んでもらい、ありがたい」と述べたという。
柴山も「秋季入学をはじめとした教育改革全般について、省庁横断でじっくりと検討してもらうのがふさわしい。党でもしっかりと場を設けて議論したい」と述べた。
政府・自民党は、長期的な課題として検討を続ける方針だ。

臨時休校が続く中、私(古垣)は、妻と連日、「9月入学」の話をしていた。次女はことし6歳。導入されれば、影響を受ける可能性があったからだ。私の一家と同じように、疑問や不安、あるいは期待を抱いた人たちもいることだろう。

入学時期などの変更は、子どもたちの未来に大きな影響を及ぼし、日本社会全体のあり方にも関わることで、十分な国民的議論が求められるのは言うまでもない。

その行方をこれからも注視していきたい。
(文中敬称略)

政治部記者
古垣 弘人
2010年入局。京都局を経て15年に政治部へ。18年秋から、自民党の細田派担当に。3人娘の父親。
政治部記者
金澤 志江
2011年入局。山形局、仙台局を経て政治部へ。19年秋から、文部科学省担当に。