ースター島が日本に?
外交“公”文書が歴史を作る

突然ですが、モアイ像で知られるイースター島が日本の領土になる可能性があったことをご存じですか。1937年、チリの日本大使館から本国に送られた公電、外交文書が伝える歴史的事実です。
こうした事実は、外交文書が公開されなければ埋もれていたかもしれません。しかし、外交文書はすべてが明らかにされるわけではなく、「極秘」や「秘」といった機密指定で厚いベールに包まれている一面もあります。財務省による決裁文書の改ざんなどで公文書の管理のあり方が問われていますが、外交の分野では、文書の公開の仕方ひとつで歴史が変わりかねない、そんな大きな影響があることが見えてきました。
(政治部 外務省担当記者・辻浩平)

イースター島、買いませんか?

モアイ像で知られる南米チリのイースター島。世界遺産で知られるこの島が、日本に売却されようとしていたのです。時は1930年代、売却しようとしていたのは、当時のチリ政府です。軍艦建造の財源を捻出しようと、日本政府に購入を打診しました。

これを伝えるのが1937年にチリにある日本大使館から送られた公電です。極秘と記された公電には、購入について、「『インタレスト(関心)』ヲ有スルヤ否ヤ」とチリ政府からの照会内容が記されています。

島の概要や地図など参考資料も添付されています。これを受けて、日本政府は当時の日本海軍と水産関連企業と協議。海軍からは、「軍事上の価値はそれほどないが、航空機が発達すれば航空路用地として有用」などの返答があったと記録されています。

このあと、日本政府は、チリ政府がアメリカやイギリスにも売却を打診していたことを知り、結果的に購入には踏み切りませんでした。イースター島が世界的な名所になっている現状を考えると、購入していればどうなっていたのか、想像は膨らみます。公文書が伝える知られざる歴史の一幕です。

「極秘」の壁

東京・港区麻布台にある外交史料館。さきほど、紹介したイースター島売却に関する外交文書も含めて、首脳会談の記録や各国に置かれた大使館からの公電など12万点以上が収められています。古くは150年以上前の江戸時代末期に黒船がやってきた、あの「ペリー来航」の顛末を徳川幕府が記した文書もあります。

外交文書専門の史料館がある点では、他の省庁とは異なっています。しかし、外交文書は「外務省の公文書」であり、ほかの省庁と同じように「公文書管理法」やそれに基づく国の指針「ガイドライン」に沿って管理されています。保存すべき文書の種類や保存期間は、ガイドラインにもとづいてそれぞれの担当部署が決めています。
首脳会談の記録や条約締結の経緯に関する文書などといった重要な文書は、現在は、外務省内に保存する期間が定められ、原則最も長い場合は30年間置かれます。保存期間を決める際、期間終了後、廃棄するか、外交史料館に移し歴史的な資料として保管するかどうかは、外務省が判断しています。

一方、外交文書も他の公文書と同様に公開の対象となりますが、「極秘」や「秘」といった機密指定されることも多く、単純にすべてが公開されるわけではありません。

保存期間が過ぎ外交史料館に移された文書であっても、担当部署が国の安全保障に影響を与えると判断した場合などは、一部が「黒塗り」にされることがあります。また、北方領土交渉が続く日ロ関係など、現在の政策に影響が及ぶ可能性がある文書については、依然として公開されていません。

公開しなければ、歴史の“覇権”を奪われる

外交文書は、歴史を語る上で欠かせない資料です。
常に相手の国がいる外交において、一方の国だけが文書を公開したらどうなるでしょうか。歴史が、一方の国の視点だけで描かれ、公開しない国の考えや行動は反映されにくくなります。

こうした外交文書の扱いについて、東アジアの外交史に詳しい東京大学大学院の川島真教授が提唱しているのが、「アーカイバル・ヘゲモニー」です。直訳すると「歴史記録の覇権」。国際政治で、自国の利益のために主導権を発揮したり、他国に影響力を行使したりする考え方になぞらえて、表現した言葉です。

「外交文書の情報公開は歴史を左右するもので、未来の世代への説明責任だ。外交の現場で何が行われていたのか。当時の政府が何を意図し、考え、どのような行動を取っていたのかは、明らかにされなければならない」

川島教授は、歴史が一方的でなく、公正に、そして正確に記録されるために外交文書の公開の重要性を指摘しているのです。

「TOP SECRET」が語る沖縄返還

実際に歴史が一方的に描かれていたケースがあります。沖縄の返還交渉です。
1960年代から70年代にかけて行われたこの交渉をめぐっては、公文書の公開が進んでいるアメリカ側の外交文書によって歴史がひもとかれてきました。代表的な文書の一つが、「TOP SECRET」と書かれた「NSDM13・国家安全保障決定覚書13号」です。

アメリカ政府の外交・安全保障政策の最高意思決定機関、国家安全保障会議が作成したこの文書には、沖縄返還交渉の基本方針が記されています。
当時、焦点は返還後の沖縄への核兵器の持ち込みと基地からの米軍機の自由な出撃を認めるかどうかでした。

「NSDM13」には、
・沖縄からの核兵器撤去を検討するものの、返還後も有事の際には再び持ち込めるようにすること
・朝鮮半島やベトナムなどへの米軍機の出撃を念頭に、沖縄の基地をアメリカが自由に使えること
など4項目が書かれています。

日本外交史や沖縄の返還交渉に詳しい龍谷大学の中島琢磨教授は、「結果的に、交渉結果がおおむねこの方針通りとなったことで、日本側は交渉で一方的に『やりこめられた』というイメージで歴史が描かれてきた」と指摘します。

公開で浮かび上がる“日本の抵抗”

ところが、日本でも情報公開が進んだ2010年以降、日本側の激しい抵抗が明らかになります。核兵器の持ち込みは、有事の際でも日米安全保障条約の範囲外だと反対し、さらに迫るアメリカに対しても、国会の承認が得られないと繰り返し主張しました。また、基地の使用については、ベトナム戦争が続いていた1969年の愛知揆一外相とマイヤー駐日大使の会談記録が注目に値します。

アメリカが求めたのは、沖縄の基地から、日本政府との事前協議を必要としないベトナムや朝鮮半島への爆撃機などの出撃。これに対し、愛知外相は、「率直に言って甚だ困難乃至不可能と思う」と述べたと記録されています。
中島教授は、文書に記された「日本政府の抵抗」を初めて目にした時の印象を次のように振り返ります。

「最初は信じられなかった。交渉はアメリカ主導で進んでいたのが歴史の捉え方だっただけに、日本が丁々発止の交渉をしていたことは驚きだった。日本側の公文書も出てきたことで、日本政府が当時、何を考え、どういう主張を展開していたかを知ることができ、歴史を一方的でなく立体的に捉えることができるようになった」

こうした情報公開が進んだ理由について、2009年から行われた沖縄への核兵器の持ち込みをめぐる密約問題などの調査がきっかけだったと研究者は口をそろえます。

それ以来、外務省は情報公開のルールを徹底するようになり、文書の黒塗りの部分が著しく減ったということです。つまり、「密約問題」という外からの力がなければ、情報公開は進まなかったということです。

「歴史は勝者によって書かれる」

イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルが語ったとされる言葉です。
勝てば官軍とも言われるように、歴史は、自己を正当化する勝者の視点で描かれてきたという側面があります。しかし、情報公開の仕組みや情報の伝達が進んだ現代においては、必ずしも当てはまらないかもしれません。逆に現代だからこそ、公文書の公開状況や文書の質と量が、歴史の描かれ方に大きな影響を及ぼす可能性があります。

未来への説明責任が問われている

アーカイバル・ヘゲモニーを提唱する川島教授は、外交文書の情報公開は前進したものの、まだ多くの問題を抱えていると指摘しています。どの公文書を残し、廃棄するかは文書を作成した政府側が判断するため、都合の悪い事実が後世に伝えられないおそれがあるというのです。その上で、政治家や官僚の姿勢を正す意味でも問われるのは公文書管理の厳格性だと強調しています。

「情報公開によって、将来的に仕事の審判を受ける仕組みを作ることで、政治家や官僚が緊張感を持って職務にあたることにつながる。未来への説明責任を果たし、歴史を正しく記録するために公文書を厳格に保存・管理していけるか、そのあり方から変えていく必要がある」

いま、公文書管理のあり方が深刻な問題となっています。私がこの取材を始めるきっかけになったのは、公文書の不十分な管理や公開されないことが、外交にどのような影響を与えるか興味を持ったからでした。ある国が一面的に歴史を描こうとすれば、関係する国との摩擦は避けられず、とりわけ領土や歴史認識をめぐっては難しい問題へと発展することもあります。それだけに、外交文書についても正確に記録し、適正に管理して、積極的に公開していく必要性は増していると強く感じました。

政治部記者
辻 浩平
平成14年入局。鳥取局、エルサレム特派員、盛岡局などを経て政治部。現在、外務省担当。