発で爆発! その時、官邸は

原発で、爆発。
9年前のその時、官邸はどう動いたのか。
当時「危機管理」を担当していた男が、初めて語った。
その時の判断は、そして教訓は何か。
(古垣弘人)

「安全神話に安住していた」

「安全神話に安住していた。準備が全くできていなかった。それが本当に大きな反省点です」

そう語るのは、総理大臣官邸で危機管理を担ってきた髙橋清孝(63)。今回、初めてインタビューに応じ、9年前のあの日を振り返った。

髙橋は警察庁に入庁して以来、北海道警察本部長や警察庁警備局長、それに警視総監を歴任。去年4月までは内閣危機管理監を務め、西日本豪雨や、北朝鮮によるミサイル発射への対応などにあたった。

東日本大震災当時は、内閣官房の「危機管理審議官」を務めていた髙橋。あの真っただ中で、総理大臣官邸の「危機管理センター」の取りまとめ役を担っていた。

「私の経験や課題を皆さんにお知らせし、日本の危機管理が少しでもよくなって、国民の皆さんが安心して、生活できるようになればいい」

当時のメモを読み返しながら、語り始めた――

「100時間、眠れなかった」

あの時、髙橋は、居室のある、官邸の隣の建物にいた。
「8階にいましたので、かなり揺れて。すぐに飛び出して、階段で1階まで降り、走って行きました」

駆けつけたのは、官邸の地下にある「危機管理センター」。

緊急時には、関係省庁の局長級で作る「緊急参集チーム」のメンバーが集まり、内閣危機管理監をトップに初動対応にあたることになっている。髙橋は、このチームの「番頭役」だった。

「被害状況を確認するのが一番です。それから、すぐに大津波警報が出ましたから、被害を防ぐために、沿岸にいる人たちにどうやって知らせて避難してもらうか。その広報をすぐやった。無線とかヘリコプターからの呼びかけとか」

救命救助活動が進められる中、東京電力福島第一原発の状況は、時々刻々と悪化した。東京電力からは、異常事態を知らせる通報などが次々と寄せられ、当時の菅総理大臣が「原子力緊急事態」を宣言した。

センターで対応に当たる人の数は、時間を追うごとに増えていったという。

「状況の変化で、ますます必死というか、『原発も大変だ』っていう思いがみんなに漂ってきた。地震だけではなくて、原発関係の対応もあるので、人はどんどん、どんどん増えていった」

「もうそこから4日間は、本当に一睡もできずに、協議をする部屋の自分の椅子にずっと座っていました。約100時間。人間、そのくらい寝ないでやれるんだなと。その後も、家に帰ったのは1週間後ぐらいですかね。外の世界のことは全く分からず、初動対処に没頭していました。もう必死だった。みんな全員」

原発事故「全く準備がなかった」

原子力災害への対応には、反省点があるという。

「地震・津波といった自然災害の部分は、それまでの訓練とか実際に新潟県中越地震とかの対応をやってきたので、かなりできたと思うんですけど、やはり一番大きな問題は、原子力災害への対応。準備が全くできていなかったと率直に思います。それはもう本当に大きな反省点です」

その例の1つとして、髙橋が挙げたのが、原子炉冷却のオペレーションだ。

福島第一原発では、津波で、非常用発電機のほか、設備に電気を送るための配電盤やバッテリーなども、ほとんどが水につかり、冷却に必要な電源が全て失われた。被害の拡大を防ぐため、原子炉をどう冷却するのか。

1999年、茨城県東海村で起きた臨界事故。

それを教訓に、定期的に、原子力災害に備えた訓練を行ってきたが、髙橋によれば、全ての電源が失われることまでは想定していなかったという。

「汚染されているし、爆発もしている。そういう状態でどうするか。どうやって水をかけるかと、みんなで知恵を絞り、やれることをやっていこうと。自分でバケツで水をかけてでもいいから、何とか冷やしたいという思いだった」

そして、警察や自衛隊のほか、建設用の車両まで使って、原子炉の冷却にあたった。

「まず、警察が持っているデモ隊鎮圧のための放水車でやろうということでスタートして、自衛隊も山林火災の時などに使うヘリコプターで海水をくみ上げてまくと」

「そしたら、誰かからアイデアが出されて、高層ビルの建築で上の方にコンクリートを流し込む、最高70メートルの高さまで伸びるポンプ車、『キリン』って言ってたのかな、それを持って行って、水を入れた」

まさに「想定外」に対し、その場、その場で考え、対応していくしかない状況だった。

寝たきり患者の避難も「想定外」

課題が浮き彫りとなった例はほかにもある。入院患者などの避難だ。

福島第一原発から4キロ余り離れた福島県大熊町の双葉病院。3月12日、原発の状況を踏まえ、避難指示が出された。自力で歩くことができる人などは避難したものの、寝たきりの患者などが残された。

そんな状況で、原発で水素爆発が発生した。髙橋は、残された200人余りの避難のオペレーションを担うことになった。これもまた「想定外」だったという。

「そういう病院があるっていうこととか、どういう人たちが何人いるかとか、そういう把握もできてない。避難をしてもらうのに、どの手段を使えばいいか。民間のバスが使えるのか使えないのか。どこに避難させるのか。全てが決まっていなかった。それでもすぐに避難させなきゃいけない。何も決まってない中でスタートした」

危機管理センターでは、警察、自衛隊、厚生労働省など関係機関を中心に対応を協議。避難指示から2日後の14日未明に、孤立した双葉病院に自衛隊の救助部隊が到着し、残された人たちの避難が始まった。

このうち最初に避難した一行は、バスに乗って福島県いわき市を目指した。しかし避難指示が出ている地域を避けるため、大きくう回。受け入れ先もなかなか決まらず、ふだんなら1時間程度で到着する避難先にたどりつくまで、およそ半日かかったという。

そして、最終的に双葉病院から全員救助されたのは、事故から5日後の16 日だった。

患者らは長時間の避難で体力を奪われて衰弱状態に陥り、8人は移動中のバスの中で死亡。避難先などでも次々と亡くなった。その後、東京電力の元幹部3人は、44人を避難の過程で死亡させたなどの罪に問われ、去年9月、東京地方裁判所が無罪を言い渡したが、検察官役の指定弁護士が控訴。今後、2審の東京高等裁判所で改めて審理されることになっている。

「どんな状況であろうが、何とかしてそこから出すしかない。どこに避難させるのか決まらないままでスタートしたので、結局、いわきに行くのに、即ではなくて、逆に北の方に向かって、西の方に向かって、ぐるっと行ったと思う。時間も相当かかった。オペレーションとしてもうまくいかない面が多々あった。計画とかがあれば、少しでも被害を減らせたのではないか。本当に悔いが残る。反省点はそういうことです。皆さんに迷惑をかけたと思っています」

正しい「憂い」を持つこと

こうした経験から、高橋が得た大きな教訓は、『憂いなければ、備えなし』だという。

「よく、『備えあれば憂いなし』って言われますけど、それはその通りだと思います。では、その備えをどうするかというためには、やっぱり、正しい『憂い』を持つこと。災害や緊急事態について、正しく恐れることが大事だと思います。そのことによって準備ができる。しなきゃいけないと」

福島第一原発の事故を受け、原発から30キロ圏内の自治体には、事故に備えた避難計画の作成が義務づけられた。「教訓」が反映された形だ。全国の原発で事故があった際に、入院患者なども含め、住民をどこに、どのように避難させるのか。緊急対応策が策定されている。

さらに各地の原発でも、津波の届かない高台への電源車の配備や、貯水池の設置、それに、数多くの消防車の配備などが進んだ。髙橋は震災後、内閣危機管理監としておよそ5年ぶりに総理大臣官邸に戻った際、「ここまで備えが進んだのか」と驚いたという。

ただ、こうした計画も、住民の移動手段として船やヘリコプターを使ったり、避難ルートに土砂災害や津波による浸水の危険性があったりするなど、いざという時に想定通り避難できるのか課題となっている。

この点については、実効性を高めていく努力が必要だと強調する。

「完璧とは全然思っていないので、それが実際に機能するように道路の状況を確認するとか、天気が悪かったらどうするのかとか、いろいろある。計画が全然ない状態よりはよくなったという程度であり、本当に1人でも犠牲者を出さないよう、意味あるものにすべきだと思っています。それはもう役所だけではなくて、住民の協力が必要なので、住民の人たちに周知して、速やかに動けるようにするっていうのが大事だと思います。訓練をやり、見直しをやり、繰り返しずっとやっていく必要があるのではないかと思います」

情報は「発信」も「収集」も課題

さらに改善すべき点はあると指摘する。その1つが、災害時の政府からの情報「発信」のしかただ。

当時、刻々と変わる原発の状況や避難などの情報については、当時の枝野官房長官が1日に何度も記者会見を行って発信していたが、見直しも検討すべきだという。

「官房長官がメインで、記者会見でいろいろやっていたけれども、やはり難しい。官房長官はスポークスマンの前に、政策決定権者、内閣の要だ。官房副長官なのか、もう1人くらい、危機管理の時の広報官というかスポークスマンをちゃんと立てるべきだと思う」

また、情報「収集」の方も課題だ。
髙橋は、被災地域の住民にSNSで積極的に情報を発信してもらい、政府がそれを集約するシステムを整えるべきだと強調する。

「大規模な地震をイメージして言うと、『ツイッター』とか『LINE』とか、そういうもので、被災者や住民1人1人が、被害情報の発信者になっていただきたい。それを集約することで、短時間で全体像や個別の要救助事案、対処しなきゃいけない事案が見える時代になってきてる。そこをぜひシステムにしてほしい」

「TKB」で関連死を防げ

さらに、「災害関連死」を防ぐ取り組みも重要だという。
東日本大震災では、避難生活が長引き、避難所を出たあとの仮設住宅でも、心臓病などの持病が悪化したり、ストレスによって病気を引き起こしたりして亡くなる人が相次いだ。

福島県では、病気で亡くなった人だけでなく、原発事故によるストレスで自殺したケースも認定され、東日本大震災での「災害関連死」は、3700人以上に上っている。

「私自身、現職の時はまだちょっと意識が十分ではなかったが、災害関連死は、やっぱり何とかして防げる死じゃないかと。できるだけ早い段階で居住環境も良くし、温かいご飯と味噌汁が提供できるようにできないかなと。健康管理や精神状態がプラスにいくのではないかと思う」

髙橋は、避難所で被災直後から温かいパスタが提供されたり、被災した家族ごとにテントとベッドが支給されたりするイタリアの例などを参考に、避難所の「TKB」=トイレ・キッチン・ベッドの整備を進めるべきだと指摘する。

未知の事態にどう備えるか

今回のインタビューで、髙橋が教訓として一貫して強調したのが、「経験したことのない大規模な事態にどう備えるか」だった。

私たちは、今まさに、未知なる新型コロナウイルスの感染拡大に直面している。果たして備えは十分だったのか、見えてくる課題は何なのか。

来年で、あの日から10年の節目となる。これからも危機管理のあり方を検証し、「想定外」に備えていかなければならない。
(文中敬称略・冒頭の画像に東京電力撮影の福島第一原発の写真を使用)

政治部記者
古垣 弘人
2010年入局。京都局を経て15年に政治部へ。その後3年間、官邸クラブで危機管理を取材。現在は自民党細田派を担当。