われてもいい、この私を見ろ

「立候補を届け出たのは…」
「えっ?」思わず耳を疑った。

北海道東部、羅臼町。4月16日。
町議会議員選挙が告示されていた。
事前の情報では、立候補者数が定員に満たない「定員割れ」が懸念されていた。
「危機」を救ったのは89歳。実に16年ぶりの再登板だった。
(釧路放送局・中標津支局 原田未央)

自力で登れ

「よっこらしょ」
杖をつきながら階段をようやく登り切り、一息つく。
当選した、井上章二さん(89歳)。

この日(5月8日)は、当選後初めての本会議。
役場では経費削減でエレベーターが停まっていて、議場のある3階まで階段で上がった。

井上さんは12年間、町議を務めた「元職」だ。
16年ぶりの議席から周囲を見回すと、井上さん以外は全員、戦後生まれ。

議長を決める選挙の際には、最年長者として臨時の議長を務めた。

まだまだ現役、とはいえ…

実は井上さん、第一線は退いたものの、現役の社会保険労務士・行政書士でもある。

三重県出身で東京の大学を卒業後、父親が商売をしていた羅臼町へ。「歳を重ねても学び続けられる仕事を」と資格を取得し、羅臼町で事務所を開いた。

第2の故郷に恩返しをしたいと、平成3年に立候補し初当選。福祉の充実に重点を置いた。

生涯現役がモットーとは言え、いまは肺気腫を患う井上さん。息が苦しくなった時に吸入するための酸素ボンベが欠かせない。外出時には専用のカートに乗せて持ち運ぶ。

そんな体を奮い立たせ、16年ぶりの再挑戦に駆り立てたものは何だったのだろうか。

決断は当日、突然に

今回の統一地方選挙で、全国的に顕著となった地方議員のなり手不足。

定員10人の羅臼町議会では、選挙前に現職1人が引退を表明。告示日直前まで現職以外に立候補の動きがなく、羅臼町議会初の「定員割れ」が懸念されていた。

そして迎えた告示日。
朝一番で現職9人が届け出て、それぞれ選挙活動へと向かった。

「やはり、あと1人足りない」
そんな中、杖をついた高齢の男性が選挙管理委員会の部屋に現れた。

仕事の用件で役場を訪れていた井上さんだった。

自ら立候補する気はなかった、という井上さん。
「若い世代に出てきてほしい」そう願っていた。

しかし…。
選挙管理委員会から状況を聞いて思った。
「誰かがやらねば」

その場で立候補を決意。
「もし夕方までに若い人が来たら取り下げてほしい」と言葉を添えた。

「若い人」は現れなかった。

立候補者は定員と同じ10人。全員の無投票当選が決まった。

それでも立ち上がる理由

立候補の大きな理由。それは「定員を満たすべきだ」という思いだ。

かつては地方自治法で人口に応じた数で決められていた市町村議員の定員は、いまは市町村の条例で定められている。羅臼町では14年前に16人から10人へ、大幅削減した経緯がある。

自分たちで決定した定員を守る責務があると、強く訴える。

知床半島の東側にある羅臼町には、国内外から観光客が集まる一方、基幹産業の漁業が低迷。
20キロ余り先にある北方領土・国後島が間近に望めるが、海ではロシア側とのトラブルも相次ぐ。

減り続けた人口は5000人を割り、ピーク時の半数近くまで落ち込んでいる。

こうした地域の厳しい現状が、議員のなり手不足に影響していると、井上さんは考えている。

引退を決めた人も

今回の選挙を機に、町議を引退した人もいる。宮腰實さんは、70歳という年齢を節目に考えたのだという。

羅臼町で唯一の整骨院を営みながら、計12年間、町議を務めた宮腰さん。
町議としての責任を果たそうと、「この人なら」と見込んだ若手に立候補を持ちかけたが、実現しなかったという。

地域を良くしたいという気概を持つ若者は少なくないが、議員になろうという人はなかなかいない。
「議会は他人任せ、という空気をなんとなく感じる。いまは、議員という立場にこだわらなくても地域おこしイベントの開催など、町のためにできることが増えたのかもしれない」

道内で4番目に低い報酬

井上さんは、町議の報酬の低さも原因の一つではないかと考えている。

羅臼町の議員報酬は、月14万8000円。
全国町村議会議長会によると、北海道の144町村の中で4番目に安い額だ。(※平成30年7月現在)

法に則り労働者を守る社会保険労務士という仕事と、元議員という立場から、定員を守ることへの思いが強かったという井上さん。

一方で「若い人たちが活躍できる議会、地域であるべきだ」という思いも強い。

笑われてもいい。高齢の自分が立候補することで、町民に危機感を持ってもらいたい。
「89歳が出なくちゃいけない羅臼じゃだめなんだ。そのことに気付いてほしい」

行政や議会だけではなく、町民全体が危機感を持ち、町の課題を共有することで、三位一体となったまちづくりにつながるはずだ。
「自分の行動が、そのきっかけの一つになったら」

「now or never」

井上さんにはほかにも取り組みたいことがある。

学生時代、横須賀市のアメリカ軍基地で働いていた経験があり、社会保険労務士として外国人労働者の環境改善に思いを巡らせてきた。6年前には、公共施設で使ってもらおうと緊急時に役立つチェックシートを個人的に作成したことも。

議員としても今後、羅臼を訪れる外国人観光客へのホスピタリティ向上を目指したいと意気込む。

座右の銘は「now or never(やるなら、今だ)」

生涯現役でいるためには、蓄えた知識と経験におぼれることなく学び続け、社会の変化に対応して進化していくことが必要だと考える。

それは社会保険労務士も、議員も、同じことではないか。

「笑われてもいい」

地方議員のなり手不足を象徴するような89歳の再登板。

「笑われてもいい」
町の未来を憂える真剣な眼差しに背筋が伸びる思いがした。

中標津支局記者
原田 未央
地方紙記者を経て平成29年から民間通報員として現所属。シングルマザー歴10年、高校球児の道具代と遠征費と食費の圧迫に耐え忍ぶ日々を送る。