“新元号”考案者を探せ!

新元号の決定、そして発表まで、あと5日。
どのように絞り込まれ、そして決め手は何か。
しかし政府は、新元号の決定後も、考案者の名前や候補となった案を、公表しない方針だ。

ならば、秘密のベールに包まれた元号選定作業の一端を自分たちの手で明らかにしよう。私たち取材班は、“考案者”の探索を通じ、ありうべき元号像を探ることにした。
新元号発表を目前に、数か月に及んだ私たちの取材の軌跡を報告する。
(政治部・官邸クラブ取材班)

元号の考案プロセス

「新しい元号は、『平成』であります」
昭和64年1月7日午後2時36分。
小渕官房長官(当時)は、「大化」から数えて247番目となる新しい元号が「平成」と決まったことを発表した。

元号の考案とは、どのように進められるのか。
政府は「元号選定手続」で、以下のようにその手順を定めている。

①総理大臣は、高い識見を有する者を選び、次の元号にふさわしい候補名の考案を委嘱する。
②委嘱する考案者の数は若干名とする。
③総理大臣は、各考案者に対し、おおよそ2ないし5の候補名の提出を求める。
④考案者は、候補名の提出にあたり、各候補名の意味、典拠(出典)などの説明を付する。

こうして「若干名」の考案者たちから提出された候補名は、官房長官が検討・整理した上で総理大臣に報告し、「原案」としてさらに数個に絞り込まれる。

その後、各界の有識者らからなる「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長からの意見聴取、全閣僚会議での協議を経て、閣議で元号を改める政令として決定され、発表に至る。

ただし、こうした手続きは、いわば決定直前の「表向き」の段取りだ。

政府は、平成への改元直後から、万一の事態にも対応できるよう、秘密裏に複数の専門家に新元号の考案を依頼している。政府関係者によると、この間に受け取った候補名は、100はいかないまでも数十に上るといい、先月末の段階で、十数個に絞られていた。

こうした中で、3月24日、菅官房長官は10日前の3月14日に新元号の考案を専門家に正式に委嘱したことを明らかにした。

菅官房長官の発言は、十数案からの絞り込みが進み、残った候補名の考案者に対して、正式に考案を依頼する手続きを行ったことを意味し、選定作業が最終段階に至りつつあることを示すものだ。

考案者の“共通項”

「平成」の発表から、30年余り。政府はいまだ、その考案者を公表していない。
その理由について、政府関係者は言う。
「公表すると、元号と人(考案者)が結びついてしまう。両者が一致してしまっては、その人や親族に迷惑がかかる。たとえ亡くなっていたとしてもだ。だから改元から30年余りが経った今でさえ公表は早い。選定から漏れた原案や考案者を明らかにしないのも、大変な苦労をかけたうえに迷惑をかけることを避けるためだ」

平成への改元で、「原案」として各界の有識者らに示されたのは、「平成」のほか、「修文」「正化」の合わせて3つ。元号の選定に携わってきた政府関係者によると、考案に関わる資料は、ほとんどなく、これら「原案」と考案者とを結びつける文書も残されていないという。

ただ当時、元号の選定に深く関わっていた的場順三・内閣内政審議室長(当時)は、これまでの取材に対し、「平成」は、東洋史が専門の山本達郎・東京大学名誉教授が、

「修文」は、中国文学が専門の目加田誠・九州大学名誉教授が、

そして「正化」は、中国哲学が専門の宇野精一・東京大学名誉教授が、それぞれ提出したものだと明らかにしている。

いずれもすでに故人だ。共通するのは、中国を中心とした東洋思想や歴史、そして漢文で書かれた中国古典に精通していることだ。

当時、すでに山本氏はその功績により文化功労者に選ばれており、目加田氏、宇野氏は、いずれも昭和40年代に中国文学や哲学の研究者でつくる「日本中国学会」の理事長を務めた経験を有していた。言わば、その道の大家、いわゆる泰斗だ。

「日本学士院」も共通項

もう1つ、このうち山本氏と目加田氏に共通していたことがある。
「日本学士院」の会員だったという点だ。

日本学士院は、国が法律に基づいて学術上の功績顕著な研究者を優遇するための機関だ。会員になれるのは、日本の学術界から選ばれた150人だけ。「文学・史学・哲学」の分野の定員はわずか30人。会員に選ばれると特別職の国家公務員となり、国からは年金が支給される。身分は終身だ。

的場氏は、考案者を選ぶ上での考え方を語っている。

「大学の先生方の世界でもジェラシーがあるわけで、『なぜあいつで、俺じゃないのか』と言われたら困る。最低限でも日本学士院の会員であること。そして文化功労者や文化勲章の受章者であること。それに匹敵する著名な人という感じだ」

考案者候補をリストアップ

こうした共通項を踏まえた新元号の考案者の条件は以下のとおりだ。

▽東洋の思想や歴史、文学などを専門としていること。
▽日本学士院の会員や文化功労者、文化勲章受章者であるなど、その功績が学術界で高く評価されていること。

私たちは、関連する分野の研究者や学術書を刊行する出版社の関係者らへの取材をもとに、考案を委嘱される可能性がある14人の専門家をリストアップ。
官邸クラブに所属する11人の記者が、それぞれ担当する人物に接触を開始した。

探索開始!

「平成」の元号を考案した東洋史学者、山本達郎・東京大学名誉教授。その山本氏の下で学んだ中国史の専門家がいる。
斯波義信・東京大学名誉教授(88)だ。

日本学士院の会員で、文化功労者。平成29年には文化勲章も受章している。
私たちは、新元号の考案者になり得る1人と見て、まずこの斯波氏に話を聞くところから始めた。

斯波氏は、恩師である山本氏を振り返った。
「大変スマートで、人柄も優しいジェントルマン。若くて駆け出しの研究者だった我々の言うことにも耳を傾けてくださった。先生は融和、調和、バランスを非常に重んじておられた。『平成』は、漢字としても意味としてもバランスがよく取れていて、先生のそうした性格、学問への姿勢も反映されているんじゃないかと思う」

弟子が読み解く「平成」

山本氏が考案した「平成」は、2つの中国の古典に典拠(出典)を求めている。
司馬遷による歴史書「史記」にある「内平外成(=内平かに外成る)」、

そして政治史などが記された中国の古典「書経」の「地平天成(=地平かに天成る)」という文言だ。

斯波氏は、「平成」の2字に込められた意味を次のように解説する。

「『平』というのは、宇宙の巡り、すなわち政治がうまくいっているという意味なんですね。『成』もまた、中国でいう『五行』(=木・火・土・金・水の5つの元素が天地の間の万物を構成するとした中国古代の世界観)、要するに世界の原理が、順調に、順序どおりにいっていることを言うんです。『平』も『成』も、政治がうまくいっている、人間の営みが万事順調にいっているということを意味している。その時代は、うまく治まって、すべて順調に物事が運ぶということになる」

考案者ですか?

「平成」の考案について、公にすることなくこの世を去った山本氏。
弟子には、どのように伝えていたのか。

「生前からしたら、もう60何年、恩師と思っているんですけど、私は、全然、聞いたことがなかったんです。たぶん、ご家族にも言っていないと思います」

長年、「平成」の考案者から指導を受けてきた斯波氏。政府から考案を依頼されてはいないのか。

「政府からの接触は全然ない。山本先生は、漢学(=中国古典を通じた研究)、東洋学の権威者、最長老の立場にあった。私の専門は、中国の社会や経済、どちらかというと俗な分野をやっているので少し違う。本当にないんです。中国哲学や中国文学を研究している方であれば知識も深いと思う。考案者になるのは、その人がこれだと言えば学問の世界でも誰も反対しないというような人ではないか」

2人の京の泰斗

「大化」から「平成」に至るまで1300年余りの間に使われてきた247の元号。
専門家によると、そのすべてが「漢籍」(=漢文で書かれた中国古典)が典拠になっているとされる。
ある政府関係者は言う。
「日本の歴史から出来ている書物を典拠に取れという意見もあるが、その頃の政治状況については歴史家の評価がいろいろある。役人の仕事はリスクを最低限にするのが基本。中国の書物から取るほうが安心感があるし、ずっとそうしてきている。元号で独自色を出す必要はないのではないか」

今回も「漢籍」が典拠となるのではないか。

リストアップした専門家たちに取材を進めるものの、なかなか取材に応じてもらえない。
「自分は関わりがない」「元号に携わっている人に迷惑をかける」「役立つ話はできないよ」

しかし、何度か接触を試みるうちに取材に応じてくれる専門家も出てきた。

そうした専門家の多くが、口をそろえて考案を依頼されている可能性がある人物として挙げたのが、京都大学名誉教授の2人だった。

1人は、中国文学を専門とするA氏。もう1人は、中国史が専門のB氏だ。いずれもその道の大家、いわゆる泰斗だ。ここではご本人の意向から匿名にしたい。

どっちつかずの答え

中国の古典を専門とする京都大学名誉教授のA氏。
月に1度は上京しているということで、都内で面会することができた。

するとA氏は、予想外の話をし始めた。
「明治憲法の善し悪しは別として、元号は天皇統治の象徴として設けられたと理解できる。戦争が終わり、新憲法ができ、主権在民になった。『天皇統治のシンボルである元号を、新憲法のもとでも使い続けることに矛盾はないのか』という問題がある。僕はこの点に非常にこだわっている」

なんと、元号に対して否定的な考えを明らかにしたのだ。

考案者にはなり得ないということなのか。さまざまな質問を投げかけてみるが、考案の依頼を受けていないとの確信も得られない。

「あなたが考案者ではないのか」A氏に真正面から質問をぶつけた。

「私のところに依頼は来ていない。来ても、お断りします。だけど、もしも受けていても、『はい、そうです』とは言いません。これはそういう類いの話ですよ。僕が言っていることを信用してもらうしかない」
結局、どっちつかずの回答しか得られなかった。

完全に、否定

次に、中国史が専門のB氏だ。何度も電話をかけ、面会を依頼するものの、「私ではない。時間の無駄だ」と言われ、面会は実現しなかった。
しかし、B氏の業績、他の専門家からの評価の高さを考えると、会わないわけにはいかない。

3月上旬、意を決して京都にあるB氏の自宅を担当記者が訪れた。

B氏は、しぶしぶ自宅の中に招き入れてくれた。
しかし、開口一番。
「まだ疑ってますのか?あんだけ言っているのに。言って悪いけど、はっきり言ってアホと違うか」
それまで笑みを浮かべていたB氏が、今度は、真剣なまなざしで迫ってきた。
「僕の顔を見てください。嘘をついていると思いますか」

それでもB氏は、それからおよそ1時間にわたり取材に応じてくれた。

B氏は、「中国の歴史をやっていて、学術的な経歴を考えれば、そう思われてもしかたない」としつつも、考案者かどうかについては、「元号には何の関係もない。興味もないですわ」と、強く否定した。

B氏は、最後に、つぶやいた。
「元号が発表されたら、早く考案者を明らかにしてほしいな。関係ない人間がいつまでも追っかけられるのは、たまったもんじゃないですよ」

この人を置いてほかに誰がいるのか。
しかし、嘘にも思えない。後ろ髪を引かれる思いで京都をあとにした。

東の権威は…

京の2人の泰斗。その名が取りざたされる中、東京にも、考案者の可能性が高いとして複数の専門家がその名前を挙げる権威がいた。中国文学が専門の東京大学名誉教授、C氏だ。

しかし、元号やその選定のあり方などについて聞くと、返ってきたのは非常に謙虚な答えだった。
「基本的なことは学ばないといけないから少しは知識はある。でも元号の問題からは遠いところにいるし、率先的に知識を披露するつもりもありません」

その上で、C氏は、考案者の可能性がある人物として、先の京都の泰斗、A氏とB氏の名前を挙げたのだった。
「中国文学といっても、僕がテーマにしているのは元号の考案に関係性のある分野ではない。日本学士院会員というのは天皇家にも近いと見られている。だから、私の名前を挙げる人がいるのかもしれないが、お互いに時間の無駄だ」

それでも食い下がって「考案は依頼されていないのか」と質問を投げかけた。

C氏の答えは、こうだった。
「それは、はっきり答えてはいけないことになっているから、申し訳ないけど言えない。そもそも委嘱されたかどうかや、誰が作ったかは、公になっていないでしょ。これまでは当事者たちの話や噂しかないわけだから」

「はっきり答えてはいけないことになっている」この言葉が、どうも私たちには引っかかったが、C氏は、その意味をこう説明した。

「はっきり答えたら、消去法で考案者が誰だか分かってしまうでしょ。だから、否定も肯定もしない言い方をするのが、学者の対応としては当たり前だと思いますよ」

考案者の継承はあるか

元号の選定に携わっていた元政府関係者は言う。
「考案を委嘱された人の案は、その人がお亡くなりになったら、案から抜き取るのが原則だが、いい案であれば、弟子に引き継いでもらうというのは1つの方法だ」

私たちは、過去に採用されなかった考案者から、弟子にあたる専門家へと継承されている可能性を探った。

その1人が、前回、原案の1つ、「修文」を考案した目加田氏の一番弟子。中国文学が専門の林田愼之助・神戸女子大学名誉教授(86)だ。

林田氏に対し、目加田氏は元号を考案していると明かしていた。
「先生がおっしゃったのは、『苦労しているよ』ということだった。『書籍から元号の文言を引き出すというのも大変な作業なんだけど、やはり、これが後世に残っていくという責任の重さが、きついな』と。『苦労している』と、ひと言、おっしゃったことは鮮やかに記憶している」

しかし「平成」と決まったあとは、目加田氏と元号について話すことはなかったという。「失礼でもあると思ったし、先生がおっしゃらない限り、それについて質問しようとは思わなかった」

「修文」の思いは

目加田氏が考案した「修文」。

林田氏は、中国の古典「書経」から引用されているとした上で、目加田氏とのやり取りを思い起こしながら、「先生らしい」案だと振り返った。

「先生は苦労されたんです。戦時中、当時いた博多の町が焼け野原になると、先生は田舎に引っ込んで畑仕事をなさった。先生は、『林田君、僕の指と君の指は、ずいぶん違うね。僕の指は、こんなに黒くて太い。あの時は食糧事情が悪かったので、一生懸命、子どもたちに食べさせるために畑仕事をしたんだよ』と言っておられた。武力を抑えて、文を修める。先生の平和への強い思いが感じられる」

弟子である林田氏は、「修文」を継承する考案者として、今回、考案を依頼されているのか。林田氏に尋ねた。

「政府関係者との接触も含めて一切ない。私は、考案していない」

「国書」から選定の可能性

3つの原案から「平成」が選ばれた前回の改元。「平成」の山本氏、「修文」の目加田氏、「正化」の宇野氏のほかに、実はもう1人、政府から考案を委嘱された人物がいた。

国文学が専門の市古貞次・東京大学名誉教授(故人)だ。

的場順三氏は、市古氏の候補名は原案に絞る段階で選から漏れ、結果、山本氏ら3人が提出した候補名の中から選ばれたと明かす。
「元号は、伝統的に『漢籍』から選ばれており、市古氏が研究の対象としていた『国書』(=日本の古典)は、ひらがなで書かれたものが多いことなどから、適切な候補を見つけるのが難しかったのだろう」

平成への改元で、水面下で探られていた「国書」からの選定。今回は、その可能性はないのだろうか?

私たちはこれまで接触を図ってきた「漢籍」に詳しい専門家と並行して、国文学や日本史の専門家へも取材の対象を広げた。

オリジナルは難しい

日本古代史の専門家であるD氏に、「国書」から選ぶ可能性を聞いた。
「『漢籍より、日本の古典にすべきだ』という議論があるのは知っています。ただ日本の古典は、漢籍にオリジナルがある場合が多いので典拠になりにくい。オリジナルのものと考えたら難しい。特に『古事記』などは厳しいでしょう」

日本の古典には、漢字の音や訓を用いて日本語の話しことばを表記した「万葉がな」が用いられているものもある。のちに、ひらがなやカタカナへと変化していった、この「万葉がな」の漢字から選ぶことはできないのか。

D氏は否定的だった。
「確かに、万葉がなを組み合わせるというのもできなくはないが、万葉がなは、当て字みたいなもの。選び方によっては、もっともらしい意味を持つ漢字を並べることはできるかも知れないが、背景になる、意味のある文章が存在しないことになる。意味のある1つのフレーズから引用するという、これまでの趣旨からそれてしまう」

政府から考案の依頼がないかも尋ねたが、「それはない。信じてもらって結構だ」

「国文学や日本史学の専門家も委嘱」

やはり「国書」からの選定は現実的ではないのか。
D氏の指摘を受けて、立ち止まった時だった。

3月13日。
参議院予算委員会で、内閣官房の吉岡内閣参事官が次のように答弁したのだ。

「新たな元号の選定手続きにおきましては、元号に関し高い識見を有する者に候補名の考案を委嘱することとなります。その考案者は、国文学、漢文学、日本史学、または東洋史学等についての学識を有する方の中から委嘱することになると考えております」

委嘱の対象として、真っ先に挙げたのは「国文学」。さらに中国を中心とした東洋史よりも先に「日本史学」と言及した。

私たちは、政府が候補名から絞り込んだ原案の中に、「国書」を典拠としたものを含めようとしているのではないかと考えた。安倍総理大臣の強固な支持基盤である、保守層からも「国書」を典拠とした元号の選定に期待する意見が出ていることも、こうした判断をする背景にはあった。

「もう1人の考案者」の弟子

翌日。
私たちは、国文学の重鎮、東京大学名誉教授のE氏に取材をかけた。皇室とのゆかりもある専門家だ。
そして、このE氏が師と仰ぐ研究者こそ、前回の改元で「国書」からの選定を探った「もう1人の考案者」、市古貞次氏なのだ。
「市古先生には、ずっと指導を受けましたが、先生はひと言も元号のことはおっしゃらなかった。当時の話は全く聞いたことがありません。そばにいましたが、全然、うかがい知ることはできなかった」

E氏に「国書」から選ぶ可能性はあるか、尋ねた。
「『国書』は考えにくい」

やはり返ってきたのは同じ答えだった。
「『国書』には、歴史的な事実なり、日本固有の事件なりは書いてあるわけですが、しっかりした典拠が必要な表現を使うときは、必ず『漢籍』を使っています。ヨーロッパのどの国も、古典としてはラテン語を使うのと同じ。元号の出典としては、『国書』は無理じゃないかという気がします。日本の古代文化や日本文学における古来の中国文化、『漢籍』の重みを考えたら、そう簡単に『国書から』なんて言えませんよ」

「六国史」

E氏にも考案の依頼がないか尋ねたが、「全くない」と全否定。
しかし、E氏はそこで、あることを口にした。
「ただ、もし、ヒントを差し上げられるとすれば、『六国史(りっこくし)』です。『六国史』に詳しい方であれば、依頼される可能性は考えられる」

「六国史」
奈良時代から平安時代にかけて、国家事業として編まれた6つの歴史書のことだ。

その第一は「日本書紀」だ。
「『六国史』なら、漢文に近い表現で元号に引用できるものがあるかもしれない。6書ある中でも、特に最初の『日本書紀』、そして2番目の『続日本紀(しょくにほんぎ)』です」
「日本書紀」、「続日本紀」と聞いて、心当たりがあった。接触を試みてきた1人に、まさに、それらを専門の研究対象としている人物がいたのだ。

「六国史」の専門家と接触

日本古代史が専門で、皇太子さまに日本史を指導していた経験もある、F氏だ。
私たちは、当初からF氏に接触を試みてきたが、数年前に病気を患ったとのことから、取材は断られてきた。

3月中旬、担当記者が都内にあるF氏の自宅に、アポなしで訪問。奥さんが玄関先に通してくれた。

しかし、姿を現したF氏は病気を患って以来、外出は自宅周辺しかしていないと話した。
「政府関係者との接触なんかありません。学者というのは、権力から遠い方がいいですから」

「六国史」をはじめ、「国書」から選ぶ可能性について尋ねたが、「そうしたことは分かりません」と答えるばかりだった。

皇室との関わりについても、「あの頃はまだ未熟な頃だった。皇室との関わりはありましたが、関係ありません」

F氏の体調を考え、取材は10分余りで切り上げたが、終始、どこか申し訳なさそうに話すF氏の様子が気にかかりながら、記者は自宅をあとにした。

果たして「国書」の可能性は

ここで素朴な疑問が浮かんだ。
「平成」も、「史記」と「書経」という2つの書物に典拠を求めていた。元号の典拠とする「国書」の表現が、もともと「漢籍」にあったものだとしても、それら「国書」と「漢籍」の双方を典拠として元号を考案する可能性はないのだろうか。

古代史の専門家・D氏に、この疑問をぶつけてみた。
「『平成』の典拠となった2つの書物は、あくまでも並列の関係にある。
つまり『内平外成』と『地平天成』という2つの別々の表現から『平成』を選んだということであって、中国の古典に書かれた文言と、それを引用した日本の古典の表現を典拠に元号を選ぶという話とは違う。そのようなことをしたら、日本の古典から取るという目的自体が失われることになるのではないでしょうか」

一方、政府関係者の中には、次のように話す人もいる。
「『国書』は『漢籍』から引っ張ってきているような表現ばかりなので、『国書』から引っ張ってきても、その淵源をたどると『漢籍』にたどりつくという面はある。だけど、それは、そんなにこだわる必要はないと思うんだよね」

果たして「国書」から選ばれる可能性はあるのか。別の政府関係者は明かした。
「『国書』からの選定という話は、今に始まった話ではない。もちろん、たとえば万葉がなは、当て字のところがあって意味を持たないものが多いとか、『国書』から選ぼうと思っても、なかなか難しい面はある。ただ探せば、ちゃんとした意味のあるものも、ある」

ふさわしい新元号とは

「平成」に代わる新しい元号。今回取材した専門家たちに、新元号にどのような意味が込められるのがよいか尋ねた。

前回、原案の1つ「修文」を考案した目加田氏の一番弟子、中国文学が専門の林田氏は、次のように話した。

「いまは世界が排他的になって知性が薄らいできている。豊かな心が消えていって、世の中が貧しくなってきている。それが平成だなあと感じる。大事なのは、人を思いやれるということ。人間の心だ。『徳』や『仁』、人を敬う『敬』、『和』。

人間の豊かな心を大切にするような、いい元号ができるといいと思う」

退位による代替わりという視点

「平成」を考案した山本氏に学んだ中国史の専門家、斯波氏は、天皇陛下の退位という、今回の代替わりの意味合いが念頭に置かれる可能性もあると指摘する。

「『平成』の陛下が退位され、そのお子さんである皇太子さまが後を継ぐわけなので、この『継ぐ』ということに力点を置けば、『平成』の2字のうち1つを入れることが考えられてもいい。また後を継ぐという意味では、『亨(こう・きょう)』という字も考えられる。中国の『易経』という古典に、『元亨利貞(げんこうりてい)』という言葉がある。

最初が『元』で、それを継ぐのが『亨』。『亨』には、4月から9月という意味もあって、改元が5月に当たるので、意味合い的にもいい」

その上で、斯波氏は、安定した世の中を求める人々の思いが反映されるのではないかと話す。
「今の世の中の安定、住みよい世の中が続くことは、誰しもが願っている。『永』、『保』、『久』といった字は入る可能性があると思います。

安定が続くという意味では、『安』とか、『康』。

だいたいの人は、いま、早急に何かを変えないといけないというよりは、今のとおりを、もう少し、うまくして進めてほしいというところではないですかね」

歴史の記録のために

元号が「平成」に改まって30年余り。
時代は、まもなく幕を閉じようとしているが、その「平成」を決定したプロセスでさえ、まだ十分には明らかになっていない。

政府は、今回の改元で、委嘱された考案者が氏名の秘匿を希望していることに加えて、考案者を明らかにすれば、誰がどのような元号を考案したかなどが詮索されるとして、新元号決定後も考案者の名前を公表しない方針だ。

また政府は、原案が示される各界の有識者からなる懇談会での議論など、新元号の決定の過程を記録として残す方向だが、公表は議論の概要とする方針で、詳細は相当期間、明らかにしない見通しだ。

委嘱される考案者たちは、どのような思いで元号を考案するのか。
提出された元号の候補名を、政府はいかにして絞り込み、新しい元号を決定していくのか。発表まであと5日。私たちの取材は発表後も続くことになる。