木に国会 平成の夢物語

国会議事堂。
昭和11年、当時日本一の高さを誇った石造りの建物は、いまも首都・東京の顔とも言える存在だ。
「国会を東京から地方に移そう」
平成の前半、そんな計画が浮かんで、消えた。なぜ計画は、幻に終わったのか。
(宇都宮局 家喜誠也)

そこは那須野が原

栃木県北部。東北自動車道・西那須野塩原インターチェンジを降りると、松林越しに豊かな自然が広がる。那須野が原だ。去年、開拓の歴史が評価され、日本遺産に選ばれた。

国道沿いに古びた看板を見つけた。「那須野が原に国会を」

そう、ここは栃木県が国会を呼び込もうとした舞台なのだ。起伏の少ない平坦な土地。確かに開発には向いている。看板は、ほかにも見つかった。

でも…本当にそんな話があったのだろうか?

国の重要テーマだった

発端は、平成の初めにさかのぼる。平成2年11月に衆参両院で「国会移転決議」が採択された。

この決議は、東京への一極集中を是正し、災害のリスクを分散させるため、国会や政府の機能を移転させようというものだ。当時、バブルによって東京の地価は急激に高騰。人気作家で、のちに経済企画庁長官などを務める堺屋太一氏(2月8日死去)らが移転推進論を展開したこともあり、議論が急ピッチで進められた。

翌年には、衆参両院に「国会等の移転に関する特別委員会」を設置。平成4年には、移転先候補地の選定体制などについて定めた「国会等の移転に関する法律」が作られた。

「国会移転」「首都機能移転」は国政の重要テーマとなった。

栃木県、動く

国会誘致が実現すれば、経済効果は計り知れない。
全国各地が候補地に名乗りを上げる中で、栃木県も参戦を決めた。

当時、県が制作したパンフレットだ。

「那須野が原は、東京から約150キロ、2時間ほどとアクセスが良く、霞ヶ関がすっぽり入る約400ヘクタールの公有地がある。さらに地盤が強く、災害も少ない」

いまも栃木県には、国会移転の実現を訴えるホームページがある。

国会議事堂や政府の施設、省庁などが、豊かな自然の中に配置されたイメージ図や…

働く人のライフスタイルを描いたイラストなど。

栃木県が誘致活動にかけた費用は、最終的には少なくとも5億円を超えた。金額からも県の本気度がうかがえる。

現在、県庁で働く40代の男性職員は、中学生時代の出来事を鮮明に覚えている。
「先生から、『将来、栃木県に国会がやってくるぞ』と言われ、当然そうなるものだと信じていた」

県企画部の職員として誘致活動に取り組んだ山﨑美代造さん(82)に話を聞いた。

「民有地取得の問題が成田闘争で表面化していたので、ここが公有地というのは大きかった。ここなら、すぐにモノは作れると。そういう意味で、国が本気で動いていると感じたし、私自身も、栃木県に国会を持ってきてやるぞ、という気持ちだった」

そして、懐かしそうに目を細めた。

「地元の新聞社が、日本のワシントン・ポストになるなんて言われてねえ」

東京タワーにあやかって

山﨑さんは、誘致活動を象徴する場所があると教えてくれた。
候補地の那須野が原を一望できる「サンサンタワー」。

那須塩原市の公園にそびえ立つこの展望台は、県が国会誘致活動のシンボルとして建てたものだ。高さは33.3メートル。東京タワー(333メートル)を意識したという。

いまは人もまばらで、寂しさが際立つ「名所」には、かつて移転に関する資料がずらりと並べられ、国会議員や中央省庁の官僚らが頻繁に訪れたという。

何度も視察に立ち会った山﨑さん。
「これほど理想的な場所はないですよ」と力説したという。

「警察にヘリコプターを借りて、上空から案内したこともあった。そんなこと、いまはなかなか出来ないよね」

移転議論のさなか、大災害が起きた。
平成7年、阪神淡路大震災。
東京直下地震の可能性を懸念する声が、国会移転の議論を加速させた。

平成8年には、官民77団体からなる、「県民会議」が発足。地銀や企業の関係者などが集まり、会長には栃木県知事が就任。いよいよ官民一体となって、誘致活動が過熱した。

思わぬ副産物

そのころ、旧塩原町、いまの那須塩原市の商工会で青年部の部長や会長を務めた坂内正明さん(68)。
「すぐ近くに塩原温泉郷があり、会合も出来る。当時も視察に訪れた議員や官僚を接待していた。この温泉郷が“栃木の赤坂”になるなんて言われた。本気で国会がやってくると思っていましたから」

そして、坂内さんは、まちの変化に気づいた。国会移転の実現を前提に、地元の人たちが周辺の土地を急いで買うようになったという。さらに業者が森林を次々と伐採し、開発が加速。県がこの地域を、土地取引に関して事前の届け出を義務づける監視区域に指定する事態となった。
「私の住むこの家も一体どのくらいの値がつくのだろうと期待していた。とにかく土地を買いたいという人が後を絶たなかった」

最有力候補地に!

各地で繰り広げられた誘致活動も踏まえ、国の審議会は、平成10年1月に移転候補地を3つに絞った。宮城・山形・福島・栃木・茨城の「北東地域」、岐阜・愛知・静岡の「東海地域」、三重・滋賀・奈良・京都の「三重・畿央地域」。

この中から最終候補地を選び出すことになり、翌年、北東地域の中の「栃木・福島地域」が総合評価で1位を獲得。栃木県は、移転の最有力候補地となった。

ある大物政治家の存在が

取材を進める中で、誰もが名前をあげる政治家の存在があった。
渡辺美智雄氏。

栃木弁丸出し、「ミッチ-」の愛称で親しまれた渡辺氏の地元は那須地域。国会移転話が真っ盛りの平成3年から5年に外務大臣と副総理を兼務している。「渡辺美智雄さんがなんとかしてくれると思っていた」と取材した人たちは口をそろえた。

渡辺氏も、地元栃木に帰っては、さまざまな場で移転の必要性を訴えていたというが、平成7年に亡くなる。

県庁で誘致活動にあたっていた山﨑さんは、渡辺氏の入院先に足を運び、地元の雰囲気などを報告したという。「国会の移転には力のある渡辺さんのような大物政治家が必要。渡辺さんの死去は、少し先が見えなくなっていくきっかけだったかもしれない」と悔しがる。

坂内さんも、「渡辺美智雄さんが生きていれば、結果は違ったかもしれない」と残念そうに振り返った。

雲行きが、次第に…

栃木県の熱いラブコールをよそに、平成11年には首相官邸の建て替えが始まる。続いて、各省庁も老朽化を理由に建て替えが進められた。

新しい建物を作ったあとに、わざわざ移転などするものか-。

国会をはじめとする首都機能の移転には暗雲が漂い始めた。「本当に移転するの?」県の関係者たちも、疑念を抱き始めたという。

石原、小泉という壁

平成11年には、移転に前向きな姿勢を示していた石原慎太郎氏が突然、移転反対を唱えて東京都知事選挙に当選。首都・東京が移転の厚い壁となって、立ちはだかることになった。

さらに、同じく前向きな姿勢を示していて、平成13年に総理大臣となった小泉純一郎氏も、その翌年の参議院内閣委員会で、このように発言した。

「国会で議論されている以上、その議論を見守るべきだ。その結論が出ていない段階で、小泉内閣としてまだ現実の政治課題に乗せるべき問題ではない。国会の行く末を良く見守ってから判断しても遅くはない」

15年には、衆参両院の特別委員会が、移転候補地を1つに絞る作業を断念。

国、地方を巻き込んだ「狂騒曲」は事実上、終幕した。

栃木県庁には、一時は10人ほどが専従で移転誘致に取り組む「首都機能移転対策室」があったが、いまは、職員1人が担当業務として受け持つだけ。担当者は、「国会等の移転に関する法律が現在もなくなっていない以上、担当をゼロにすることは出来ない」と言う。

誘致活動に関わった那須塩原市の坂内さんは、「はしごを外された気分だった」とため息をついた。

「失速」の原因は

平成14年11月に衆議院の国会等移転特別委員会で参考人として発言した、芝浦工業大学の大内浩名誉教授は、国の議論が急速に下火になった原因をこう説明する。

「3つの地域に絞られた時点で、それ以外の地域では一気に興味が失われていった。また、12兆円を超える移転費用がかかるという話が一人歩きしてしまったのも大きい。長い時間をかけて行う構想だったので、1年ずつにならせば、そこまで大きな金額ではなかった。そのあたりの説明が不足していたのではないか」

そして後遺症が

地元、那須塩原市では、影響がいまも残っている。坂内さんは、「私の知り合いには、当時、4500万円で購入した900坪の土地が、現在は10分の1の450万円まで下がった人もいる。買った土地は売れずに塩漬け状態。売るに売れないよね」と話す。

平成の次の時代、首都は

中央省庁では、政府の地方創生政策の一環として、消費者庁が徳島県に新しい拠点を設けたほか、文化庁が京都府へ全面移転を決めるなどの動きがあるが、依然として東京一極集中のリスクは残ったままだ。

芝浦工業大学の大内氏は、「ある外国の保険会社は、東京が世界で最も災害リスクの高い都市として格付けしている。それなのに、国は何も対策を取っていないに等しい」と批判する。

一方で、現実的に国会など完全な首都機能の移転は難しいとして、「まずは特別国会や臨時国会を地方の県議会議場を借りて実施してみる。たとえば、直近の話だと、夏に行われるG20は大阪で開かれるのだから、閣議だけでも大阪でやってみる。そういうやり方も可能性としてはあるのではないか」と話した。

平成の時代に浮かんで消えた国会移転構想。

再び浮上するのは、東京が首都機能を果たせたくなる事態に見舞われたときかもしれない。そうなる前に、より手厚いバックアップの想定と予行演習が必要だ。夢物語に舞い上がるのではなく、地に足つけた具体策の議論が求められる。

宇都宮局記者
家喜 誠也
平成26年入局。栃木県政を担当。県内を幅広く取材。スキー歴25年、1級所持。