士山麓に雪どけ来るか

眼前にそびえる雪化粧した富士山。例年に比べて雪はやや少なめだが、真っ白に覆われた山肌は、冬の澄み切った空気でいっそう美しく見える。
そんな富士山麓で繰り広げられた戦いでは「面従腹背」「怨念」「疑心暗鬼」といった言葉が飛び交った。
「2期目の現職の首長は強い」
そんな見方を覆すように山梨県知事選挙では、現職を破って新人の長崎幸太郎が初当選。その裏には長崎と10年以上にわたって、保守分裂の激しい争いを繰り広げてきた堀内家の動きがあった。
NHKの出口調査の分析も交えながら、選挙戦の舞台裏に迫る。
(取材班)

呉越同舟の船出

1月10日の告示日。
長崎幸太郎の出陣式に、自民党衆議院議員、堀内詔子の姿があった。

自民党本部からは、堀内が所属する岸田派の会長、岸田政務調査会長も駆けつけた。
長年争ってきた岸田派の堀内と二階派の長崎、その2人が同じ壇上に立つ。
そして堀内が岸田とともに長崎を挟み、3人でつないだ手を高く上げ、大同団結をアピール。過去には考えられない光景だった。

さらに堀内は、長崎と並んでホールの玄関に立ち、会場を訪れた人たちと握手を交わした。

ただ2人は目を合わせることはなかった。

「呉越同舟」の船出。ここに至るまでには長い道のりがあった。

渦巻く怨念

富士山麓に広がる山梨県東部地域は「郡内」(ぐんない)と称され、自然が豊かで都心からもアクセスが良いため、多くの観光客が訪れる。「郡内」を中心とする衆議院山梨2区は、長らく「堀内王国」と呼ばれた。

堀内家は、富士北麓を基盤に鉄道事業や観光業を展開する「富士急行」のオーナー一族だ。通産大臣や自民党総務会長を歴任した故・堀内光雄など、4代にわたって国会議員を輩出してきた。

この堀内家と争ってきたのが、長崎幸太郎だ。

発端は、2005年の郵政選挙。堀内詔子の義父・光雄が郵政民営化に反対したため自民党公認を得られず、そこに刺客として送り込まれたのが長崎だった。光雄が約900票差で辛くも勝利したが、長崎は比例復活し初当選。ここから両者の戦いが始まったのだ。

関係者によれば、財務官僚だった長崎が、山梨県庁に出向した際に面倒を見たのが光雄だったという。政治家を志す有望な財務官僚として、当時の知事にも紹介した、そんな長崎が、刺客として挑んできたことに、光雄は驚き、怒り心頭だったという。堀内系の地方議員は「不義理が怨念の元凶だった」と振り返る。

“富士急軍団”

「堀内王国」を支えてきたのが「富士急行」だ。かつては傘下の企業や社員の家族まで動員した集票力の高さで、「富士急軍団」と恐れられた。元社員は「選挙となれば、会社が空っぽになるくらい一生懸命やっていた。社員選対が立ち上がり、部長から課長、係長へと指示が降りていく企業選挙だった」と語る。

しかし、堀内家の世襲に対する反発や、競合他社からの不満の声もあり、長崎はこうした「反富士急」の勢力を味方に付け、じわじわと「堀内王国」の切り崩しを図っていった。

その後、自民党を離党した長崎は、2012年と2014年の衆院選では、光雄のあとを継いだ自民党公認の詔子と戦い、連続して勝利。詔子は、比例復活に甘んじた。

ガチンコ勝負

無所属ながらも二階派に所属した長崎。2016年に、派閥を率いる二階俊博が幹事長に就任すると、長崎の復党が、党内で議論のそ上にのぼるようになる。これに対し、詔子が所属する岸田派は強く反対し、結論が出ない状況が続いた。

前回・2年前の衆院選でも、長崎と詔子の公認争いの調整は付かず、二階は「両者が無所属で戦い、勝ったほうを自民党に追加公認する」という裁定を下した。

両者、背水の陣で臨んだ熾烈な選挙。ときには中傷合戦にもなり、両者の不信感は増幅していった。

ガチンコ勝負の「郡内戦争」は、詔子に軍配が上がった。

敗れた長崎は、行き場を失った。

大同団結の旗印のもと

長崎に転機が訪れたのは、1年前の去年2月。
長崎に近い有力県議が、党本部で二階幹事長に直談判した。
「浪人中の長崎君を知事選に出したい」
この話し合いを機に、知事選挙への長崎擁立のレールが敷かれていった。

自民党山梨県連会長の森屋宏参議院議員も長崎擁立で動き出していた。岸田派に所属し、堀内を支援してきた森屋は、長崎とは反目してきた立場。山梨と東京を結ぶ「特急あずさ」で、同じ車両に乗っていても、言葉を交わすことはなかった。

しかし、「長崎が知事に回れば2区は堀内で安泰になる。保守同士が戦うのは終わりにしたい」と考えた。また、二階派の長崎を岸田派が応援することで、派閥の会長・岸田の「ポスト安倍」レースにも生かしたいという考えもあった。

富士急行や堀内系の県議には、擁立に反対する声もあったが、自民党県連は、保守大同団結の旗印のもと、候補者を長崎に1本化した。

合言葉は『融和』

いよいよ始まった選挙戦。
党本部から、次々に送り込まれる応援弁士は、「融和」「団結」を繰り返した。


小泉進次郎の甲府駅前での演説。
「長崎さんと堀内さん、この2人が一緒に車の上に乗っている。まさにこれが山梨県を一つにする。いろんな対立があったとしてもそれを乗り越えて、対立を協調に、対立を融和に、みんなを一つにつなげていける」

選挙事務所にも遊説隊にも、長崎と堀内双方のスタッフが加わり、混成部隊を結成した。

15日、富士急行の駅前の駐車場に長崎の選挙カーが止まった。

富士急行の前庭とも言えるこの場所は、長崎がこれまで近寄りがたかったところだ。聴衆には、富士急行の制服を来た人の姿も。これまでの選挙では見られなかった光景だった。

長崎陣営は、山梨2区の地域で現職の後藤斎を引き離し、その貯金で県全体でも逃げ切る戦略を描いた。そのためには、堀内票をどれだけ取り込めるかが焦点となった。

長崎は、堀内との共闘について、こう語った。
「今は山梨県政転換のためのパートナーです。この選挙戦を通じて、一枚岩どころかさらに強固な結びつきになってくると思う」

とけぬ根雪

しかし、長年の争いは支援者の間に、根深いしこりを残していた。

詔子は選挙中、長崎とは別に2区内を回った。
なじみの顔を見つけると車から降りて駆け寄り、長崎支持を呼びかけた。

しかし、従来の支持者の反応は厳しかった。
「なんで長崎を応援するんだ」「長崎と笑顔で2ショットを撮るな」
時に、強い口調で叱責されることもあったという。

長崎の応援をするほど、従来の支持者が反発する。板挟み状態だった。
詔子には、疲れの表情が浮かび、目の下にはくまが出来ていた。

側近は、詔子の気持ちを代弁した。
「詔子さんはまじめに一生懸命、長崎で動いている。でも、どれだけやっても文句は言われるので、気の毒だ」

分断の歴史に終止符を!

こうした中、堀内家のお膝元、富士吉田市で開かれた決起集会。
約1000人を前に、詔子が挨拶に立った。

「この富士北麓の地にて大変長い間ご心配をかけておりました。選挙のたびに普段は仲良しの皆さんが、近い親戚が、辛い思いをして、悲しい思いをして、戦わなくてはならなかった。しかし、このたび長崎さんが県知事という新しいステージに登る尊い決意を固められた。寒い冬ですが、長崎さんに熱い思いを結集してほしい」

詔子は「2区は堀内、知事は長崎」というすみ分けを呼びかけた。
「分裂の歴史に終止符を打つためだ、理解して欲しい」
そんな詔子の切実な本音が伝わってきた。

「反長崎」を取り込め!

一方、現職の後藤斎の陣営は「県民党」という立場を掲げて戦った。
党派色を薄め、現職としての知名度や実績を打ち出せば、2期目を目指す選挙に負けることは無いという判断だった。

立憲民主党や国民民主党の推薦を受けたものの、各党幹部の応援は要請もしなかった。

当初は優位に戦いを進めていたが、政権与党を挙げての猛攻撃を前に徐々に押されていった。

後藤陣営は、堀内票を取り込もうとアプローチを強めた。

上野原市や都留市の市長など、2区内のあわせて8つの市と村の首長が、後藤を支援する組織を発足。ほとんどが熱心な堀内系の首長たちだ。

選挙戦中盤、富士吉田市の自民党支部の女性部長が、後藤を支持するメンバーに加わったことで、長崎陣営に衝撃が広がった。この女性部長は、堀内の古参の支持者。

「対立してきた長崎候補は応援できない」と説明した。

さらに、詔子の選対本部長を務めていた元富士吉田市長も後藤支持に。

「堀内詔子と書いてきた支持者が、長崎にいかないように食い止めることが大事だ」と訴えた。

後藤陣営は、堀内支持者の中に渦巻く「反長崎」の感情を突いて、共闘にくさびを打つ戦略だった。

面従腹背??

後藤陣営の戦略が効き始めたのか、長崎陣営の中から「富士急行は隠れて後藤をやっているのではないか。面従腹背ではないか」といぶかしむ声が上がった。

詔子が、表で活動する一方、「富士急行」本体は表だった動きを見せなかったからだ。
詔子の夫、光一郎社長は集会などに姿を現すことはなかった。

こうした中、詔子が所属する岸田派の会長、岸田政調会長が動いた。

岸田は、富士急行本社を訪問。集まった幹部社員を前に、今回の選挙の重要性を訴えた。社長の光一郎も「大変な思いをさせて、頑張ってくれてありがとう」と社員をねぎらいながら、長崎支持の立場を伝えたという。壁には詔子と長崎が並んだポスターが貼られていた。

極秘会談

さらに翌日、長崎が光一郎とひそかに会談した。

因縁の2人が向かい合い、長崎は直接支援を要請した。光一郎は決して笑顔は見せなかったものの「社をあげてやりますから」と応じたという。

両者の間を取り持ったのは岸田だった。前日に光一郎と会談した岸田は、そのあと長崎に電話し「社長にちゃんと会ってお願いしたほうがいい」とアドバイスしたという。
岸田はこの選挙で4回も山梨入りした。派閥領袖としての真価が問われていた。

「富士急」争奪戦

最終盤。富士急行本社やグループ会社の幹部のもとには、自民党関係者から連日、電話がかかり「長崎を頼む」と念押ししてきた。傘下の企業にまで電話がきて、本社から指令が降りているか確認するほどの徹底ぶりだった。

それでも、長崎周辺からは「堀内の動きが鈍い」という不満の声が上がった。

これに対し、富士急行関係者は「うちは一企業として精一杯のことをやっている。面従腹背ではないかと言われもしたが、隠れて後藤をやるなんて、ありえない」と気色ばんで反論した。

そして選挙戦最終日、長崎の演説会場には、富士急行の役員の姿があった。

ただ堀内と長崎、双方の疑心暗鬼は消えないまま、投票日を迎えた。

堀内票は何処へ?

開票の結果、長崎が、現職の後藤に3万票あまりの差を付けて初当選した。完勝だった。

堀内を支持してきた有権者は、どのように動いたのか?。

NHKの出口調査の結果から分析した。

前回の衆院選山梨2区で堀内詔子、長崎幸太郎にそれぞれ投票した人に、知事選での投票先を聞いた。

衆院選で長崎に投票した人の90%近くは、今回も長崎に投票していた。
一方、衆院選で堀内に投票していた人は、「長崎」と答えた人が約60%、「後藤」と答えた人が約35%だった。
堀内支持者のうち、3割あまりは後藤に流れたが、6割は長崎に投票したのだ。
得票を見ても、長崎と堀内が争ってきた山梨2区の地域では、長崎が4万のリードを奪い、戦略通り、ここで勝負を決めた。

富士急行関係者は「堀内票のうち50%は後藤に入ると予想していた。思っていた以上に後藤に流れなかった。2区であんなに差が付くとは」と振り返った。

また自民党県連幹部も「堀内票のうち6割も取れたなら御の字だ」と満足げに語った。

当選した長崎は「みなさんが問題意識を共有し、大同団結した結果だと思う」と、一枚岩で戦った成果だと強調した。

雪どけは来たか?

一夜明け、国会召集日の永田町。上京した詔子は吹っ切れたような明るい表情だった。
「長崎さんが勝ってくれてよかった。自分の選挙ぐらい頑張ったので。長年の争いの終止符にしたいし、しないといけない」

(-堀内票のうち60%が長崎に入ったことについては?)
「取りこぼしが少なかったということで、よかった。支援者には複雑な思いを持っている方もいる。落ち着いたら、おわびをしにいきます。一歩ずつ、少しずつ、理解を頂くしかない」

真冬の甲州選挙は長崎の勝利で幕を閉じ、「郡内戦争」に一応の終止符が打たれた。
自民党内では、堀内と長崎の和解ムードが演出されている。

しかし、「堀内票」の一定程度が、後藤に流れたのは事実であり、両者のしこりは完全に消えたわけではない。長崎が、どのような県政運営を行うのか、神経戦も続くだろう。

長崎新知事の手腕とともに、本当の「雪どけ」を迎えたのかも目が離せない。
(文中敬称略)

甲府放送局 富士吉田支局
和田杏菜
平成28年入局。主に「郡内地域」を取材。山梨県知事選挙では長崎氏を担当。本栖湖から見る富士山がオススメ
政治部記者
川田 浩気
平成18年入局。沖縄局、国際部を経て政治部。岸田派担当は、夏に富士吉田市で開かれる研修会の取材が恒例。
政治部記者
安藤 和馬
平成16年入局。山口局、仙台局でも勤務。国政選挙や各地の知事選挙などの取材・分析を担当。山梨県出身。富士山には2回登頂。