不思議の国の“ミンイ”
異例の退位、実現の背景

「日本は不思議の国だ。天皇陛下の退位を実現させたのだから」
こう聞いたらみなさんはどう思いますか? 実は海外から見れば、そう映る面があるようです。果たしてどこが不思議なのか。背景には、非常にハードルが高かった天皇の退位を1年足らずで実現させた「ミンイ(民意)」があることが浮かび上がってきます。
過去に繰り返された天皇退位論や皇室にまつわる国会審議などを振り返りながら、退位を実現させた国民意識について考えます。
(政治部記者 官邸クラブ 古垣弘人 安田早織)

不思議の国、ニッポン

「不思議の国、ニッポン」
言語や食など独特の文化を持つ日本は、海外からこう形容されることがあります。それは文化だけではありません。日本で勤務している、ある国の外交官は、「日本の世論は、その時の雰囲気で大きく変わる。海外から見ると不思議に映ることもある」と指摘します。日本の国民世論「民意」も不思議だというのです。

そして、この外交官は続けます。「日本国民には、遺伝子として、先の大戦とその過程で形成された天皇のあり方が焼き付いているはずだ。それでも今回、200年ぶりの退位がすぐに実現した。国民の天皇に対する愛情の深さには脱帽するが、ここにも日本の世論の不思議さが表れている」

いったい、何が不思議なのか。私たちの天皇像とはどんなものなのか。変質してきているのか。私たちは、過去に繰り返されてきた退位をめぐる議論を振り返ってみることにしました。

廃止された退位制度

明治以前、天皇は生前に退位をして位を次の天皇に譲る「譲位」を行うことが通例とされてきました。1480年(文明12年)ごろ、関白を務めた貴族・近衛政家の日記には、室町時代に後土御門天皇が在位中に崩御したことについて「およそ珍事なり」と書かれているほどです。
しかし、明治から退位は行われなくなります。そこには1885年(明治18年)に初代総理大臣に就き、君主の権力を憲法で規制する立憲君主制の近代国家を目指した伊藤博文の判断がありました。

伊藤は大日本帝国憲法を制定し、天皇を「元首であり統治権を総攬する」立場として規定しました。さらに慣例と伝統により受け継がれてきた皇室のあり方についても近代化を進めるうえで避けられない課題だとして法制化することを決め、皇室典範の作成に乗り出します。

この中で伊藤がこだわったのが退位制度の廃止でした。当時の記録「皇室典範草案談話要録」によりますと、役人の案には、「重い疾患を抱えた場合には譲位を容認する」との条文が含まれていましたが、伊藤は強く異論を訴えます。

「昔の譲位の例は仏教の悪弊に由来するもので削除すべきだ」

初代総理大臣のこの判断で、退位を認める条文は盛り込まれませんでした。伊藤が書いたとされる皇室典範の解説書「皇室典範義解」からは、平安時代の1156年(保元元年)に起きた「保元の乱」など、譲位に絡んで繰り返されてきた内乱を防ぐ意図があったことが伺えます。こうして長く慣例となってきた退位制度は廃止されました。

昭和天皇退位論その1 時の首相から

皇室典範制定により廃止されたはずの退位制度。しかし、資料を読み解いていくと、昭和の時代、天皇の退位を求める議論が、民意を巻き込む形で繰り返されてきました。ここからは代表的な3例を見てみます。

1回目は終戦直後です。1945年(昭和20年)8月15日の「玉音放送」で国民は日本の降伏を知りました。この直後、国民の中からは、天皇の退位を求める意見が出ていました。1980年(昭和55年)に出版された、歴史学者の粟屋憲太郎氏の『資料日本現代史2』によりますと、「天皇は戦争責任者となり帝位を皇太子に譲るべきだ」といった言動が、警察を通じて「不敬言動」として報告されていました。

そして、昭和天皇みずからも退位の意向を示したとの記録もあります。天皇を補佐する内大臣を務め、昭和天皇の側近の1人として知られる木戸幸一が残した日記には、玉音放送の2週間後、「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところであるが、自分が一人引き受けて、退位でもして、納める訳にはいかないだろうかとのおぼし召しあり」との記述があるのです。

さらに政府内でも退位論が浮上していました。1945年(昭和20年)8月17日に総理大臣となった皇族出身の東久邇宮稔彦王は、高級外務官僚だった田尻愛義が、日本再建のためには天皇の退位と皇室財産の下げ渡しが必要だと主張したのに対し、「そう思う」と賛同したうえで、「天皇も同じお気持ちだと推察される」との考えを示したことが、1977年(昭和52年)に出版された『田尻愛義回想録:半生を賭けた中国外交の記録』に明記されています。国民だけでなく、高級官僚、さらには時の総理大臣までもが退位論に傾いていたのです。

しかし、占領政策を進めていたマッカーサー率いるGHQ=連合国軍総司令部は、天皇の身分を保護する方針を固めます。GHQの中には、天皇が戦争犯罪で裁判に付せられれば全国的に反乱が起きる可能性もあり、占領政策がうまくいかないという分析もあったことに加え、昭和天皇が占領政策に協力する姿勢を明示したためです。このGHQの方針に日本政府も従う形となり、昭和初めての退位論は実現しませんでした。

昭和天皇退位論その2 有識者から

2回目は、連合国が日本の戦争指導者を裁いた極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」の時期です。裁判が結審したあとの1948年(昭和23年)5月。三淵忠彦最高裁判所長官が「週刊朝日」の座談会で、「終戦当時、陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかったか非常に遺憾に思う」と述べました。

この発言に端を発し、「昭和天皇は退位すべきだ」とする専門家の見解が新聞各紙で紹介されたほか、「日本国民の象徴である天皇の進退の問題は、国民みずからが考え判断すべきだ」などと訴える社説も掲載されました。それまではタブー視されてきた天皇の退位論が公然と議論されたのです。

2014年(平成26年)に出版された日本近現代史の専門家、冨永望氏による『昭和天皇退位論のゆくえ』などによりますと、日本国憲法で、天皇の地位について「主権の存する国民の総意に基く」と新たに定められたことが、こうした退位論の噴出につながったと考えられています。

一方、これに反対する「民意」も強まりました。当時の報道などによりますと、全国で天皇が位にとどまることを求める活動が起きたとされているほか、読売新聞がこの年8月15日に紹介した世論調査では、退位を求める人が18.4%にとどまる一方、在位を望む人は68.5%となりました。

政府は当初、退位論を重く受け止めていましたが、こうした「民意」も踏まえ、総理大臣だった芦田均は退位を容認しない方針を固めます。この背景には、野党の動向もあったと指摘する専門家もいます。

当時、野党第一党の民主自由党の中心的な存在だったのが吉田茂です。貴族院出身の吉田は、天皇制維持の観点から天皇の戦争責任問題を取り上げること自体に消極的で、芦田は、昭和天皇の留位以外に野党の理解を得ることは不可能と判断したと考えられているのです。

芦田は、この直後に退陣しますが、交代した総理大臣がその吉田茂でした。芦田の決断と吉田の総理大臣就任により、日本政府が退位を模索する機運はなくなっていきました。

昭和天皇退位論その3 旧軍人から

そして3回目は、日本の独立に伴う「再軍備論」とあわせて退位論が出ました。

1951年(昭和26年)、サンフランシスコ平和条約が締結されると、治安維持組織の「警察予備隊」が「保安隊」に改組し、任務は秩序と平和の維持へと拡大。軍隊としての側面が強まります。

こうした中で国会議員らから出されたのが、本格的に軍隊を再建する「再軍備論」です。戦力の不保持を定めた日本国憲法との関係から、大きな論争を呼ぶことになりますが、その中で「昭和天皇は、新しい軍の最高司令官になり得るか否か」についても大きな議論となりました。

戦前・戦中の大日本帝国憲法のもとで昭和天皇は、陸軍海軍を統帥する大元帥でした。そのため再軍備をするとすれば、最高司令官は天皇であるという考え方が常識的でした。

一方、旧軍人の間からは、「最高司令官は天皇であるべきだが昭和天皇は適さない」という声が上がっていたことが、当時の雑誌「改造」などには書かれています。

東京裁判で戦犯とされ刑に処された旧軍人からすれば、軍のトップでありながら戦争責任を取っていない昭和天皇を再び仰ぐことに拒絶反応を示していたと考えられています。こうして、昭和天皇の退位を求める意見が噴出したのです。

そして退位論は国会でも取り上げられます。当時の社会党の山下義信議員は、「皇太子殿下を国民奮起の中心にすべきという有力な説があると伝えられている」などと指摘したほか、国民民主党の中曽根康弘議員は、「天皇が退位されることは、戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制を若返らせると説く者もいる」とただしています。

これに対し、当時、総理大臣だった吉田茂は「陛下が御退位されれば、国の安定を害する。これを希望する者は、非国民と思う」などと答弁。退位論を一蹴し、政府として、天皇の地位を変える考えのないことを明確にしました。

こうして戦争責任を背景に、3度にわたって論じられた昭和天皇の退位は、政府やGHQの判断により、実現することはありませんでした。

元号めぐる論争

このあと30年以上続く昭和の時代でも、皇室と国民の関係が改めてクローズアップされた事がありました。元号法の制定です。

平成改元の際に適応された元号法は、「元号は、政令で定める」「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」というシンプルな法律ですが、法整備をめぐり大きな議論が巻き起こりました。

元号は日本では、およそ1300年前から使用されてきたとされていますが、戦後、明治の皇室典範が廃止され、「昭和」は法的根拠を失い、「事実たる慣習」として使用されていました。

こうした中、政府・自民党は、保守層を中心に元号を法制化すべきだとする意見が強まったことも踏まえ、元号に明確な法的な根拠を持たせるための検討を始めます。政府の世論調査でも、元号の存続を望む人がおよそ78%に達するという結果となりました。

こうした国民世論も背景に、政府は1979年(昭和54年)、元号法案を閣議決定。提出された法案をめぐり国会で大きな論点となったのは、「元号法の制定が、日本国憲法が定める象徴天皇制や主権在民の趣旨にかなうかどうか」という点です。

当時の議事録によりますと、共産党が「元号制度は、天皇主権と不可分の政治制度で、復活させることは憲法の主権在民の原則に逆行する」などと主張し、法案に反対。社会党も「元号法制化は、天皇を元首化、神格化しようとする思想的潮流に法的な保障を与えようとするもので、主権在民を掲げる日本国憲法に明白に違反する」などと反対しました。

元号法は結局、政府側が「元号が法制化されても国民に使用を強制するものではない」などとする見解を示し、自民党に加え、公明党、民社党、新自由クラブの賛成も得て、1979年(昭和54年)6月に成立しました。元号をめぐり与野党が激しく対立した当時の国会は、「元号国会」とも呼ばれました。

崩御でも論争

1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御されました。天皇が崩じた時には、日本国憲法と戦後定められた皇室典範により、「大喪の礼」を国の儀式、つまり国事行為として行うことになっています。

しかし、現行憲法のもとで初めての天皇の崩御とあって、この大喪の礼をどのように行うのか、国会では大きな論争となりました。それまでは、明治の皇室典範に基づく皇室令で、天皇崩御の際には30の儀式を行うと定められていました。

しかし、ほとんどが宗教色の強いもので、国事行為として行う大喪の礼は、憲法で定められた政教分離の原則に抵触しないような形式を新たに模索する必要があったのです。

当時の議事録を見ると、例えば社会党の議員は、「大喪の礼は全く宗教性の入る余地のない場所、形式、内容によって、神道儀式と切り離し、別途行うべきだ。また国事行為は象徴天皇の地位と主権在民の憲法にふさわしい、厳粛にしてかつ簡素、また国民の理解が得られるものとしなければならない」と指摘しました。同様の質問が国会の中で何度も繰り返されました。

政府は、こうした意見も踏まえ、皇室の私的行為である「天皇の葬儀」と、国民が昭和天皇を悼むために国事行為として行われる「大喪の礼」を明確に区別する方針を決定します。

その結果、1989年(平成元年)2月24日、東京の新宿御苑に設けられた葬儀殿では、2つの儀式がリレー形式で行われました。
皇室として昭和天皇の崩御を悼む「葬場殿の儀」が行われたあと、一度、門が閉じられます。祭官が退席し、鳥居と大真榊も撤去されるなど宗教色のあるものが取り除かれると、再び門が開きました。

そして国事行為である「大喪の礼」が、総理大臣の開会の言葉で始まり、正午には、国民が黙とうをしました。日本国憲法のもとで初めて行われた天皇の崩御に伴う儀式は、こうして政教分離の原則との関係に慎重に配慮しながら執り行われたのです。

さらに、政党によってこの日の対応は大きく異なりました。自民党と、当時の民社党は葬場殿の儀と大喪の礼のいずれにも出席しましたが、公明党は政教分離を堅持すべきとして、葬場殿の儀は着席での消極的出席、その後の大喪の礼は全員出席という対応を取りました。

また当時の社会党は、政教分離が十分ではないとして葬場殿の儀は欠席し、その後の大喪の礼のみ、個々の議員の判断で出席などという対応となりました。

共産党は、戦前のものを踏襲していて憲法に違反するとして、いずれの儀式も全員欠席しました。皇室と憲法に対する、さまざまな「民意」が顕著に表れたのです。

異例の退位、なぜ実現?

明治政府によって制度が廃止されたものの、一部の国民をはじめ、政府関係者や専門家、それに旧軍人から求められた昭和天皇の退位。そして、その声を受け止めつつも最終的には容認してこなかった政府。さらには、元号や天皇の崩御をめぐる論争と慎重な検討。天皇と憲法との関係について、民意を巻き込みながら、歴史的に、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が繰り返されていたことを見てきました。

一方、今回の天皇陛下の退位はどうだったか。200年ぶりの退位が、天皇陛下のお気持ち表明から1年もかからず、しかも、最終的には、自由党を除く、すべての政党の賛成で実現しました。なぜ、これほどスムーズに、政党間の意見の対立すらないままに事が進んだのか。そこにこそ、この国の「民意」があったことが見えてきます。

原動力は「不思議な民意」

政府は、今回の退位を実現する理由として、「国民の共感」を挙げました。天皇陛下がご高齢になられ、公的な御活動を天皇としてみずから続けられることが困難となることを深く案じておられるお気持ちを国民が理解し、共感している。政府としては、この「民意」を受けて、法整備をしたと説明しています。

では各政党はどうでしょうか。各党の議論の過程で、今回の退位をどう実現するのかという具体的な法整備をめぐり見解の相違は見られましたが、退位は、ほぼすべての政党が容認する立場でした。そして、その理由もそろって「国民の共感」でした。政府も各政党も退位容認の理由に挙げたのは「民意」だったのです。

実際、天皇陛下の退位を容認する「民意」は圧倒的でした。今回の天皇陛下の退位をめぐり、報道各社は継続的に世論調査を行っています。そこでは、一貫しておおむね8割から9割という大多数が天皇陛下の退位に賛成していました。過去には天皇制をめぐって大論争が繰り返されてきたことと比べると、冒頭の外交官が指摘するように、確かに「不思議」な「民意」にも思えます。

「民意」形成の理由1 ご意向の報道

なぜ、こうしたある種「不思議」な「民意」が形成されていったのか。そこには2つの要因が考えられます。

1つ目は、天皇陛下のご意向が公になったことです。2016年(平成28年)8月8日。天皇陛下は、退位のご意向がにじむお気持ちを表明されましたが、これ以前に退位を望まれるご意向が公になっていました。

NHKは7月13日、「天皇陛下が、退位のご意向を宮内庁の関係者に示されていることがわかった」と報じました。当時の風岡宮内庁長官は報道内容を否定しますが、新聞・民放各社は直後から、NHKニュースと同様の内容を報道しました。国民はこの時点で、天皇陛下の思いに触れたのです。一連の報道が、まず「民意」形成のきっかけとなったのです。

退位意向は表明の6年前から

一方、天皇陛下は、こうしたご意向をいつから示されていたのか。皇室の重要事項についての相談役である「参与」を9年にわたって務めた東京大学名誉教授の三谷太一郎氏はインタビューで、天皇陛下が2010年(平成22年)の「参与会議」と呼ばれる会合の席で「生前退位」の意向を示されたやり取りを明らかにしました。

それによりますと、2010年(平成22年)7月、両陛下のお住まいの御所に当時の宮内庁長官や侍従長、それに三谷氏ら3人の参与などが集まって開かれた「参与会議」の席で、天皇陛下が突然、「生前退位」の意向を明らかにされたということです。つまり天皇陛下は、お気持ち表明の6年以上前には、すでに退位の意向を周囲に明らかされていたのです。

退位報道、以前にも

退位に絡む報道は2013年(平成25年)の段階ですでにありました。「週刊新潮」が2013年(平成25年)6月、「風岡宮内庁長官が安倍総理大臣に対し、『天皇の生前退位及び譲位』並びに『皇位継承の辞退容認』を可能とするような皇室典範改正の要請を行い、それを受けて内閣官房で密かに検討が進められている」「そうした宮内庁の要請内容については、天皇・皇后両陛下と皇太子・秋篠宮両殿下の間では、既に納得されている」などと報じたのです。

これに対して内閣官房と宮内庁は、連名で厳重抗議。速やかに訂正記事を掲載するよう求めました。上で紹介したように、天皇陛下は、この記事の掲載の3年前には、すでに周辺に退位のご意向をにじませていたことがのちに明らかになっています。ただ、政府などの対応の影響からか報道は広がりを見せませんでした。

お気持ち表明検討、以前にも

2016年(平成28年)の天皇陛下のお気持ち表明以前にも、お気持ち表明が検討されたことがありました。
政府関係者によりますと、天皇陛下の退位のご意向は、2012年(平成24年)12月に発足した安倍政権にも伝えられ、2015年(平成27年)12月の天皇誕生日を前にした記者会見で、みずからお気持ちを述べられることも検討されました。

しかし、官邸や宮内庁などでの調整の結果、お気持ち表明は、最終的に見送られています。

報道が引き金に?

こうした経緯を踏まえ、ある政府関係者は、「NHK報道に端を発する一連の報道がなければ今回の退位は実現しなかった可能性がある」と指摘します。

天皇陛下のお気持ちに寄り添う形で、退位のご意向を各社が一斉に報じなければ、退位に賛成する「民意」は形成されることはなく、「週刊新潮」が報道した時や、2015年(平成27年)暮れの時にように、お気持ちの表明にもつながらなかった可能性があるというのです。

当時、政府内では、天皇の政治的な発言を禁じている憲法との関係から退位に慎重な意見が根強かったことから照らしても、一連の報道がお気持ち表明の、そして退位実現の引き金になった可能性が高いと考えられます。

「民意」形成の理由2 天皇への国民意識の変化

圧倒的な「民意」が形成された2つ目の要因として考えられるのは、天皇に対する国民意識の変化です。

本来、天皇の意向に触れたとしても、国民の大半が追認するとは限りません。反対意見が多く出る可能性もあります。実際、「自由意志に基づく退位を実現すれば、憲法上のかしが生じる」、「退位は二重権威の問題から認められない」などと主張し、公然と天皇陛下の退位に反対する専門家の意見も次々と報じられました。

しかし、「民意」は変わりませんでした。退位を容認する「民意」が固まっていったのです。

その背景には何があるのか。明治や昭和の時代、天皇制をめぐる議論では、とりわけ憲法との関係が重視されてきました。立憲君主制を目指す中で退位制度を廃止した伊藤博文しかり、「天皇の進退は、主権者たる国民みずからが判断すべきだ」と訴える新聞の社説しかりです。

一方、今回の国民世論はどうでしょうか。「『敬愛する天皇陛下の苦しみを何とかして差し上げたい』『これまで国民のために頑張ってきていただいた陛下に恩返しがしたい』という感情から判断した側面が強いのではないか」と指摘する政府関係者もいます。

天皇のご活動が国民意識変えた?

憲法では、「天皇は国事行為のみを行う」とされています。 しかし、今の天皇陛下のご活動を思い浮かべるとき、どんな場面を浮かべるでしょうか? 被災者を前に膝をつかれるお姿や、地方を巡り国民に手をお振りになるお姿ではないでしょうか。これらのご活動は、いわゆる「公的行為」です。政府見解では、象徴としての地位に基づくものとして認められています。

しかし、憲法には規定されていないため、「公的行為」はすべて違憲だとする学説もあるほか、「公的行為」に関する統一的なルールもないため、恣意(しい)的な利用にもつながりかねないという懸念もあります。

その憲法に定めのない「公的行為」が、いま、国民が接する天皇陛下の代表的なご活動となっているのです。そうしたことを背景に、今の国民が天皇制を考える際、憲法をそれほど重視しなくなったとも言えるのではないでしょうか。

天皇の活動の変化が、天皇をより国民にとって敬愛すべき身近な存在にした。しかし、その一方、憲法とは少し離れた存在になっていった。そうした天皇に対する国民意識の変化が、異例の退位に賛成する圧倒的な「民意」の形成につながったと分析することもできそうです。

それでも、「民意」は舵を取る

日本の「民意」の「不思議」な点について、外国人からは、感情に左右されやすい点、その時々の雰囲気で大きく変わる点、「KY」という言葉に象徴される、空気=世論に異論を差し挟むことが嫌われる点などが指摘されます。

ここまで見てきたように、退位を実現させた「民意」の形成に、報道で醸成された雰囲気や天皇への国民感情の変化が寄与しているとすれば、「不思議」だという指摘も否定できません。

しかし、主権者たる国民のこの「民意」こそが、日本の行く末を決めてきたのは事実です。そして、この「民意」が、これからもこの国の舵を取り続けます。来春に憲政史上初めての退位が実現する天皇制1つとっても、将来に禍根を残さないような議論をしていくことが私たちには求められていると思います。

さらには、ことしは国会で憲法の改正が議論される見通しです。その時々の課題について、私たち自身が主権者として、主体的に、多角的に、そして冷静に考え、議論していくことが大切なのではないかと、今回の取材を通じて改めて感じました。

政治部記者
古垣 弘人
平成22年入局。京都局から政治部へ。現在、官邸担当。
政治部記者
安田 早織
平成23年入局。富山局、名古屋局を経て政治部へ。現在、総理番。休日の楽しみはホットヨガで汗をかくこと。