巨魁沈黙 50年の戦い

「ドン」と呼ばれた男が、この世を去った。

山口武平、97歳。

県議ながら、時の首相らとつながる「茨城のドン」。
そのドンと、50年にわたって対立した宿敵がいる。将来を期待されながら、後に「沈黙の男」と称されるようになった国会議員だ。
「巨魁」と「沈黙」の絵に描いたような対立のドラマは、結末を迎えたのか。
(水戸放送局 土橋和佳)

「ドン」の死

夏の暑さが残る今年8月下旬。
利根川流域のまち、坂東市で行われた「お別れの会」には、地元住民を中心に1800人が訪れ、献花のために長い行列を作った。

山口武平は、89歳まで県議会議員を55年にわたって務めた。

歴代の自民党首脳と太いパイプを持ち、党内では「日本一実力のある地方議員」として畏れられた。

ふと、来賓席に見覚えのある後ろ姿を見つけた。

「あら、喜四郎さんが来てる」

「沈黙の男」

中村喜四郎、69歳。

坂東市の西隣・境町出身の衆議院議員。当選14回の大ベテランだ。

戦後生まれとして初めての閣僚となり、将来を嘱望された。しかし、ゼネコン汚職事件で失職。大きな挫折を味わった。

東京地検特捜部の取り調べで、雑談にも一切応じない完全黙秘を続けた。国政復帰後も、公の場での発言はほとんどなく、「沈黙の男」とも呼ばれる。

地元ゆかりの政治家同士。よく考えれば、喜四郎の弔問は何の不思議もない。ただ、日頃の取材で、私は、何度となく2人の因縁を聞いていた。

「茨城のドン」と「沈黙の男」。

因縁の2人が一方の死によって、いま向き合っているーー。
しばらく、その後ろ姿から目が離せなかった。

因縁の始まり

不運な巡り合わせ、というべきかもしれない。因縁の始まりは、ひとつの選挙だった。

46年前にさかのぼる。1972年。参議院議員だった喜四郎の父が死去。補欠選挙が行われた。

当時、県議5期目。政治家として力をつけていた武平は、自民党公認で立候補する。しかし、未亡人となった喜四郎の母が挑戦。結果は、弔い合戦を訴えた喜四郎の母に軍配があがった。

保守分裂選挙は、関係が近いだけに、後遺症が深い。

自民党古参県議が振り返る。
「梶山静六さん(故人・元官房長官)が間に入って、手打ち式が行われた」

「だが、本人同士というより、激しい戦いをやった周りが許さなかった」

2つの自民

茨城県議会には、現在「自民」を名乗る会派が2つある。
「いばらき自民党」と「自民県政クラブ」。

ゼネコン汚職事件で自民党を離党した喜四郎は、1997年、一審で実刑判決を受ける。次の衆院選に向け、自民党県連は、喜四郎以外の候補を擁立することを決めた。

『山口武平伝』によれば、当時、県連会長にまでのぼりつめていた武平は記者会見で、こう突き放している。
「政治倫理がこれだけ強く叫ばれている時代にあって、中村さんを推せば、党員や有権者から理解を得られない」

2000年の衆院選で、無所属の喜四郎は自民党の候補を破って当選を果たす。
この時、党の方針に反して喜四郎を応援した県議は、武平率いる自民党から除名された。除名された喜四郎派の県議で結成されたのが、「自民県政クラブ」だ。

県政クラブの一人は語る。
「『俺たちのほうが本当の自民党』、そんな気持ちが込められていた」

その後も喜四郎は、無所属の戦いで当選を重ねた。

「選挙で勝つことが自らの存在証明だ」とでもいうように、「沈黙の男」は、黙々と地元の支援者回りを続けた。

武平の壁

自民党復党を模索する動きを見せたこともあった喜四郎。
しかし、それはならなかった。
「茨城のドン」武平の壁が高かった、といわれる。

「(武平)会長自身は清濁を併せ呑める人だが、復党を認めれば、部下や子分がついてこなくなる。周りの目があり、引っ込みがつかなくなった」(前出の自民党古参県議)

「自民県政クラブ」のメンバーも、県議選の際は、無所属で戦う。各地で自民党公認候補とたびたび激戦を繰り返した。

そんな長年の宿敵との、別れの会。

武平の遺影に頭を下げた喜四郎の胸に去来する思いは、どんなものだったのだろう。
天国の武平は、喜四郎にどんな言葉をかけたのだろうか。

ドン亡き後の県議選で

「茨城のドン」の死去後、初めてとなる県議選。
ある選挙区が、最大級の注目を集めることになった。

古河市は、武平の地元・坂東市と喜四郎の地元・境町に接する県西端のまち。定員3。現職は、自民党公認の2人と「自民県政クラブ」の江田。

そこに…喜四郎の長男、勇太が参戦したのだ。

「三代目」の登場

32歳の中村勇太は、バイクにまたがり、支持を訴える。

父・喜四郎と同じスタイルだ。

茨城県政界の関係者は、喜四郎の秘書を務めていた勇太を、こんなふうに呼ぶことがある。
「三代目」
参議院議員だった喜四郎の父も、名前は「中村喜四郎」。
父の死後、名前を継いだ二代目・喜四郎の長男、だから「三代目」。みなよく歴史を知っている。

選挙戦に喜四郎は姿を見せない。演説でも、勇太は、父の話題をほとんどしない。
ただ、人口問題や財政状況…さまざまな政策分野を細かな数字のデータを駆使して訴える語り口は、父の姿に重なる。

出陣式での演説、勇太は、何かを断ち切るようにこう結んだ。
「私は選挙戦で、一切の悪口を使わない。くだらない悪口や誹謗中傷は、未来のこどもたちに失礼です。政策を大いに掲げて、正々堂々と戦い抜いていく」

仲人も務めた盟友に

勇太の立候補に最も驚いたのは、この人だったかもしれない。

候補者のひとり、現職の江田隆記、75歳。

喜四郎派で結成された自民県政クラブの初期メンバーだ。
勇太の参戦は、寝耳に水だったという。当然、喜四郎の後援会「喜友会」の票は割れる。

江田と喜四郎は、家族ぐるみのつきあいだった、とされる。江田は、喜四郎の結婚式で仲人まで務めたというのだ。
江田陣営の関係者が嘆いた。
「国政選挙のたびに、喜四郎さんの活動をしてきた。ずっと支えてきたのに、こんな仕打ちはやりきれない」

予兆はあった

自民県政クラブの関係者によると、喜四郎の行動に明らかな変化が生まれたのは、衆院選と同日で行われた前回4年前の県議選だ。県政クラブの候補者への目立った応援を控えるようになったという。

4年前といえば、すでに「茨城のドン」は県議を引退。自民党の最高顧問という、なかば名誉職におさまっていた。そんな中、喜四郎は、県議会の中で「自民」の看板をかかげ、苦楽をともにしてきた仲間と距離をとるようになった。

野党へ傾斜

さらに、「自民離れ」の動きは加速する。
今年6月の新潟県知事選挙では、野党統一候補の応援に尽力。
先の国会では、旧民進党出身者で作る会派に所属し、法案の採決などでは、野党寄りの対応をとった。

喜四郎の変化について、私は選挙戦の前、勇太に尋ねた。勇太は、こう答えた。
「いまの自民党は、もはや昔の自民党ではない。父がいたころの自民党ではない、ということではないでしょうか」

選挙戦終盤。思わぬ情報が入ってきた。
勇太と同じ古河市の選挙区で立候補している共産党公認の山口美千子の事務所に、喜四郎が「必勝」の為書きを出したというのだ。

駆けつけてみると、志位委員長と並んで、「沈黙の男」が笑っていた。
「せっかく頂いたので、貼らせていただいた」と事務所のスタッフは話した。

それにしても…、と私は戸惑う。
同じ選挙区で、共産党は、長男・勇太のライバルのはずだ。
野党に軸足を移したとはいえ、喜四郎と共産党の取り合わせも、意外な印象を受ける。

「沈黙の男」の真意は、どこにあるのだろう。
しかし、その肉声を聞くことはかなわなかった。

そして結果が

12月9日の投開票日。勇太は2位で当選。長年、喜四郎を支えてきた江田は落選した。

トップ当選した自民党・森田は、以前、喜四郎を支援したため自民党を除名。その後、復党した経緯がある。
お互いの人間関係は、どこまでも複雑に絡み合う。

隣に立った妹とともに花束を受け取った勇太は、笑顔で語った。
「政争に市民を巻き込まず、広い視野で県政を考えようということが賛同をいただいた要因になったと思う」

新たな地平へ

「茨城のドン」が逝き、「沈黙の男」が新たな足場を求めるーー。

半世紀近くに及ぶ2人のドラマは、ひとつの区切りを迎えた。
地縁、血縁、しがらみ。選挙は、いつもこれらと無縁ではいられない。

ただ、それだけでは困る。そんな余裕のある時代ではないのだ。

新しい局面に入った、この地域の行く先に今後も目をこらし、取材を進めていきたい。

(文中敬称略)

水戸局記者
土橋 和佳
平成24年入局。甲府局を経てつくば支局に配属され県南・県西を担当。趣味は映画鑑賞。