炎と優しさ 谷の来た道

その男を語るとき、人々は皆、異口同音にこういう。
曰く「兄貴分」、曰く「知と情の人」と。
仙谷由人。
今月11日に72歳で亡くなるまで、彼のもとを多くの関係者が訪れていた。今回、彼を知る3人の政治家と、3人の元「番記者」が、知られざるその姿を語った。
(仙台局 加藤彰浩/政治部 志賀淳二/おはよう日本 大谷暁/インタビュアー・政治部 山枡慧)

父としての通夜

10月15日、東京都文京区。
時折、小雨の降る中、仙谷由人 元官房長官の通夜が行われていた。
集まったのは30人ほどの近親者。
祭壇に飾られた遺影は、国会議事堂を背に口を固く結んで気概あふれる仙谷さんの姿。民主党が政権交代を実現する直前の頃のものだ。

亡くなったのは、4日前の11日。肺がんのため体の痛みは増していたが、その日も直前まで、鼻歌まじりに機嫌良く入浴していたという。
自宅で、大好きな家族に囲まれながらの安らかな最期だった。

1946年生まれ 同世代の同志

元総理大臣の菅直人氏。仙谷さんのことを「同世代の同志」と呼ぶ。
「まさに同世代なんだよね、1946年生まれで。1月生まれだから、彼の方が学年は1つ上だけど」

「われわれの学生時代は、ほとんどの大学がストライキをやっていて、仙谷さんが通っていた東京大学は一番有名だったけど、私の通っていた東京工業大学もストライキになったりして。私もある期間、学生運動に関わり、そういう意味では、似た経歴なんですね」

「学生時代は個人的には面識はなかったけど、その後、私も仙谷さんも議員になり、仙谷さんは社会党、私は社民連という政党で活動していましたが、民主党が出来て、その後の活動もずっと一緒にしてきた。まさに『同世代の同志』という思いです」

「政治の師」

枝野幸男氏、今や野党第1党、立憲民主党の代表だが、仙谷さんを「政治の師」と仰ぐ。
「永田町の中で育ててもらったという意味では、仙谷さんですね」

「最初の接点は僕が2回目の当選をした時で、いきなり『会いたい』と連絡がきました。お会いしたら、『自分が政策調査会長をやるので、代理をやれ』と。記者会見などで、『そばにいろ』という言い方すらせず、当たり前のようにそばにいさせられたんです。記者の皆さんと、どうつきあうかは、自然と覚えたというか。とにかく親分肌。後輩、若手を育てることを無意識のうちにされていたんじゃないかと思うぐらいです」

「いわゆる金融国会で、金融再生法につながる勉強会では、超一流のエコノミストや経済アナリストの人たちが、仙谷さんを通じて、若手議員と夕食を取りながら交流しました。そのつながりは、私にとっても最大の財産だし、民主党が政権を担っているときに力を発揮してくれた官僚とも、仙谷さんが、若手議員を呼んで、一緒にディスカッションをしていました。仙谷さんが私たちに残してくれたものだと思いますね」

「立ててくれた」

元外務大臣の前原誠司氏は、議員グループでの思い出を振り返る。

「最も長く、親しく、濃密な時間を過ごし、いろんな政治判断をともにしてきたという意味で、恩師と言ってもよい方です」

「2002年に民主党の代表選挙があり、党内で『野田佳彦氏と前原で候補者を一本化しろ』という話になり、推薦人の数などを加味し、野田氏を応援することになりました。その時、仙谷さんが、『もったいない。推薦してくれた人たちをグループにした方がよいんじゃないか』とおっしゃり、作ったのが『凌雲会』でした」

「2005年に民主党代表になった時には、ずっと後見人というか、本当に支えていただいた恩人ですね。
年齢も能力も上で人脈もあったけれども、私を立てて下さった」

宿痾とiPhoneと水割りと

「縦割り、補助金、天下りという日本の『宿痾(しゅくあ)』ともいうべき大変な病気を、大きなメスを入れて、えぐり取らなければならない」
行政刷新担当大臣に就任した仙谷さんが初めての記者会見で述べた言葉だ。

私は、2009年9月、政権交代の興奮冷めやらぬ中、仙谷さんの担当となった。仙谷さんの初仕事が「事業仕分け」だった。国会議員と有識者が、いわば“国民目線”で無駄な事業を洗い出す「事業仕分け」。その試みは「2位じゃダメなんでしょうか」という言葉とともにムーブメントを巻き起こし、仙谷さんはそれ以来、民主党政権の「背骨」となった。

はやり始めたころからiPhoneやiPadを片手に番記者の取材に応じていた仙谷さん。ガンで胃を全摘しているのに、番記者とも酒を酌み交わした。焼酎の水割りに地元徳島のすだちをしぼるのが好きで、紫煙をくゆらせながら、目指す政権の姿を熱く語ってくれたことを忘れない。(この項、志賀)

「泥をかぶった」官房長官

菅内閣で、仙谷さんは官房長官に就任する。
「私が総理大臣に就任するにあたって、『誰に官房長官をお願いしようか』といろいろ考えました」

「信頼もするし、大きな役割を担ってもらうという意味で、仙谷さんについて、耳の痛いことでも、ズバズバ遠慮なく言ってもらえる、まさに同志的な仲間という認識がありましたので、『ぜひ官房長官になって欲しい』とお願いしました。耳の痛いこともたくさん言われましたが、本当にいろんな意味で期待に応えてもらったと思っています」

その辣腕ぶりから、当時仙谷さんは、「影の総理大臣」とも呼ばれていた。政権の中枢として、あらゆる案件に携わるようになっていた。

しかし2010年9月に起きた沖縄県の尖閣諸島沖での中国漁船による衝突事件で、那覇地方検察庁が、逮捕された中国人船長を処分保留のまま釈放したことなどをめぐり、官房長官の仙谷さんは批判の矢面に立つことになった。

「軍事衝突、武力衝突に発展する可能性が、一時、感じられたこともあり、仙谷さんが、政治家としても、弁護士としても、いろんな能力を駆使し、最悪の事態への波及を抑える大きな役割を果たしてもらったと思ってます。仙谷官房長官を中心に一定の沈静化ができ、非常に大きな働きをしてもらったと思っています」

一方、当時、外務大臣だった前原氏は、次のように振り返る。
「仙谷さんが、悪者になった、泥をかぶったということで。菅総理大臣の指示だったわけですよ、『船長を帰せ』っていうのは。私は反対しましたけど、最後は総理大臣が決められることで」

「APEC=アジア太平洋経済協力会議を控えて、菅総理大臣は、中国の胡錦濤国家主席が日本に来ることを大切に考えておられた。いろいろと苦労されて、各役所の調整をしたのが仙谷さんでした。今でも、お気の毒だなという思いを持っていますよ」

優しいリアリスト

官房長官会見での口調などから、仙谷さんは、時に「威圧的」「けんか腰」とも評された。いわゆる「夜回り」取材でも、歩みを止めず、ほとんど口を割らないなど、私たち記者に対してもぶっきらぼうな面はあった。ただ、私にとっての仙谷さんは、「優しさの塊」というのが一番のイメージだ。視察先のベトナムでは、日本が支援する学校に通う生徒たちが懸命に学ぶ姿に、思わず涙を見せていた。「貧しかったころの日本の姿と重ね合わせてしまった」と語っていた。

官房長官番をしていて特に印象に残っているのは、B型肝炎訴訟の解決に向けた仙谷さんの「執念」だ。「過去の予防接種の際に、注射器を使い回されたのが感染の原因だ」として、患者や遺族が国に賠償を求め、各地で起こした裁判だ。

当時、仙谷さんに対する問責決議が可決され、2011年1月の内閣改造で、仙谷さんが官房長官を交替するのかどうか、注目が集まっていた。その改造の3日前、札幌地方裁判所は、最大で3600万円の和解金を支払うことなどを盛り込んだ和解案を示し、政府内では、この案の受け入れの可否をめぐり、大詰めの協議が進められていた。
永田町や霞ヶ関での関心が、どうしても内閣改造に向かう中、B型肝炎問題に思い入れの強かった仙谷さんは、自らの退任を悟っていたのか、官房長官としてのラスト3日間で、周囲の「雑音」をものともせず、各方面との調整に奔走した。

そして、退任するその日、官房長官として最後の記者会見で、和解案について「前向きに対応を検討していく」ことを表明した。

退任の翌日が、65歳の誕生日だった仙谷さんが、「これ以上、瑕疵(かし)のない人たちを苦しませてはいかんのだよ。B肝(=B型肝炎)にめどがついたことが、何よりの誕生日プレゼントだわな」と私に語ってくれたのを、今でも思い出す。「徹底したリアリスト」でありながら、常に「弱者へのまなざし」を意識していた、仙谷さんの優しさをあらわすエピソードの1つだ。(この項、大谷)

あえて「部下」になる

いわゆる「ねじれ国会」の中、参議院で仙谷官房長官に対する問責決議が可決された。その後の内閣改造に伴って退任。枝野氏が官房長官に就任する。

その2か月後に発生したのが東日本大震災だ。

仙谷さんは、官房副長官に起用され、当時の枝野官房長官を支えた。官房長官を務めたあとで、その「部下」である官房副長官に就任するなんていうことは異例だ。

当初私は、この話を聞いた時に、「本当に引き受けるのだろうか」と思ったが、仙谷さんは迷わずに受け入れ、その直後から、持ち前の調整能力を発揮した。各省の事務次官を官邸に呼び、被災者支援のための法整備を急ぐよう指示。被災地で不足していたガソリンの供給増に向けた、業界団体との折衝。自民党の幹事長など、野党幹部との調整。さらには、原発事故を受けて、東京電力が賠償金を支払うためのスキーム作りなど、危機管理で官邸を離れられない枝野官房長官に代わって、取りつかれたように仕事をしていた。

近寄りがたいほど殺気だった仙谷さんの眼差しからは、この国難を乗り越えるため、みずからが持てる力はすべて発揮しようという覚悟を感じた。「仕事師」という言葉が頭に浮かんだ。(この項、大谷)

霞が関を動かす

官房長官として仙谷さんに支えられた枝野氏も、同様に語る。
「民主党政権の中で、霞が関とのつきあい方と動かし方をちゃんと分かっていたのは、圧倒的に仙谷さんだったと思います。生活物資が届かない、長期の避難生活が当然視されるなど、苦しんでいる状況だったが、官房副長官を引き受けてもらった途端に被災者の生活支援が一気に動き出しました」

「仙谷さんは、誰に、どういう指示をすれば、動くのかを分かっていました。もちろん、それを期待してお願いしたわけだけど、予想以上にすぐに動き出した。霞が関の中で、相当な人間関係と信頼関係があったと思います」

被災地のためなら、「大連立」さえも

仙谷さんは生前、「政治は立場の弱い人のために」と、よく口にしていた。政治家になる前の弁護士時代も人権派としてならした。その信念を体現したのが、この官房副長官への就任だった。

官房副長官への任命は、時間がないため認証式にも平服で臨むという、緊急のものだった。仙谷さんが、いわば格下のポストを引き受けてまで震災の対応に力を注いだのには、自身の体験も影響していた。
仙谷さんの妻の実家は、1995年の阪神・淡路大震災で全壊し、家族は大変な生活を強いられた。
「自分も経験したから、苦しみが分かる。だから、被災した人を何とかしてやりたい」
仙谷さんは妻に、そう胸の内を明かしていたという。

「政党間で争っている場合じゃない」と、当時、自民党副総裁を務めていた大島理森衆議院議長と気脈を通じ、宿敵だった自民党との大連立も模索した。実現には至らなかったが、菅内閣の退陣を前提にしてまで自民党との交渉にあたったのは、被災地の一日も早い復旧・復興を目指しての決断だった。
被災地への思いは至るところにめぐらされ、被災者支援の法整備や自衛隊活用などの陣頭指揮を執った。

実は、私の実家も震災の津波で全壊し、ふるさとは壊滅した。仙谷さんは、震災発生の翌月、この宮城県の亘理町にも政府の要人として初めて訪れた。被災した小さな町には、まだまだ支援が行き届いてない頃だった。

海岸の堤防は砕け、住宅地はがれきの山となった惨状を視察し、切実な訴えに耳を傾けた。特産のいちごのビニールハウスもすべて流されていた。

今年2月、仙谷さんは、数年ぶりに亘理町を訪問。「いちご団地」と呼ばれるビニールハウス群ができ、いちごの生産は復活していた。
「こんな甘いいちごができるようになったんだな。いやー、良かった」
そう言って、もぎたてのいちごを笑顔で頬張る仙谷さんには、7年半前の様子が思い起こされていたのだろう。(この項、加藤)

議員バッジがなくても

仙谷さんは、落選後も、政治への情熱を失うことはなかった。前原氏が語る。
「仙谷さんは、2012年の衆議院選挙で落選しましたが、2014年の選挙の時、東京のある選挙区で、もう1回、選挙に出るという話があったので、止めたんですよ、私が。当時、民主党の党勢もよくなかったし、一応、分析しましたが、『とてもじゃないけど、勝てない』ということだったので止めたんです」

「その時は、非常に寂しそうでしたね。落選されてからも、『仙谷詣で』というのが官僚の間でもあるぐらい、人脈や人格、人徳、人を引きつける魅力を持った方でしたので、『何とか、われわれが政権を取って、国会議員バッジがなくても、仙谷さんに仕事をしてもらいたかった』と思っていました」

分裂「慰労してやるわ」

去年の衆議院選挙の直前、当時、民進党代表だった前原氏が、希望の党への事実上の合流を決断した際も、仙谷さんに相談したといいう。

「去年のような難しい決断の時には、『どう思われますか?』と、もちろん聞いていましたし、節目節目に相談して判断を仰ぐという方でした。仙谷さんは、『何もせんかったら、民進党は消滅するぞ』とおっしゃっていましたので、私が衆議院選挙の直前にやったことについては、非常にサポーティブでした。東京都の小池知事と組むという判断については、『それしかないかな』ということをおっしゃっていて」

「ただ、ベストな結果にはならなかったことについて、『慰労してやるわ』と食事に誘っていただいて。ゆっくりと食事をしたのは、それが最後かもしれません」

「世の中がついていけなかった」

枝野氏は、その魅力や実像が正確には伝わっていなかったと振り返る。
「マスメディアを通じて、仙谷さんの人間力というのが、なかなか短時間では伝わらなかったことは不幸だったと思う」

「全体を通して、やっぱり、仙谷さんの頭の良さに世の中がついていけなかったという、あえて言えば、世の中の不幸だったと思う」

最後まで

亡くなる1か月前の9月12日、私は仙谷さんと、東京・新橋にある事務所で会った。ふだんと微塵も違わない様子で、元気そのものだった。私の約束の前にも後にも、来客がひっきりなしに訪れていた。政界を退いて6年経っても、仙谷さんの知見や人脈を頼る永田町、霞ヶ関の関係者は多かった。
事務所の職員によると、亡くなる2日前まで、こうして普通に来客と面会し、変わった様子はなかったそうだ。

ある元衆議院議員によれば、12月には夕食会を開こうという話をしていたという。引退したあとも、傍らには常に政治があった。(この項、大谷)

笑顔

政界引退後、仙谷さんは、ミャンマーやベトナム、インドネシアを頻繁に訪れ、それまでに培った人脈を駆使して、若者たちを日本に招いたり日本の技術者を派遣したりして、人材の育成に取り組んだ。
「あの人たちは『坂の上の雲』だ」と、司馬遼太郎の本を引き合いに出しながら、若者たちの成長を楽しみにしていた。

通夜の会場は、「お父さんは明るいのが好きだったから」と、涙と笑いにあふれた。棺の中には、家族写真が何枚も添えられ、どの写真も真ん中には仙谷さんの笑顔があった。

政策論を交わす時の厳しい表情の一方で、子どもの話をする時には嬉しそうな父親の顔になる、そんな仙谷さんらしい別れだった。(この項、加藤)

 

仙台局デスク
加藤 彰浩
平成5年入局。現在は仙台局デスク。政治部では民主党や自民党、総理大臣官邸などを担当。
政治部記者
志賀 淳二
平成11年入局。広島局を経て政治部へ。民主党や自民党、防衛省を担当し、現在、外務省キャップ。趣味は筋肉体操。

おはよう日本 チーフプロデューサー
大谷 暁
平成12年入局。静岡局を経て政治部で仙谷番など。その後、神戸局。現在、おはよう日本。
政治部記者
山枡 慧
平成21年入局。青森局を経て政治部に。現在、野党担当。趣味はフットサル。