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写真:共同通信社

3_01写真:共同通信社

ロングヘアにサングラス。この写真、誰だかわかりますか?

今から39年前、1976年(昭和51年)当時の、作家・村上龍さんです。
ドラッグ、セックス、音楽・・・陶酔を求めてうごめく若者の退廃的な日常を描いた「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞した時の写真で、当時24歳。作品の舞台となったのは村上さん自身も1970年(昭和45年)から1年半ほど暮らしていた福生の米軍ハウスでした。

3_02写真:稲用祐一さん

もともと米軍ハウスとは、米兵に貸すことを目的に一定の規格に基づいて建設された平屋です。しかし、ベトナム戦争終結後は、横田基地の米兵や家族の数が減少したため、空家が増加。その新たな住人となったのが日本の若者でした。床がフローリングでアトリエとして利用しやすく、大音量で楽器を演奏しても近所から苦情があまり来なかったことなどから、美術や音楽関係者が多く集まったといわれています。

社会学の専門家はその背景を次のように考察しています。

ハウスは地理的には日本にあるものの、認識論的には日本でない空間として捉えられていた。(中略)渡米して「本場」のサブカルチャーに耽溺することによってではなく、異国情緒を感じさせるエアポケット的な空間で自らの望む生活を具現化する。1ドル360円であり、海外旅行も現在ほど一般的でなかった時代、ハウスでの生活は、コスト的にも精神的にも海外に出ることに比べてハードルが低かったはずだ

相模女子大学 木本玲一准教授「米軍基地を介した地域社会のグローバル化/ローカル化」より

「フェンスの向こうはアメリカ」に憧れて・・・

3_031982年(昭和57年) 写真:共同通信社

ロック歌手・忌野清志郎さんも70年代半ばに横田基地の横を走る国道16号線近くの米軍ハウスを友人とシェアして住んでいたといいます。「基地のフェンスの向こうはアメリカ、福生という街には一種の憧れがあった」と語っていた清志郎さん。2000年代になってからはトレードマークでもあった派手なステージ衣装も16号線沿いにあった仕立屋で作っていました。

ユーミンの“シークレット・ゾーン”

3_041984年(昭和59年) 写真:共同通信社

ユーミンこと松任谷由実さんには青春時代、“シークレット・ゾーン”と呼ぶ場所がいくつかあったそうです。そのひとつが米軍基地。自宅からほど近い立川基地や横田基地に出入りし、PXと呼ばれる基地内の購買部でジミ・ヘンドリックスやクリームなどの輸入版レコードを購入したといいます。

でね、それをグループサウンズの連中のところへ持っていくわけよ。もちろん自分でも聴くんだけど、彼らに貸してあげたりもするわけ。そうすると、大感激するのね
著書「ルージュの伝言」より

当時、全盛だったグループサウンズの追っかけをしていたユーミン。ぬいぐるみなどを贈る他のファンたちと国内ではまだ売っていないレコードを持ち込むユーミンではその差は歴然。“顔パス”になっていたそうです。これが中学2、3年頃の話だというのも驚きです。
プロのミュージシャンも喉から手が出るほど欲しい最新の音楽が手に入る“秘密の場所”ー それが米軍基地だったのです。

FUSSAの“仙人”

3_05山下達郎さん 大滝詠一さん 1981年(昭和56年)写真:共同通信社

そして“福生”を語るにあたって忘れてはいけないのがこの方、大滝詠一さんです。
大滝さんは細野晴臣さんらとバンド「はっぴいえんど」を結成し、日本のロックミュージックの先駆けとして大きな影響を与えた人物です。解散後も「シュガー・ベイブ」などをプロデュースして、山下達郎さんや大貫妙子さんらを世に送り出しました。松田聖子さんの「風立ちぬ」や、小林旭さんの「熱き心に」などを作曲したのもこの方。しかしテレビなどにはほとんど出演せず謎の多い人でした。

その大滝さんが福生市の隣、瑞穂町の米軍ハウスに引っ越してきたのは「はっぴいえんど」解散後の1973年(昭和48年)。自宅に作ったレコーディング・スタジオにつけた名前は、「福生45スタジオ」。ここから『ナイアガラ・ムーン』や『ナイアガラ・トライアングル』などの名作が生まれました。そのスタジオで最初にレコーディングした記念すべき曲がこちら・・・。

「福生ストラット(パートⅡ)」(作詞・作曲 大瀧詠一)
福生行きの切符買って (お守りに)
福が生まれる町
すぐに生まれる町
福生ストラット Keep on strut

歌詞はこの4行だけ。
当時、大滝さん自身が記したライナーノーツ(解説文)にはこう書いてあります。

御存知の通り、僕がいま住んでいるのは、横田基地のすぐそば、福生(フッサ)という所。すでに三橋美智也氏の“福生よいとこ”はレコード化されましたが、ここで私もと張切ったものです。今年のお正月には、福生駅の入場券が沢山売れたというし、幸福行きのキップが売れに売れ、そのキップを持って心中したカップルもいたそうですね、幸福を得るにはキップしかないと、追いつめられた現代人の心を、凄まじい程によぎる、1975年度戦慄の問題作であります

ここで書かれた「幸福行きのキップ」とは、当時大人気となった北海道の旧国鉄広尾線「愛国駅」から「幸福駅」行きの切符。縁起の良さにあやかる人々が買い求め、前年は7枚しか売れなかった切符が300万枚も売れました。4年で1000万枚を超える一大ブームを巻き起こしたのです。
ライナーノーツには大滝さんがなぜ、“福生”に来たのかは書かれていませんが
「福生の市長さん、福生の市歌にしてくれないかしら?」と、冗談とも本気ともとれるコメントで締めくくられています。

大滝さんが“福生”で曲を作り始めてから40年。現在の福生市長の随想に、大滝さんが“福生”を選んだ理由が記されていました。

実は、もう20年位前になりますが、私の妹が教職に就いており、大瀧さんのお子さんを教えたことが縁で何度かお会いし、お食事やお酒をご一緒する幸運に恵まれました。
(中略)あるとき、なぜ岩手県から上京され、音楽活動の拠点としてこの地域を選んだのか尋ねたことがあります。大瀧さんいわく、「福生というまちにはさまざまな国の文化を持つ人たちが行き来している。そのなかで国際感覚を研ぎ澄まし、自分の持つ感性や音楽センスを磨くのに一番適している地域だと感じた。あとは自分を信じて一生懸命に生きるのみだ」との答えでした
福生市長・加藤育男 市長随想「全力投球」より

多くのアーティストを引き寄せ、さまざまな音楽や作品が生まれた“福生”。“国際感覚”を求める人にとっては、魅力と可能性が街に満ちているのかもしれません。

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1970年代の空気感を今に伝えるライブハウスがあると聞き、訪ねました。
国道16号線から東福生駅に向かって歩くと、住宅街の中にその店はあります。

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ザ・ストリート・スライダーズやZIGGYなど、数々のバンドがここからプロとして巣立ったという「伝説」のライブハウス。店主は村上永里子さん(65才)。

短大卒業後、関西から東京へと移り住みバンド活動をしていた永里子さん。1970年代初頭、夫の祐一さんとともに横田基地近くの米軍ハウスに住み始めます。

「私たちのようなミュージシャン、近所には彫刻家、画家、楽器職人が住んでいた。一軒の家を3人くらいでシェアして生活する美大の学生もいて、いつもみんなで騒いでいました。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読んだけど、まさにあんな感じでしたよ、私の周りは。ちょっとフツウの人とは違ったと思います

3_08写真:稲用祐一さん

ライブハウスを始めたのは1975年(昭和50年)。当時はベトナム戦争の終盤にさしかかっていたころ。
店は基地から訪れる米兵と、日本の若者とでごった返していました。

3_09写真提供:村上永里子さん

「お客さんは米兵と日本人とで半々くらい。ヒッピーみたいな人がたくさんいて、反戦だとか自由だとか騒いでいた。ロックで世界を変える!と本気で考えていた」

3_10写真提供:村上永里子さん

当時のアメリカは徴兵制。ライブハウスに来る米兵の中にも反戦の姿勢を口にして「早く帰りたい」「戦争はイヤだ」とこぼす人がいたそうです。
村上さんの記憶に強烈に残っているのがベトナム戦争終結の日。

「店の中で4、5人の米兵がいきなり軍服を脱いで、真っ裸になって店の前の空き地へ走っていった。軍服を踏みつけてどろどろにして、その辺に落ちていた木の枝で十字架を造り、そこに軍服をかけて燃やした。「やっと戦争が終わった!」と言いながら涙を流す彼らの顔がずっと忘れられないです」

3_11“軍服に火をかけて終戦を祝った”米兵たち 写真提供:村上永里子さん
 
 

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福生を愛する著名人は数多くいますが、この人もそんな1人。いくつもの飲食店チェーンの経営者として知られる、中島武さん(67才)。筋金入りの福生好きで、「福生は自分の青春」と公言しています。小学生の頃から福生に憧れ、中学校から遊びに来ていたと言います。

「(1960年前半の中学校時代は)米兵の履いていたジーパンを「ヤンジー」と呼んでいた。あれが欲しくてね。でも高過ぎて、16号線沿いの古着屋で見るだけ。何ヶ月かお小遣いを貯めて買いました。それから長いブーツ。自分は長靴を履いてマネしていたのを覚えています。あと、エアフォースジャケット。小さなサイズでも、中学生の体には大きいから、きっとダボダボで変だっただろうね。でもかっこよかったんだよ。せいぜい中学生の自分に買えたのは、彼らのしていた布製のベルト。普通の学ランの下にベルトだけ米軍の、というのを気に入っていた」

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1964年(昭和39年)に雑誌「平凡パンチ」が創刊され、50年代のアメリカの学生が着ていた、ボタンダウンシャツとコットンパンツ姿の「IVYルック」が広がりました。福生にもアメリカンテイストを求める若くておしゃれな人たちが集まります。

差を付けるために、米兵が服を注文していた16号線沿いの仕立屋で、ハリウッド俳優が着ていた、細見で肩パッドのない、玉虫色の生地というスタイルの「コンポラスーツ」に身を固めた時期もあったといいます。ちなみに、米兵がコンポラを着て都心に遊びに出かけたのをきっかけに、ミュージシャンの間でコンポラが広がったと言うことです。

3_1716号線沿いの仕立屋でオーダーしたスーツ

1970年代、福生に最先端のサブカルチャーがあるからと、若者が次々と米軍ハウスに「入植」するのを、中島さんは冷ややかに見ていたと言います。

「小学校の頃から福生を知っている者からしたら、「自由な生活」とか言って一時期ハウスに住んで芸術活動するような人が軟派に見えたんだよね。自分たちが知っている福生はもっと危なっかしくて泥臭くて「硬派」だったから」

「軟派」も「硬派」も数多くの人々が集まってきた福生。
しかしベトナム戦争が終結すると次第に横田基地の米兵は少なくなります。

また、ドルと円の固定相場制が終わり、ドル安が進み、米兵が基地の外に出ること自体が減っていきました。基地と街の交わりは薄れていきます。

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今も、昔と変わらずライブハウスの営業を続ける村上永里子さん。福生で暮らす上でのジレンマを語りました。

「戦争は絶対にしてはいけないとは思っています。でも、この街は基地があって成り立っているという側面もある。平和であることはありがたいことですが戦争があった方が栄える、というのは複雑な気持ちです」

次回、福生に活気を取り戻そうとする、地元の方々の姿をル“ポ”します。

撮影:武田充弘