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今回の「ニッポンのポ」は戦後70年 激動を経験した町、東京・福生市をル“ポ”します。
歌手の木村カエラさんも「福生のうた」で歌っていますが…

FUSSA(ふっさ)のスペルをよく見てよ USAが入ってる……

この歌の通り、福生には“アメリカ”が入っています。
横田基地と共に歩んだ福生の70年を地元の方々の証言で振り返ります。
見えてきたのは、福生の70年。そしてニッポンの70年―。

ポ 福生を歩く
新宿駅から40分のJR青梅線の牛浜駅。
駅から15分ほど歩くと見えてきたのは青い外壁の平屋。1950年代にアメリカ軍兵士と
その家族のために建てられたという「米軍ハウス」。今も100軒近くが建っています。
2つの看板横田基地の第5ゲートには2つの看板。米空軍と日本の航空自衛隊が入っています。
 
異国感基地と隣り合わせに続く、国道16号線沿い。他の町とは違う雰囲気を感じます。
 

 

 
道路の反対側は、横田基地の塀が続きます。長さは南北4.5キロメートル。
基地の広さは…。

 

  • 基地面積7.136平方キロメートル。沖縄を除くと、日本最大の米空軍基地
  • 福生市、武蔵村山市、羽村市、昭島市、立川市、瑞穂町の6市町にまたがる
  • 福生市は、面積の3分の1が横田基地

 

証言 戦後急成長した福生の町
国道16号線沿いを歩くと、地元で最も古い店の一つがあります。
1955年(昭和30年)開業、米兵向けの自動車保険を取り扱っている店です。
ここで「福生の戦後」を聞くことができました。
店主の森重裕子(やすこ)さん(80才)。1962年(昭和37年)に結婚、夫が開いた店を切り盛り。34年前に夫が亡くなった後も、店を守り続けています。

夫・森重ジョージさんは、アメリカ生まれの日系2世。日本とアメリカの間で揺れ動いた人です。
第二次世界大戦中、「アメリカに住む日系人は強制収容所に入れられる」という情報を聞いたジョージさんの父親は一家を連れて日本へ帰国。ジョージさんは日本国籍を取り、日本語を猛勉強したと言います。
森重さん   写真提供:森重裕子さん
16歳で陸軍飛行学校へ入り、特攻隊員としての訓練を受けます。
出撃前に終戦を迎えたジョージさんは戦後、米軍相手の仕事を始めました。
 

横田基地の誕生 戦時中の多摩飛行場 写真提供:「素顔の横田基地」ホームページ
この時代、ジョージさん同様、横田基地も揺れ動いていました。

1940年(昭和15年)、旧日本陸軍立川飛行場の付属施設「多摩飛行場」が発足。
これが、横田基地の前身です。

1945年(昭和20年)の敗戦を機に、飛行場は米軍に接収されます。
横田基地写真:AF photos
1949年(昭和24年)に米軍が撮影した横田基地。中央にあるのは管制塔。大勢の米兵の姿が見えます。

航空写真昔写真:AF photos
上は1947年(昭和22年)に米軍が撮影した横田基地周辺の航空写真。画面上に基地が見えます。当時、基地の周辺は森や雑木林ばかり。人はほとんど住んでいなかったそうです。
下の写真は現在の横田基地周辺。基地のすぐそばまで、建物が建っています。
航空写真今©Google

何もない町から基地の町へ写真提供:森重裕子さん
上は開店当初の森重さんの店。当時の16号線は歩道もなく、片側一車線。
店の周りには桑畑と米軍ハウスしか見えません。
下は360度カメラで見た今の森重さんの店周辺。街も様変わりしましたね。

 

かつては閑散としていた街。しかしその後、基地の拡張に合わせるように客が増えたと
森重さんは言います。
顧客名簿右:開店当初からの顧客記録が残されている

「アメリカから持ち込んだ自動車に日本の保険をかけるため、店にはひっきりなしに米兵が訪ねて来ました。保険だけでなく、日本語が不自由な米兵の車検の世話や事故対応、修理屋やディーラーとのやりとりなど頼まれたら何でも引き受けました」

国道16左 1964年(昭和39年)の国道16号線
  右端に森重さんの店が見える 写真:高木紀男さん
右 写真提供:福生武蔵野商店街振興組合

次々と米兵相手の店が建ち始めた様子を森重さんは振り返ります。

「国産パールの店、和人形屋、おもちゃ屋、陶器屋などアメリカへ帰国する時のお土産を扱う店。うちの隣は、花屋と似顔絵を描くポートレート屋さんでした。ここで暮らす米軍関係者のための仕立屋やパーマ屋もたくさんありました。服なんて1日に5着くらいオーダーする米兵もいたみたいですよ。自動車の修理工場や飲食店も並び始めました。当時、一番大きかったのはオーディオ屋さん。アメリカの雰囲気どころか、アメリカそのもの、とさえ言えるような町でした。」

いまなお変わり続ける横田基地写真 : 共同通信社
戦後70年。国内の多くの米軍基地で返還・縮小が進む一方で、横田基地は機能が強化されてきた歴史があります。

横田基地は朝鮮戦争の際、B-29爆撃機を主力とする部隊が駐留し、出撃や補給の拠点となりました。 その後、戦闘機部隊は沖縄などに移転。ベトナム戦争の時期は、輸送基地としての重要性が増していきました。1970年代には、関東6か所の米軍基地が横田基地に集約され、在日米軍全体の司令部も置かれます。 3年前には、航空自衛隊の航空総隊司令部が移転し、日米共同で対処する場合の司令部機能が整備されました。

こうした中、横田基地周辺の住民に重くのしかかってきたのが騒音問題です。
基地の騒音を巡っては、これまでたびたび訴訟が起こされています。
8年前には、「限度を超える騒音被害が続いている」として、国に30億円の支払いを命じる最高裁判決が出ました。しかし、住民が求める、夜間や早朝の飛行禁止の訴えは退けられています。
オスプレイ2015年(平成27年)6月6日 写真:共同通信社
ことし5月にはアメリカ国防総省が、アメリカ空軍の新型輸送機、オスプレイCV22を横田基地に再来年以降、配備する計画を発表しました。

 

元市長 2000年(平成12年)から8年間、福生市の市長を務めてきた野澤久人さん(76才)。
市の3分の1を占める基地の存在は、騒音公害だけではなく、都市計画や地域経済の発展の上でも、課題だと話しています。また、野澤さんが市長だった2006年(平成18年)、在日米軍の再編に関する日米合意に基づき、航空自衛隊の航空総隊司令部が、府中基地から横田基地に移転することが決定、3年前の2012年(平成24年)から運用が始まりました。そこには、「基地の街」としてのジレンマが見え隠れします。

「米軍基地の70年間で最も大きな転換点だと思っている。基地はない方が望ましいが、自衛隊が来たということは、向こう何年、福生から基地がなくなることはないんだと実感した。基地があるという前提で、いかに住民の暮らしを守るかを考えなくてはと改めて思った」

戦後70年、徐々に存在感を大きくしてきた横田基地。
その変化は地元の人々の基地と関係にも変化を及ぼしているかもしれません。

撮影:武田充弘