お別れの飾りを付けて走る
共同通信社

赤いランプは「お別れの印」

白い夜霧の あかりに濡れて
別れせつない プラットホーム
ベルが鳴る ベルが鳴る
さらばと告げて 手を振る君は
赤いランプの終列車

1952年(昭和27年)発売のヒット曲で、春日八郎のデビュー曲「赤いランプの終列車」の一節です。この「赤いランプの終列車」が、今回紹介する「赤電」のこと。その日運行する最終の路面電車をかつて「赤電車」や「赤電」と言いました。写真は1967年(昭和42年)の銀座を走る都電。この日が最後の運行でした。この「赤電車」は、まさに最後の「赤電」だったわけです。

なぜ「赤電車」と呼ばれたのか。その理由は、路面電車の前後に付けられた行き先標識を、終電車の印として赤い電球で照らしたことから。春日さんが歌い上げたように、いつまでも一緒にいたいと願う恋人たちや、時間を惜しむ人々にとって、この赤ランプは「お別れの印」だったわけです。恋人を見送る人々は、赤いランプが遠ざかり、やがて夜霧に消えていくまで、切ない思いでいつまでも見つめていたことでしょう。ちなみに、赤電の一つ前の電車、つまり最終電車の一本前は、青いランプをともしたことから「青電車」「青電」と呼ばれました。

「あの人は赤電車」とこっそり言われたことも

最終電車を指すところから、いつも遅くに帰る人や、飲食店で遅くまでいる客をたとえて「赤電車」と呼ぶこともあったとか。今の言葉に充てるならば、酒を飲んだり、遊んだりして深夜零時を回って帰る「午前さま」でしょうか。また「青電車」も、「最後から二番目のもの」という意味で使われることもありました。1973年(昭和48年)に発表された杉浦明平の小説「三とせの春は過ぎやすし」では、このような一節が残っています。

一学期は青電車つまりビリから二番目

高度経済成長で姿を消した、戦後復興の象徴

「赤電車・青電車」という言葉が使われていたのは、移動手段としての路面電車が盛んに街中を走っていた時代でした。特に東京の中心部では都電の路線網が山手線の内側に張り巡らされていました。戦争時の空襲で、多数の車両や線路、営業所が焼失するなど大きな被害を受けましたが、1949年(昭和24年)には営業路線が復旧し、1950年代には停留所も戦前の水準まで復旧します。都電が多くの人を乗せて走る姿は、戦後の復興を象徴するものでした。

しかし、昭和40年代に加速したマイカーの普及によって、道路の交通量も増加。道路を走る路面電車はスピードもなく、機動力にも乏しいことから、次第にその役目を自動車に譲ることになりました。都電は昭和42年(1967年)から順次廃止されていき、昭和47年(1972年)以降から現在に至るまで、三ノ輪橋~早稲田間を走る荒川線が残るだけになっています。「赤電車・青電車」も、都電が姿を消すのにともない、あまり聞かれなくなりました。また都電の車両も新しくなり、終電車の行き先を照らす赤いランプも姿を消しつつあります。

夜遅くに走っているバスをよく見てみると…

消えた都電の「赤電車・青電車」の面影が、今もなお残っているところがあります。それは「都営バス」。上の写真をよく見ると…バスの行き先標識には赤い枠線が表示されているのが見えます。これ、最終のバスの印なのです。終バス一本前の「青電車」にあたるバスでは、この赤枠が緑の枠線になっています。

「知ってた? この終バスの枠線って実は路面電車が走っているころの名残でさ…」と終バスの写真を見せながら豆知識の一つでも披露すれば、「午前さま」でお怒りのパートナーの気持ちも、少しはやわらぐかもしれませんよ。「そんな写真を撮ってるひまがあったら、もっと早く帰ってきなさい」と、火に油を注ぐかもしれませんが…。