パンダアドバルーンを設置
写真:共同通信社

実は和製英語の「アドバルーン」

看板、ポスター、チラシ、テレビCM……はたまた最近ではインターネットやスマートフォン向けのものまで、広告の形は数あれど、最近はほとんど見かけなくなってしまったものがあります。そのひとつがきょうのソレナニ図鑑で紹介する「アドバルーン」。名前の由来は「Advertising Balloon」。海外生まれのように見えますが、日本生まれの和製英語なのです。

デパートなど高い建物の屋上から浮かび上がらせた気球に、お知らせや広告用の字幕をつり下げて人々の注目を集めるアドバルーンの歴史は大正時代にまでさかのぼります。前身は、1913年(大正2年)に登場した、気球自体に絵や文字を書いた「広告気球」。1921年(大正10年)には、小型の気球に字幕入りののぼりをつり下げるアドバルーンが生まれ、昭和に入ると字幕ののぼりは網状のネットに変わり、その後のアドバルーンと同じ形になります。しかし、太平洋戦争が始まるとアドバルーンの掲揚は禁止されてしまいます。そして終戦直後の時代の空気を物語る、ひとつのエピソードのなかにアドバルーンが登場します。

戦後に復活、しかし1日限りで…

戦後初となるアドバルーンは、1948年(昭和23年)に東京・有楽町の日劇(日本劇場)屋上から揚げられました。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)の指令によって、たった1日で禁止されてしまいます。その理由は「風船爆弾のイメージが残存する」というものでした。風船爆弾とは、アメリカ本土の爆撃を狙って戦時中に作られた、紙製の気球爆弾兵器のこと。アドバルーンが本格的に解禁されるのは、1951年(昭和26年)の「繋留(けいりゅう)広告気球制限規定」の緩和まで待たなくてはなりませんでした。

1969年(昭和44年)の総選挙では投票を呼び掛けるアドバルーンも 写真:共同通信社

1969年(昭和44年)の総選挙では投票を呼び掛けるアドバルーンも 写真:共同通信社

1951年の規制緩和後は、アドバルーンが大活躍。セールの宣伝以外にも、消防出初式や博物館の開館といった、イベント告知や慶事の定番アイテムとして、各地の空に揚がりました。東京で揚げられたアドバルーンの数は、1951年(昭和26年)には約2000本でしたが、5年後の1956年(昭和31年)には5倍の約1万本に。1964年(昭和39年)、銀座の百貨店・松屋の新装開店時には一度に553本ものアドバルーンが揚げられたといいます。

アドバルーンを取り巻く環境が大きく変化した今…

しかし、アドバルーンを取り巻く環境は、日本の高度経済成長にともなって変わっていきます。都市部では高層建築が立ち並び、空を見上げてもアドバルーンが見えづらくなったことなどから、徐々に姿を消していきます。現在でも、アドバルーンは開店記念や運動会、学園祭といった催し物で使われていますが、「人目を引く」ことよりも「懐かしいから」という理由で揚げられることが多くなっているのだそうです。アドバルーンを揚げる技術を持った”職人”の高齢化も問題になっているのだとか。

そういえば、同じく空に浮かぶ「飛行船」も、めっきり見なくなってしまったような……。以前は、広告を描いた機体の飛行船がいくつか飛んでいましたが、現在、日本の上空を飛ぶ有人飛行船は、たった1機だけだそうです。アドバルーンも飛行船も懐かしさを感じさせるものになりつつありますが、大空を見上げる気分は、時代を経ても味わいたいものです。え?見上げる空がない? そうですよね…。小型の無人機「ドローン」が垂れ幕を掲げる「アドドローン」はすでに登場しているので、次は画面から3Dで投影される、「飛び出るアドバルーン」でしょうか…。バルーンじゃなくても、いいかもしれませんが…。