第10回 鈴木亜弥子「敗北で手にした光明」

世界に敵なし

 100_155A0174_R.JPG

パラバドミントンは、2020東京パラリンピックで初めて正式競技として行われる。クラス分けによる大きな違いは、コートの使用部分。ラケットやシャトル、そして基本のルールはほぼ一般のバドミントンと変わらない。パワフルなジャンピングスマッシュの迫力や、頭脳プレーの数々に思わず息を飲む。中国、インドネシア、マレーシアなど、アジアが世界を席巻しているが、日本もその一角を担っている。

鈴木亜弥子は、パラバドミントンの上肢障害のクラス(SU5)のプレーヤーである。今年9月、東京・町田市で開催された日本初のパラバドミントン国際大会に出場し、女子シングルスで優勝した。



1987年、埼玉県生まれ。生まれたときより右腕に機能障害があり、力を入れる、右腕を肩より高く上げる、といったことができない。握力は13kg程度だ。
鈴木は、小学3年でバドミントンを始めた。両親はともにバドミントンの選手で、現在もそれぞれ社会人チームなどでプレーする。1歳違いの姉も幼い時からバドミントンを始めていたため、体育館に通うのもバドミントンを始めるのもごく自然な流れだった。
バドミントンのために進学した高校時代には、インターハイ出場、ジュニアオリンピック全国2位に。大学1年の時にはインカレにも出場。強豪選手がひしめく日本のバドミントン界で、鈴木は着実に実績をあげていた。
そうして、大学3年の時にパラバドミントンに出会った。

自身、初めての国際大会となる2009年のパラバドミントン世界選手権でいきなり優勝。翌年、中国・広州で開催されたアジアパラ競技大会でも優勝。
「初めての国際大会だったのに世界選手権の記憶、印象はほとんどありません。でも、アジアパラは鮮烈に覚えています。バドミントンは中国でも非常に人気の高い競技。だからアリーナは観客でいっぱい。大会も華々しくパラリンピックもこんな感じなのかな、と思っていました」
始めたばかりの鈴木だが、パラバドミントンの世界に敵なしの状態だった。

そのアジアパラ競技大会を境に、鈴木は現役を引退した。
「バドミントンはパラリンピック競技ではなかったし、次の目標を見据えるというより、ひと段落して普通のOL生活をしてみたいって思ったんです」


5年間のブランクからの復帰

 

101_155A0733_R.JPG

鈴木が復帰を決めたのは、東京パラリンピック開催が決まり、そしてパラバドミントンが東京で初めて正式競技に採用されることが決定したことによる。
「パラリンピック競技になって、今世界はどう進化しているかちょっと見てみようと思って、14年に韓国・インチョンで行われたアジアパラ競技大会に出かけました」
中国同士の決勝戦を目の当たりにして、「優勝した選手には勝てないかもしれないが、2位の選手になら頑張れば勝てるかもしれない」という印象を持ったという。

しかし、実際に鈴木が本格復帰を果たすまでに1年間もの時間を費やした。
「2020年に、私は33歳。体力的には決して楽ではありません。一度引退している。復帰したら、簡単に“辞める”ことは許されません。それでも、もし挑戦しなかったら、50歳くらいになった時に、きっと後悔するだろうって。それが、復帰を決意した最大の理由でした」


復帰を決めて、5年ぶりにラケットを握った。出産でやはりバドミントンを離れていた姉と、ネットを挟んで打ち合った。
「もう、笑っちゃうくらいダメダメでした。クリア(相手コート奥に打つショット)飛ばすのが精一杯(笑)」

お正月の羽根つきのようなほのぼのした光景が目に浮かぶ。
しかし、復帰を決めた鈴木は実業団チームのある会社への転職を考え動き始めていた。高校時代の恩師が勤務していたという縁で、2016年に現在所属する七十七銀行に入行した。
平日午前中は仙台駅近くにあるオフィスで就業、昼休みにチームの体育館に移動し、18時まで練習という日々を送る。筋力トレーニングは一般のマシンを使うことが難しいため、パーソナルトレーニングを受けているという。


七十七銀行バドミントン部の草井篤監督は、入団したばかりの鈴木に戸惑っていた。
「5年間のブランクがあったとは聞いていたが、正直大丈夫だろうかと不安でした。ラケットも振れていない、足もついていかない。健常の選手たちが打つスマッシュに、“怖い!”と立ちすくんでいましたから」

バドミントンは、マラソンの途中で100mダッシュを繰り返すような競技だ。怪我をしない、戦う体力をとにかく養うこと。それが最優先課題だった。草井監督の指導のもとで、鈴木はハードな練習に取り組んでいった。


体幹を使う意識の芽生え

 

102_155A0717_R.JPG

2016年11月に出場したアジア選手権の決勝で、中国の楊秋霞と対戦し、初めて敗北を喫した。
「そこが、本当の意味での再スタートでした」

決勝で対戦した楊は、切断した腕が短い。
「彼女は体幹がすごく強くて、ネット際ギリギリのドロップショットを、体をぶらさずに拾うんです」
そのプレーを見て衝撃を受けた。


健常者は意識することなく利き手と反対の腕でリードしながらショットを打ったり、ショット後の体のブレをコントロールしたりする。しかし、上肢障害(SU5)クラスの選手たちは、ラケットを持つ腕とは反対側の腕による反動を利用することが難しく、ショットを打った後に体が流されてしまうことが多い。

「大学まで一般のバドミントンでプレーしていた時には、右腕が使えずに体がブレても、それは自分にとって当たり前だと思い込んでいたんです。パラバドミントンを始めてからも、その状態のまま国際大会で優勝できていたから、そこに疑問を持つことがなかった。でも、そうじゃない。楊選手は腕が使えなくても、体だけでしっかりショットを拾って、力強いショットを打ってくる。楊選手と同じように体幹でプレーしなくては、彼女に勝つことはできないと強く意識するようになったんです」

パラリンピックを目指してパラバドミントンに復帰したことで得た、気づきだった。自分の体に正面から向き合い、障害を補う体の使い方を自分で考える。それがなければ、目標に近づくことはできないと、覚悟を新たにした。
敗北を味わって改めて、鈴木は体幹トレーニングや体力強化を見直した。


逆転勝利、さらなる高みへ

 

103_155A1381_R.JPG

そして10か月後、東京・町田市で開催された国際大会で、再び楊と対戦。予選ラウンドではセットカウント0−2のストレート負けを喫した。
「ゲーム中盤に息が上がって体がついていかなかった。まだまだ体力が足りない」
楊には、1年前のアジア選手権の決勝で敗れている。パラバドミントンを始めて以来2連敗した相手は、楊だけだ。

鈴木は決勝トーナメントを順調に勝ち進み、「3度目の正直」となる楊との決勝戦に臨んだ。1セット目、9連続失点を許し8−21という大差で落としてしまう。満員のスタンドは鈴木の敗色に言葉を失っていた。


「バドミントンは2セットを取れば勝つことができる。だから、1セット目を大差で落としたからと言って、そのままメンタルが落ちることはありませんでした」

ただ、何かを変えなければ勝てない。セット間に日本チームの喜多努監督と森かおりコーチから指摘された「クリアをもっと奥深く」というアドバイスに集中し、プレーを修正して2セット目を取り返す。
ファイナルセットで焦りが見えた楊の球筋が、鈴木の目に止まった。
「クロスに返球する癖がある!」
予選ラウンドで対戦した時には、楊が放つクロスに対応仕切れなかった。が、決勝戦で鈴木はライバルの癖を冷静に捉え、封じ込めた。
20−18で迎えたマッチポイント。楊の放ったショットがネットにかかる。ゲームセット。まさに3度目の正直で掴んだ逆転勝利だった。

「1年前、楊選手に負けて本当によかった」
その経験がなかったら、決して成長できなかったはずだから。
「今大会でも、疲労で足がつったりもした。体力強化は東京まで続きます。今後は、フェイントなど、ショットのバリエーションをさらに増やしていきたい。それが実現できるのも体力あればこそ、なんです」

104_155A1494.JPG

試合終了後、喜多努監督(左)とコートを去る鈴木。試合中の厳しい表情から、“いつもの笑顔”に戻り、緊迫感の続く試合中、ずっと応援してくれた観客に何度も手を振っていた


鈴木が見つめている先にあるのは、2020東京パラリンピック。
「金メダルを取ること」
その1点にフォーカスし、鈴木は今日も体育館に向かうのだ。




写真:2017年9月に行われた「JAPANパラバドミントン国際大会2017」女子SU5シングルス決勝より

 

キーワード: 
著者:スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)
1960年、東京都生まれ。出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌「Tarzan」ほか「スポーツグラフィックナンバー」などで執筆。現在、「Tarzan」「それを最大限に活かせ! パラアスリートGO!」の連載を展開中。12年ロンドン・パラリンピック、14年ソチ・パラリンピックではNHK開会式中継解説を担当。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

宮崎恵理さんへのインタビューはこちら
Road to Rio特別編 ~パラリンピック、かかわる人々。Vol.4 スポーツライター・宮崎恵理さん~