第4回芦田創「陸上競技。それは体と心を動かす力」

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2016年リオパラリンピック 陸上 走幅跳 男子(T42-47)より


芦田創。はじむ、と読む。1993年に兵庫県で生まれた。右上肢障害のパラ陸上選手として、リオデジャネイロパラリンピックに出場し、立位男子4 × 100mリレーの第1走者として銅メダルを獲得。個人種目の走り幅跳びでは12位だった。
5歳の時、右腕に悪性腫瘍が発症した。現在、右肩、肘の関節が外れた状態のままで、親指は動かせるが他の指は拘縮している。放射線治療のため腕の長さは子どもの頃のままである。

今年3月、オーストラリア・キャンベラで行われた競技大会の走り幅跳びで、日本記録を更新する7m15を跳んだ。昨年5月に出した6m84の自己ベストを塗り替え、一つの目標としてきた7m台に突入したのだ。

24年間の人生に、明確な転機があった。
「今は、第3章をまっしぐら、という感じです」

 

第1章 闘病生活からの脱却


「小さい時から活発でした。病気を発症して放射線治療を継続している時などは、体育の授業を見学しなくてはいけない時期もありましたけど、それでもスポーツは大好きでしたね」
中学3年の時に、病状が悪化する。肘の内側にできた腫瘍が神経を巻き込んでしまっていた。腫瘍を切除する手術をしなければ、やがて肘から先が壊死してしまう。病状が進めば最終的に右腕を切断しなくてはいけないと、医師から告げられた。
「5歳で病気になってから、それこそ体育も遊びも、さまざまなことを制限される中で生きてきた。どうせ、切断しなくてはいけないなら、ちょっとだけやりたいことをやってみるかと思って」走り始めたのだった。
高校進学と同時に、陸上競技部に所属した。
「体を動かす、イコール、走る。シンプルな象徴だったんですよね」
実際には、小学生の頃から足の速さには自信があった。中学までは陸上競技の大会に出場することはなかったが、高校1年の時、400mで大阪府学年別3位の記録をマーク。
「芦田って、誰や!?」と周囲が驚愕した。
しかし、陸上の記録以上に驚いたのは、走り始めた途端、奇跡的に病気の進行が止まったことだ。
「それで本格的に陸上競技に取り組めるようになりました」
陸上競技との出会いによって、闘病生活とおさらばできたのだった。

 

第2章 パラリンピックへの覚醒


高校時代は400mのスプリンターとしてインターハイ出場を目指していた。毎年、陸上部では大阪体育大学で合同合宿を行っている。高校2年の合宿時、ウェイトトレーニングの時間に腕を使うトレーニングができず見学していると、声をかけてきた人がいた。

「なんでトレーニングせえへんの? あれ、腕?」
大腿義足のアスリートとして、北京パラリンピックの走り幅跳びで銀メダルを獲得した山本篤だった。

「病気で力が入らないんです」
そう言うと、「じゃあ、ぜひ、パラ陸上に来いよ」と誘われた。
パラ陸上?
「それまで、自分が障害者だという自覚がなかったからピンとこなくて」

高校3年のインターハイ予選が終了して2か月後、初めてパラ陸上の日本選手権に出場すると、日本記録をマークして優勝。「2か月間、何のトレーニングもしないまま出場してこの結果。その時点で、パラの世界って楽勝だな、これならロンドンパラリンピックくらい行けるんちゃうか? と完全になめきってました」
本人曰く、ピノキオのように鼻が伸びきっていたという。

早稲田大学に進学する直前に、初めてパラ陸上の国際大会に出場。そこで標準記録を突破してロンドンへの切符を確定させるつもりだったが、A標準どころかB標準を切るのが精一杯。その結果、ロンドンパラへの出場を逃した。
「それで発奮するわけでもなく、なんか、もうパラ陸上の世界はどうでもいい、というような投げやりな気持ちになっていました」
高校までのストイックな部活動から解放され、大学ではアルバイトをしたり友だちと夜遊びをしたり、キャンパスライフを楽しむ日々を送る。「ただ、陸上そのものはやっぱり好きだったので、体育会ではなく同好会に所属しました」。


2013年9月。2020東京オリンピック・パラリンピック開催決定の瞬間をテレビで見て、打ち震えた。「ここで主役になりたい」。
ところが、「たいした練習をしなくても、2013年の世界選手権に出場できたことで、この時点でも、まだパラ陸上の世界を甘く見切ってました」。その結果、2014年、アジアパラ競技大会の日本代表選考にもれてしまう。
その後に控えた就職活動の時期、これまでの自分を振り返った。このまま一般の社会人として就職するのか。それとも、アスリートとして競技を続けたいのか。
「自分を見つめ直す中で、これまで自分がいかにパラ陸上の世界をなめてきたか、ということを嫌というほど痛感したんです」
同時に、「病気によって腕が不自由になったことで、パラ陸上という自分にしかできない経験をさせてもらえた。もともと、陸上が好きでポテンシャルは決して低いわけじゃない。パラアスリートとしてしっかり目標に向かって突き進むべきだって、初めてストンと自分の中に降りてきた。腕の障害は、もしかしたら、神様からのギフトなんだなって」
やっと、本気モードに突入した瞬間だった。

改めて、自分の練習環境を見直し、生活を競技仕様にシフトする。早稲田大学競走部の門を叩き、現在もコーチを務める礒繁雄氏に出会った。頭を下げる芦田を前に、礒コーチは言った。
「お前はまだ一流のアスリートではない。ただ、一流になれる可能性はある。俺は、お前とその道を歩もうと思う」
一流のアスリートたれ、という言葉を受けて、芦田は新しいスタートを切った。

 

第3章 2020東京。オリンピック選考会を目指して


改めてパラ陸上に取り組むにあたり、芦田はあえて400mから走り幅跳びに種目を変更した。「もともと、走る時にバウンディングと言って地面を弾く力が強く、三段跳びでもそれなりに記録を出すことができていたんです。リオデジャネイロでは三段跳びは行われないことがわかっていたので、それなら走り幅跳びに特化してトレーニングしようと。長年、400mをやってきて、それでパラ陸上を甘く見ていた自分がいた。だから、400mと決別することで新しい道を進もうと思ったんです」

厳しい体育会競走部で、練習量は格段に増えた。2015年の世界選手権では、走り幅跳び6位、三段跳び5位、男子リレーで4位。世界のトップが照準に入ってきた。

2016年、早稲田大学を卒業しトヨタ自動車に就職する。パラリンピアンとして競技生活に専念できる環境が与えられた。覚醒して、自ら拓いてきた道だ。
ところが、待ち望んでいたはずのリオデジャネイロパラリンピックで、かつて経験したことがないほど自分を見失っていたのだ。
「リオの出場権が確定してから、周囲に“頑張れ”と励まされても、ただソワソワと落ち着かない。一体なんのために陸上をやってきたのかさえ忘れてしまうような状態のまま、ブラジルに入ったんです」
先に行われた男子リレーで銅メダルを獲得。メダリストとして走り幅跳びの舞台に立った。
「頭が真っ白でした。あんなにトレーニングしてきたのに、助走の仕方も踏切もわからない。気づけば6m50というへなちょこな記録でリオが終わっていました」
不甲斐なさに涙がこぼれた。
「パラリンピックというのは、そういう舞台。対処する引き出しが、自分の中に全くありませんでした」

帰国しても、“リレーの銅メダリスト”として誰もが祝福してくれる。「ジャンパー芦田じゃない、スプリンター芦田だけが一人歩きしてました」
いやいや、自分がリオの切符を掴み取ったのは、走り幅跳びの記録だったのだ。跳躍こそが、自分を押し上げた種目。リレーの銅メダルを自分に納得させるためにも、周囲に改めてジャンパー芦田を証明するためにも、「自分の専門種目でしっかり結果を残さな、絶対にあかん!」
右腕の障害があることで、どうしても左右差が生じてしまう。リオまでは体の中に右と左、2本の軸で動かしていくイメージだった。それでバランスが取れている、と思っていたが、リオから帰国後に改めて体の動きを計測すると「取れていると思っていたバランスが、実際には取れていないことがわかった」という。
地面にかかる両足の圧は同じだが、ピッチやストライドに左右差が生じてスムーズな重心移動ができていなかったのだ。



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2017年6月10日に行われた日本パラ陸上競技選手件大会より


「陸上競技は物理の世界。いかに自分の重心をスムーズに移動させられるかが重要なんです。足の接地には問題がない。とすれば、やはりストライドとピッチのバランスを重視して改めてトレーニングすべきだということが明確になりました」
そのために始めたのが、これまで2本の軸で走っていたイメージを、体の中心に軸を寄せて1本の軸で走ること。もっと簡単に言えば、体幹で走る。障害のある右の上半身を、チューブを使ったトレーニングで柔軟性を高め、可動域を広げる。肩甲骨から体を等しく動かし骨盤から続く脚部を推進させていく。「腕を振って走るのではなく、体で走るんです」

新たなトレーニングに取り組み始めてすぐにスプリントで変化を実感。リオの頃には100m走のタイムは11秒8程度だった。2017年3月には11秒64に上がった。
そうして、今年3月のオーストラリアでの日本記録更新につながった。助走のスピードが上がれば、当然、踏切後の高さと距離は大きくなる。
「でも、それだけじゃない。体で走ることを意識してきたことで、それまでどうしても踏切後に体の軸がぶれていたのが、まっすぐに跳び出せるようになった。ロスがなくなったんです」

リオデジャネイロの走り幅跳びが全て終了した瞬間、むしろ憑き物が落ちたように「やっぱりこの舞台で勝ちたい」という気持ちが沸き起こったという。「リオのぼろ負けは、だから大事な出発点でした」。



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2020東京パラリンピックは、自分の人生の第3章を締めくくるハイライトになる。
「パラリンピックの走り幅跳びでメダルを取ることも大切な目標ですが、自分としては、オリンピックの選考会に出場したい。日本の陸上競技では、現在オリンピックのB標準が7m65、A標準は7m75。日本人選手として陸上でオリンピックとパラリンピックの両方の代表に選出されたら、めっちゃかっこいいじゃないですか」
これまでは、無謀な夢だと思っていた。でも、今年7mを跳んで現実的な目標に変わった。
「オリンピックに出場するには8mを超えなくてはダメだけど、一般の日本選手権に走り幅跳びの選手として出場できたら、日本の陸上に垣根がなくなる。あいつ、片腕なのに同じ土俵に立ったって。もし、それが実現したら一般のアスリートにもいろいろな影響や刺激を与える存在になれるかもしれません」
これからの3年間。本気で取り組んでどこまで目標に近づけるか。
「それこそが、挑戦です」

心を動かされる瞬間を大切にしている。陸上に出会って、さまざまな場面で心を動かされてきた。それが、自分をさらに奮い立たせてくれる原動力だった。そうして、自分の存在も、誰かの心を動かすきっかけになれば。大きな感動の「輪」が広がっていく光景が、芦田の目に映る。
夢は、どこまでも果てしなく広がっているのだ。

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著者:スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)
1960年、東京都生まれ。出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌「Tarzan」ほか「スポーツグラフィックナンバー」などで執筆。現在、「Tarzan」「それを最大限に活かせ! パラアスリートGO!」の連載を展開中。12年ロンドン・パラリンピック、14年ソチ・パラリンピックではNHK開会式中継解説を担当。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

宮崎恵理さんへのインタビューはこちら
Road to Rio特別編 ~パラリンピック、かかわる人々。Vol.4 スポーツライター・宮崎恵理さん~