歴史秘話ヒストリア

2019年07月03日 (水)

よみがえる大坂の陣 幻の金屛風 誰が描かせたのか

 Photo0703-1_logo.jpg

  30万の大軍が激突した、戦国最大にして最後の戦い「大坂の陣」。豊臣の世から徳川の世へ揺れ動く激動の時代に武士たちが矜持をかけた戦いが、屏風の復元によって現代によみがえりました。そして、今年3月に発掘された現場遺跡が、まさに屏風に描かれた世界の正確さを裏付ける形に!

歴史的資料の復元と遺跡の出土のタイミングが400年の時を超えて重なるなんて、すごい…!!歴史的偶然に大興奮でした。

Photo0703-2.jpg

 発掘現場は、NHK大阪放送局から道を挟んですぐそば。発掘されたのは、戦国大名・佐竹氏の屋敷と、大坂冬の陣で活躍した足軽の陣小屋です。建物跡や石敷き、木製の杭のほかにも、陶器や鉄砲玉など、多様な出土品が掘り出されていました。VTRでは紹介しきれませんでしたが、佐竹氏の大名屋敷では、太い柱で区切られた建物の構造がはっきりと分かりました。印象的だったのは玄関跡。大きな間口に、外側には丁寧に小石が敷き詰められており、威厳のある門構えが想像できました。

それとは対照的な足軽の陣小屋。発掘された杭の細さにびっくり!簡素な掘っ立て小屋だったのですね。そこで何人もの兵士が雑魚寝していたことを想像すると、野戦キャンプのような過酷な環境が見えてきました。自分の体で現場の広さを体感すると、屏風の世界に飛び込んだような気持ちになりました。

Photo0703-3.jpg

 そして、大坂の陣で使われた鉄砲玉。発掘したばかりのものを手に取らせていただき、感動!小さな木の実のような形が面白かったですね。兵士たちが、戦争の最前線で一つ一つせっせと手作りしていたんだと、自分の手のひらで戦いの一端を実感しました。

Photo0703-4.jpg

 屏風はどこまで正確に描かれているのか。城郭考古学者の千田嘉博先生が行った、「築山(つきやま)」という射撃用陣地の検証も興味深いものでした。アメリカ軍が撮影した航空写真を、立体視という手法で分析。写真から見えたわずかな高低差が、屏風に描かれた築山の位置とぴたりと一致したのには、感嘆いたしました!屏風が、いかに正確な情報をもとに描かれていたのかということを、さらに証明していましたね。

また、今話題となっている大阪城。屏風には、天守の北側に付庇(つけびさし)という屋根が描かれていました。もし、これが事実であるならば、大阪城の姿が今とは違った形だったのかもしれません。

今回復元された屏風によって、今後も、大坂の陣の知られざる事実が明らかになっていくことが楽しみですね。私が以前司会を担当していたBSプレミアム「英雄たちの選択」では、8月14日よる8時からの放送で、屏風を発注した人物を巡って、専門家の論戦が交わされる番組を予定しています。こちらも、あわせてお楽しみください!

 

歴史秘話ヒストリア@NHKオンデマンド 

もっと見る

歴史秘話ヒストリア そのほかの記事

もっと見る

関西発 芸術・文化

もっと見る

かんさい季節の行事

もっと見る

Core Kyoto NHKオンデマンド

もっと見る

ONE WORLD in KIMONO

もっと見る

関西 NEWS WEB

もっと見る

 

■ コメント(2)
  • 町田タカヒト

    2019年07月03日 23時59分

    7/3歴史ヒストリア「よみがえる大坂冬の陣図屏風」とても興味深く見ました。屏風の依頼者が豊臣秀頼か豊臣側の人か、はたまた徳川秀忠か二説紹介していましたけど、特定は難しいと思います。なぜって、豊臣側なら未完成は納得だけど徳川の世をどうくぐり抜けられたか解明できてないし、徳川側だとしたら未完成の謎が説明できてないし、今後のさらなる調査研究が待たれるところですね。

  • 八束 磨里

    2019年07月04日 10時44分

    こんにちは。大坂の陣……というとすぐ、方広寺の鐘銘の変なる、『国家安康』の文字に徳川が因縁をつけ、冬の陣になったこと、そこでいったん和議を結んだものの、罰として大坂城の堀を埋めなさいとなり、外堀を埋めたら、違う、惣堀(総堀)だと全部埋められ、丸腰のお天守が、夏の陣で陥落した……などと、プロセスをひたすら頭に入れていましたが、屏風にこそ、合戦の詳細と本質が描かれている、のにはなかなか感銘を受けました。更に、誰が創らせたのかも、冬の陣が下絵状態な点などから、秀頼説に納得……と思いきや、千田先生の秀忠説も、ロジックがキチンと符合する……。彩色された屏風の発するメッセージは、複雑ですね。見に行きたくなりました次第です。
    私にとっての真田幸村は、『風神の門』の竹脇無我さん……かしら?