歴史秘話ヒストリア

2016年11月14日 (月)

今回のヒストリビア:「世界一周なおなお書き(後編) その前のエリザベス、その後のネリー」

 見事決着しました!“80日より短く、かつもう一人のライバルより先に世界を一周する”レース!! 出走者?の一人、ネリー・ブライは旅程の半分いったところでいきなり、実はコレ競争です、と聞かされるトンデモレースでしたが…。

 

 未知へのオドロキ、不思議なめぐり合わせ、力ワザ、陰謀?―波乱万丈のレース結果は、番組をご覧の通りとなりました。こちら なおなお書き・後編は、健闘した二人のレディーのこぼれ話を少々ご紹介します。

 

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エリザベス・ビズランド(左)と後年のネリー・ブライ(右)の写真

 

■その前のエリザベス~雌ヒョウとカラス~

 ニューヨークのニュースペーパー・ロウ(新聞社通り)きっての美人ライター エリザベス・ビズランド。出身はアメリカ「南部」のルイジアナ州。大農園主の娘として生まれました。それだけでも当時の南部では上流階級ですが、両親の先祖は遠くイギリス王室や同国貴族にもつながっているというまさに筋金入りのお嬢様でした。

 

 しかし、その誕生は米・南北戦争の開戦直後。彼女が物心がつくころ家は没落。エリザベスは自活するため、文筆で身を立てようとします。投稿した詩が地元紙で掲載されたのがきっかけだったとか。自分の文才をたのみに、ルイジアナ一の都市ニューオリンズに移ったエリザベスは新聞を中心にさまざまな記事、文章を執筆。自分の生計と家族への仕送りのため身を粉にして働きました。

 

 そんな折、1882年冬、エリザベスはニューオリンズで10歳ほど年上の同業男性に出会います。小柄で言葉も立ち居ふるまいも優しく、左目に障害のある新聞記者・ラフカディオ・ハーン―“耳なし芳一”など「怪談」で日本人に広く親しまれる、のちの作家 小泉八雲でした。

 

 会った時エリザベス自身は21歳の時と語り、ハーンは彼女が16歳くらいだったと記しています。正確なことは分かりませんが、エリザベスは初対面の編集者に“お嬢ちゃん”と呼ばれるなどずいぶん若く見えたそうなので、そのためかもしれません。

 

 この“美少女(ハーン認識)”についてハーンはいろいろ書き残しています。いわく『美しいとか可愛いとかいわれていますが、私はどちらとも思いません』『美しく危険なヒョウ』『(彼女の自宅に行った)翌日になって魔法がとけると、こう思います。“俺はなんてマヌケだったんだ-もうあそこへは行くまい”』『(彼女の写真をもらって)この一年間、そんなに喜んだ記憶がありません…誰も私にしてくれなかった、素晴らしくやさしい写真のもたらし方…」―どうですか?そうとうハーンはエリザベスを“好き”だったようです。風采が上がらず左目のこともあって自分を気弱げなオオガラスに擬していたハーンは、若く美しきヒョウ・エリザベスに積極的に好意を示すことはありませんでした。でもエリザベスがニューヨークに移ったあと、ハーンも、大都会ギライだったにもかかわらずニューヨークにおもむき、エリザベスの家をたびたび訪れています。

 

 エリザベスの方はどう思っていたのかはわかりません。実はエリザベス、世界一周のはるかのち、ハーン没後ですが、ハーンのさまざまな手紙をあつめた書簡集や彼の伝記を出版します。作家としてのエリザベス・ビズランドは、世界一周の達成者というよりハーンの伝記作者という方が有名でした。しかし、その著作で彼女とハーンの関わり、特に自分への好意を感じさせるような部分はほぼ削られているそうです。

 

 ちなみに、エリザベスの世界一周とハーンについては何かカンケイあるのか?その方は大ありで、ハーンが日本に移り小泉八雲となってからエリザベスと交わした手紙に次の記述があります。『(彼女がハーンに言ったことには)日本へ行ってほしい。あなたが日本について書く本を見たいから』、だから日本に赴いたと。ハーンの日本行きの理由は諸説ありますが、エリザベスが日本で抱いた大きな感動が「耳なし芳一」「雪女」に結実したかもしれないと思うと、なかなか感慨深いモノがあります。

 

 1889年10月中旬、ハーンはしばらく離れていたニューヨークに戻り、17日にはさっそくエリザベスの家で夕食のごちそうになっています。翌11月にかけてもハーンは何度か訪れたようですが、同月14日のお昼前10~11時ごろ、エリザベスは編集者として名を連ねていたコスモポリタン社の編集長がすぐ会いたがっている、との連絡を受け、何事かと思いながら自宅から歩いて数分の同社に向かい・・・想像を絶する仕事を頼まれ、いや、押しつけられることになります。

 

■その後のネリー~旅立ちの前に戻れるなら~

 一方、ワールド新聞社の野心あふれる女性記者ネリー・ブライ。この名前、実は本名ではありません。当時 女性は実名で記事を書くのは、はしたない(・・・)と考えられており、もっぱらペンネームで執筆していました。ネリーの本当の名前は、なんと“エリザベス”ジェーン・コクラン!途中 東アジアで初めて競争相手の名前を聞いたネリーはどう思ったのでしょう。まあ、エリザベスはアメリカでは珍しくない女性名かもしれず、なんとも思わなかったかもしれませんが…。ちなみに「ネリー・ブライ」というのは、彼女の地元ペンシルベニア州ピッツバーグではやっていた歌に出てくる女の子の名前だそうです。

 

 レース終了後、2人は直接会うことがあったかどうか?少なくとも今回の番組取材の中では、そうした事実は確認できませんでした。ただ、ネリーはエリザベスについて少し語っています。レースも終わりにさしかかったニューヨーク行きの汽車の中で、質問してきた記者に対する答えとして、次のように話しています。

 

 『ミス・ビズランドの計画については知らない。関心も無い』『彼女の旅は自分の企画の後追いで急な思いつき』『彼女は日本で、大平洋横断のオセアニック号の船長・船員を買収して私を遅らせようとした。少なくとも船長の買収には成功していたはず。別に彼女を責めるわけじゃないの。でも、私は船員たちに、1セントだって出さない、義務をおこたるなら私の文章でこの船の悪評を広めてやる、と言ってやったら効果はあったようね』

 

 ひ、ヒドイ…。番組でご覧のとおりオセアニック号の船員たちは懸命にやってくれましたし、船長も「台風のウィリアム」と呼ばれた腕利きで、エリザベスの「つむじ風のビル」と同じくその手腕をいかんなく発揮しました。敏腕だが鼻っ柱が強いネリーのヤな部分がいささか出てしまったようです。

 

 ちなみにエリザベスはネリーについて何を語っているかというと…何も語らない、というかたちである種の気持ちを示しているようです。世界一周ののち、ネリーは「七十二日間世界一周」、エリザベスは「世界一周 空飛ぶ旅」という旅行記を出していますが、エリザベスはネリーの名はおろか、この旅が競争であったこと自体まったく触れていません。

 

 世紀のレースを制したネリーは、その後、番組でも紹介したとおり、数多くの商品の宣伝キャラクターとなり、ゲームにもなり、歌が作られ、競走馬にもその名を付けられ…とまさに一世をふうびする大スターとなりました。年収も2万5000ドル(大ざっぱですが現代の日本円だと4~5億ぐらいか)だった時もあったとか。

 

 帰国後はワールド紙の看板記者となり、刑務所にいる社会運動家や死刑囚への取材、“人の心が読める”男のカラクリ暴露、幽霊屋敷や賭博場への潜入…と引き続き以前のような記者活動をおこないますが、すっかり顔が売れてしまったことで潜伏リポートも難しくなっていたようです。しだいに有名人や娯楽の取材記事、過去記事の焼き直しが増えていきました。ワールド紙に対しても不満を持ち始め、記者として満足しえない日々を過ごすようになります。

 

 そうした中、ネリーはシカゴへ向かう列車で億万長者の会社社長と出会うと、1週間もたたないうちに“駆け落ち”してしまいました。その時ネリー30歳に対し、相手はなんと40以上も年上。財産目当てと心ないウワサも立ちますが、ネリーにとっては、満たされず疲れも増すばかりの記者生活への限界感、6歳で父親を亡くした寂しさ、恋していた別の男性の結婚などが、衝撃的な展開の根っこにあったともいわれています。

 

 10年後、夫が亡くなり故社長夫人となったネリーはみずから会社経営に乗り出します。一時は順調でしたが、経理に無関心だったところを悪がしこい社員がつけ込み、巨額のカネを使い込まれ破産。逃亡同然に第一次大戦近づくヨーロッパに移り住んだネリーは、細々と記者や慈善の仕事を続けますが、ふたたびアメリカに戻った時にはすっかり一文無しになっていました。

 

 40代も後半にさしかかっていたネリーでしたが、ここでふたたびニューヨークの報道界に一女性記者として打って出ます。しかし当時の新聞では、事実を丹念に取材し積み重ねる調査報道による記事が主流。熱血あふれる潜入取材など時代遅れで、ほとんど価値を認められませんでした。広く普及し始めた「電話」をなぜか嫌い、使わないといったネリーの、世の風潮に合わせようとしない部分もあったようです。それでもネリーはなんとかコラム連載の仕事にありつき、そこで貧しい人々や子どもたちに救いの手をさしのべる記事を書き続けます。ふたたび記者の誇りを取り戻したかにみえたネリーでしたが、それまでの長い不摂生がたたり、薬もかたくなに服用しなかったため、ある時 肺炎にかかると2週間ほどでこの世を去りました。1922年、日本では大正11年の1月27日のこと。57歳でした。

 

 

 エリザベスのその後は番組をご覧の通りです。エリザベス・ビズランドの人生は1929年、昭和4年のやはり1月の6日、これも同じく肺炎で最期を迎えます。ネリーよりちょうど10年多い、67年の生涯でした。

 

 世界一周レースに“勝った”のは結局どちらだったのか-これは愚問かもしれません。この対照的なふたりの女性がいたからこそ、ヴェルヌの「八十日間世界一周」に始まる“世界一周”という言葉・冒険は、途方も無い長距離移動、人類の交通手段の進歩の意味以上にロマンに満ちた輝きを、現代の私たちにも投げかけてくれるように思えます。

 

 

おもな参考文献:

「ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む 4万5千キロを競ったふたりの女性記者」(著 マシュー・グッドマン/訳 金原瑞人・井上里)

「夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯【アメリカ編】」(著 工藤美代子)

 

■ コメント(4)
  • makowara

    2016年11月14日 21時29分

    ブログ面白いじゃないですか。文才ありますね。番組の厚みが増しました。

  • さつきの風

    2016年11月15日 01時44分

    二人の女性の人生は、80日より遥かに長く、色々なことに遭遇し、乗り越えてきたのでしょう。比較する物差しにより、勝敗は異なります。女性が思う存分、人生を謳歌できる時代は、まだ先でしょうか。

  • かずよし

    2016年11月18日 21時43分

    「80日間世界一周」今までのヒストリアで一番楽しめました。 
    2人のエピソードも興味深かったです。 
    この内容を番組に選定した方、GJです!

  • こたつ

    2016年12月04日 18時27分

    前編は見たのに後半は見そびれてしまって悔やんでますが、ブログだけでも大変楽しむことができました!面白かったので前編と合わせてまた再放送して欲しいです!