これまでの放送

2017年8月6日(日)

きょうで72年 広島原爆の日

小郷
「広島に原爆が投下されてから今日(6日)で72年となります。
核兵器を法的に禁止する歴史上初の条約が国連で採択されてから初めてとなる「原爆の日」で、被爆地・広島は、犠牲者を追悼するとともに核兵器のない世界に向けた訴えを国内外に発信します。」

広島“原爆の日” 核兵器ない世界訴え

あの日から72年。
広島では、多くの人たちが追悼の祈りを捧げています。

「悲しくなって涙が出そうになる。
(月日がたっても)変わらないと思います。
皆さん、そうじゃないでしょうか。」

「平和ですよね。
戦争のない世界が一番ですよ。」
 

午前8時から始まる平和記念式典では、この1年間に亡くなった人など、5,530人の名前が書き加えられた、30万8,725人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に収められます。
そして、原爆が投下された午前8時15分に、参列者全員で黙祷を捧げます。
世界の核軍縮をめぐっては、先月(7月)国連で歴史上初めて、核兵器を法的に禁止する核兵器禁止条約が非核保有国が中心となって採択されましたが、核保有国や核の傘のもとにある日本などは、条約に反対の立場を示しています。
広島市の松井一實市長は平和宣言の中で、「各国政府は核兵器のない世界に向けた取り組みをさらに前進させなければならない」とした上で、日本政府に対して「核保有国と非保有国の橋渡しに本気で取り組んでほしい」と求めることにしています。

広島“原爆の日” 継承に課題

二宮
「原爆の日を迎えた、広島市の平和公園から中継でお伝えします。」

野中記者(NHK広島)
「けさは、夜明け前から多くの人が訪れ、原爆の犠牲者に静かに祈りを捧げています。
今年(2017年)は、核兵器禁止条約が採択され、被爆地・広島では、条約に期待する声が多く聞かれます。
戦後72年。
この間、広島の被爆者や市民は、国内外で核兵器の廃絶を訴え続けてきました。
長年にわたる地道な運動は、核兵器禁止条約の採択にも大きな役割を果たしました。
しかし、被爆者の平均年齢は81歳を超え、これまでのような訴えを続けることが難しくなっています。
運動の中心を担ってきた被爆者団体も、高齢化に伴う会員の減少から、その数が少なくなっています。
核兵器廃絶の運動をどのように継承し、72年前、ここ広島で何が起きたのかを、若い世代にいかに語り継いでいくかが課題になっています。
当時の惨状を知る被爆者が年々少なくなる中、私の後ろを流れる元安川では、原爆投下で一変した広島の街の記憶を探し求める取り組みが続けられています。
ここには当時、多くの人が水を求めて飛び込み、そのまま命を落としました。
実は、この川の中には、72年が経った今でも原爆の爆風で吹き飛ばされた建物の一部や、犠牲者たちの遺品が沈んだままになっているのです。
こうした被爆の痕跡を川から回収し、実態を伝えようと取り組んでいる人がいます。」

広島“原爆の日” 川底に眠る被爆の痕跡

リポート:寺西源太(NHK広島)

広島大学の研究員、嘉陽礼文(かよう・れぶん)さんです。
元安川で15年にわたって、被爆の痕跡を探し続けています。



 

広島大学 嘉陽礼文さん
「熱線によって表面が溶かされてしまった原爆瓦。」



 

爆風で吹き飛んだ建物の残骸などが、72年たった今も見つかります。
嘉陽さんが集めたガレキは1,000点以上。
その中には、日用品も多く含まれています。

「防衛食」と書かれた陶器の破片。
戦時中、缶が不足する中、肉やイワシを保管する容器として流通していました。

溶けて瓦に付着した指輪。
当時、結婚指輪をする習慣が広がり始めていました。
金属が焼けとけた様子が、原爆の熱線の強さを物語っています。


 

爆心地近くを流れる元安川。
当時は、川遊びをする子どもや散歩をする人が訪れる憩いの場所でした。
そこに投下された一発の原子爆弾。
亡くなった人は、その年だけで14万人。
それ以外に、身元が分からない死者が7万人いるとみられています。
引き揚げられる被ばくの痕跡は、遺骨や形見がない遺族にとって、亡くなった人に思いをはせるものになっているといいます。
嘉陽さんは、7年前に見つかった陶磁器製のボタンを被爆者が見た時の光景が忘れられません。

広島大学 嘉陽礼文さん
「(ボタンを)手にとられた時、さっと、目の色が変わられて、ひょっとしたら、ご自身の兄弟が着けていたもの、服の(ボタン)と一緒かもしれない。
ご自身の兄弟を投影されて、見入っていた。
ご遺骨、ご遺品はないけど、代わりの類似するものでも、心の傷は、わずかでも癒える部分があると思う。」

嘉陽さんの活動の原点は、ある被爆者との出会いでした。

山岡ミチコさん。
爆心地から800メートルのところで被ばくしました。
山岡さんは、82歳で亡くなるまで、語り部として、原爆の被害の大きさを伝え続けました。

 

山岡ミチコさん
「(原爆の)光は強烈でした。
今しゃべっているこの顔も、手も足も胸も、全部やけどした。」


 

嘉陽さんは、東京に住んでいた中学生の時、修学旅行で山岡さんの被ばく体験を聞きました。
その時、原爆で吹き飛ばされたガレキが元安川に沈んでいることを初めて知りました。

広島大学 嘉陽礼文さん
「“川に行ったら、原爆瓦というものがあるから拾ってお帰りなさい”と。
“たくさんの方がここで亡くなられて、そういった方たちの魂がこもっていますから、祈りながら探してください”。」

山岡さんの言葉をうけて、川に向かった嘉陽さん。
熱線で焼け焦げた瓦を見つけ、原爆の被害の悲惨さを物語る痕跡が人知れず眠っていたことに衝撃を受けました。

広島大学 嘉陽礼文さん
「ショックを受けました。
実際に川から拾ったことで、ここで(原爆投下が)あったことが、現実味を帯びて感じられた。
将来にもう一度来て、もっとじっくり時間をかけて探したいと思った。」

その後、嘉陽さんは、進学先として広島大学を選びました。
4年前に亡くなった山岡さん。
被ばくの痕跡を見つけ出し実態を伝えることは、その思いを受け継ぐことにもつながると考えています。

元安川の調査を続ける中、嘉陽さんは原爆ドームの一部とみられる石を、去年(2016年)見つけました。
6月、その回収作業が行われました。
近くに住む被爆者たちも見守ります。

広島大学 嘉陽礼文さん
「ありました。」
 

引き上げられたのは、重さ200キロにもなる石の塊です。
原爆ドームのバルコニーの一部とみられます。
被爆者と共に原爆に巻き込まれた石。
表面の付着物が年月の経過を物語ります。
被爆者たちは、72年前の当時に思いをはせました。

「なんとも言えません。
70何年、川の中にいたと思うと。」

「水を求めて、飛び込んで苦しんだのを、あの石が見ていると思う。
一緒に苦しんでくれたと思う。」
 

「本当に感謝します。」

広島大学 嘉陽礼文さん
「亡くなった方の思いが詰まっている。
生きている我々、ご遺族の方にとっても、大変重要なもの。
体が動くかぎり続けていきたい。
終わりはない。」
 

小郷
「嘉陽さんによりますと、元安川には、推定でまだ500キロほどの原爆ドームの破片が残されているということで、今後も時間をかけて、そのすべてを回収したいと話しています。」

Page Top