これまでの放送

2017年8月3日(木)

被爆から1か月 突然亡くなった父

高瀬
「今月(8月)6日、広島は原爆投下から72年を迎えます。」

和久田
「今年(2017年)NHKは、広島市が記録し続けてきた、ある資料を初めて入手しました。
『原爆被爆者動態調査』です。
記されているのは、死因や年齢、性別、被爆した場所など。
原爆投下直後から集められてきた記録で、現在までに被爆者55万人分に上ります。」

高瀬
「その分析からは、さまざまなことが浮かび上がってきました。
その1つが、原爆が投下されたその年の死因の推移です。」

和久田
「原爆投下から10日たった8月16日ころから、やけどや大けがなどによる死者の数は急激に減っていきます。
ところが、この時期から急に増加をたどる死因があることがわかりました。
『急性原爆症』です。
8月21日以降は、最も多い死因となっています。
広島市は動態調査で、当時、下血や下痢などの症状で1945年の年末までに亡くなったと記録された人を、この死因に分類しました。」

高瀬
「原爆投下から時間を置いて多くの人の命を奪ったとされる『急性原爆症』。
取材から見えてきたのは、遺族の心に深く刻まれた傷跡でした。」

“急性原爆症” 元気だったのになぜ…

岩井義日(いわい・よしてる)さん、76歳。
4歳の時に、父親を「急性原爆症」とみられる症状で亡くしました。

岩井義日さん
「私が父似で、妹が母似で。」

警察学校の教官だった父・義雄(よしお)さん。
爆心地から1キロの地点で被爆しましたが、足首をねんざしただけで、大きなけがは負いませんでした。
しかし1か月後、突然亡くなりました。
33歳でした。

岩井義日さん
「無傷の人が何でそんなに早く、原爆に遭ってから25日ぐらいで亡くならなければいけないのかという疑問は当然ありますよね。」

家族や同僚の証言から分かった、被爆後の義雄さんの行動です。
8月6日、爆心地から1キロにあった警察学校で被爆。
その日のうちに、30キロ離れた親戚の家に避難しました。
そこで、別の場所に疎開していた家族の無事を確認。
8月11日には、救護活動のため広島市内に戻ります。
8月14日、全壊した警察学校の移転に伴い、今の東広島市に移動。
このときまだ元気だった義雄さんは、息子に後で渡そうと、靴を買っています。

しかし、その11日後、義雄さんの体調に異変が起きます。
脱毛が始まって、陸軍病院に入院。
さらに、おう吐や下痢に襲われました。
1週間後の9月1日、死亡。
全身の皮膚に、内出血による斑点があらわれていました。
家族に看取られることなく亡くなった義雄さん。
病室には、息子のために買った靴だけが残されていました。

岩井義日さん
「げた箱に小さい自分のために買っていたであろう靴が置いてあったというのを、父の病室に聞いたことがあるから。
亡くなる者が(息子のために靴を)用意はしませんから。
元気に帰ったときに、土産で持って帰るつもりだったんじゃないですかね。」

義雄さんの身体に何が起きていたのか。
広島大学に、その手がかりが残されていました。
被爆者の死因を明らかにするため、陸軍病院の医師や国の調査団が遺体を解剖した記録です。
今回、義雄さんの組織標本も初めて見つかりました。
死亡直後に採取された、骨髄の組織です。

広島大学 原爆放射線医科学研究所 杉原清香助教
「核のある細胞がすごく少ないですね。
つまり血液をつくる力が弱っている。
血液のもとになる細胞が全然いないということ。」

専門家の分析で、血液が原爆の放射線の影響を受けていたことが分かりました。

こちらは正常な人の骨髄の組織です。
正常なものには濃い紫色の球、血液のもとになる細胞がぎっしり詰まっています。




一方、義雄さんはそれが極端に少なく、隙間が多く見られます。
大量の放射線に細胞が破壊され、血液をつくり出す力を失ったことが死につながりました。

広島大学 原爆放射線医科学研究所 田代聡教授
「原爆の放射線の影響を受けて、いろんな細胞、特に血液の細胞がダメージを受けて、多くの細胞が死んでしまった。
それで血液組織を維持することができなくなった状態が、こういうふうにして亡くなった時の標本で見られるんじゃないかと思います。」

父の最期の様子を知りたい。
岩井さんは、父が亡くなった病院で看護師をしていた女性が健在だと知り、訪ねました。
河野(こうの)カズ子さん、94歳です。
陸軍病院の看護師だった河野さんは、次々とやってくる被爆者の看護にあたっていました。

河野カズ子さん
「何日かしていると、自然に亡くなられるんですよね。
もう何にも処置がないんですよ。
薬もないし、どう治療したらいいか分からんで。」

この日、河野さんから初めて教えてもらったことがありました。
父が亡くなった病棟のあった場所です。

河野カズ子さん
「3つ病棟があったんです。」

病棟のあった場所には、今は福祉施設が建っていました。
入院からわずか1週間。
父は、幼い息子のために買った靴を残して、ここで、最期を迎えました。

岩井義日さん
「お父さんの気持ち、無念さというのがここへ来てますます感じます。
私に靴を履かせてやろうと思っていたんでしょう。
それができなくて、本当にお父さんにもう一回会いたいというか、ここに来てお父さんに声をかけたいような気持ちですね。」

“急性原爆症” 元気だったのになぜ…

和久田
「こちらは、『急性原爆症』で亡くなったとされる人の数を場所ごとに示したものです。

今回の分析で、爆心地から1.5キロ以内に6割が集中していることが分かりました。
熱線や爆風に加え、高い放射線量にさらされた地域です。
そこは、百貨店や商店街があり、多くの市民が行き交う街の中心部でした。」

高瀬
「そうした人々を襲った『急性原爆症』。
放射線だけでなく、栄養失調など他の原因で亡くなった人もいると見られています。
原爆投下から72年。
いまだに身内の死因が特定されていない人も多く、解明が待たれています。」

Page Top