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2016年8月28日(日)

引き裂かれた親子 心の交流

近田
「皆さんは、サハリン残留邦人と呼ばれる人々がいるのをご存じでしょうか。
かつて樺太と呼ばれた、今のサハリンに、戦後長い間取り残されてきた人たちです。」
 

小郷
「戦前、日本の領土だったサハリン南部。
北海道から出稼ぎなどのために、多くの日本人が移り住みました。
しかし、太平洋戦争が勃発、その後も、戦後の混乱の中で祖国に帰れぬまま、サハリンに取り残されることになったのです。
こうした『サハリン残留邦人』の数は、1949年の時点で、1,400人に上ると言われています。」

近田
「その中にある家族がいました。
時代に翻弄されて、引き裂かれた親子。
戦後71年たって、ようやくかなった心の交流です。」

日本とサハリン 引き裂かれた親子

今年(2016年)5月。
札幌市で、ある式典が開かれました。
戦後、サハリンに残留した人たちのための、墓の落成式です。
サハリンから帰れずに亡くなった人の家族が、資金を持ち寄って、共同の墓を作りました。
「最後は、祖国で安らかに眠らせてあげたい」。
家族たちの願いが、ようやくかないました。

この墓の完成を機に集まった10人兄弟がいました。
大段さん兄弟。
長男、長女の2人は日本、下の8人はサハリンで、離ればなれで生きてきました。

 

供養したのは、北海道・中頓別町出身の両親、大段長次郎さんとタミノさんです。
太平洋戦争が始まる2年前にサハリンに渡り、その後、亡くなりました。
この日初めて、2人を弔うことが出来た人がいます。
 

日本に残された、長女の梅乃さんです。




 

長女 梅乃さん(84)
「本当に(亡くなったという)思いってなかったけど、お墓があって初めて、亡くなったんだなと。」


 

札幌市内に1人で暮らす梅乃さん。

両親と別れたのは、7歳の時。
思い出はほとんど残っていません。

長女 梅乃さん(84)
「小さい時から親に抱かれたり、何かをしてもらった記憶もない。」

 

1939年、両親はほんの数年の出稼ぎのつもりで、梅乃さんと2歳上の長男を親戚に預け、サハリンに向かいました。

その頃に撮影された映像です。
当時、サハリン南部は、木材の供給基地として急速に発展。
一時は、38万人もの日本人が住んでいました。


 

しかし、両親がサハリンに渡って2年後、太平洋戦争が勃発。




 

終戦間際には、中立条約を破り、侵攻してきたソビエト軍によって占領されてしまいます。
30万人もの日本人が取り残されました。


 

「樺太からの第一船は1,700名を乗せて、5月6日、函館に入港。」




 

終戦の翌年から引き揚げが始まり、多くの日本人は帰国します。
しかし、その中に、梅乃さんの両親の姿はありませんでした。
そこには、やむを得ぬ事情がありました。


 

末っ子の栄子さんです。
両親が暮らしていた村を案内してくれました。

七女 栄子さん(サハリン在住)
「一番小さい私はリュックサックに入れられてここまで来ました。」



 

引き揚げが始まった当時、出産したばかりの母は体調を崩し、次男も病弱だったため、一家は船に乗ることが出来ませんでした。

その後も引き揚げの機会は何度かあったものの、山あいで暮らす家族の元に、船の情報を届けてくれる知り合いはいませんでした。
そして、東西冷戦により、人の行き来や連絡が厳しく制限されます。
それでも両親は、帰国を願い続けていたといいます。

七女 栄子さん(サハリン在住)
「両親は最期まで、日本に帰る望みを捨てられませんでした。
2人の子どもを日本に残してきたことを深く後悔していました。」

一方、梅乃さんは連絡がとれない両親をいないものと思い、懸命に生きてきました。
22歳で嫁いだ後、北海道・中頓別の山間部に開拓に入ります。
しかし、そこは農地に向かない荒れた土地でした。
4人の子どもを抱えながら、厳しい生活が続きました。

長女 梅乃さん(84)
「本当に食べるものって、何もなかったから、何でも食べた。
つらかったけどね。
(ほかに)どこに行くわけにもいかない。」

梅乃さんが41歳の時、思いがけないことが起こります。

両親が突然、梅乃さんのもとを訪ねてきました。
長年、出し続けてきた申請が通り、例外的に日本への一時帰国が認められたのです。


 

梅乃さんは、この時、両親が健在だったことを初めて知りました。
涙を流して謝る父を、梅乃さんは許すことが出来ませんでした。

長女 梅乃さん(84)
「(親に)よく来たね、よく頑張ったねって言ってやれば良かったんだけど、それも言えなかった。
本当にね、自分の親って何だったのか。」

何も言わず、サハリンに帰って行った両親。
20年後、父が亡くなり、母も後を追うように旅立ちました。
梅乃さんが、いつも身につけているものがあります。

再会した、あの日の別れ際、母が自分の指から外して、つけてくれた指輪です。

長女 梅乃さん(84)
「形見なのかって思った。
外せば何か、ものが足りなくなったような感じがするのさ。
だからいつも身につけてた。」

この春、お墓の落成式に合わせて、兄弟全員が初めて集まりました。
サハリンで両親と暮らしてきた妹たちが、梅乃さんのために手料理を振る舞います。


 

母から受け継いだ、ニシンのおスシです。




 

六女 冬子さん(ロシア在住)
「もっと姉と会って、ご飯が食べたいです。
両親は全員がそろうことをいつも望んでいたから。」


 

忘れかけていた母の味がよみがえります。

三女 秋子さん
「母さんのスシから。」

「本当にこれは、お母さんのスシだな。」

食事会の最後に兄弟が語り出したのは、両親が伝えられなかった梅乃さんへの思いです。

三女 秋子さん
「母さんと父さんと朝早く起きてさ、梅乃とか粂市(長男)とか言ってたんだよ。
本当に母さん父さんはね、兄ちゃん姉ちゃんを忘れてなかったの。
よく、ほっかいどう、ほっかいどう、なかとんべつ、なかとんべつ、ずっと昔の話、言ってたんですよ。」

初めて知った両親の気持ち。
わだかまりが消えていきました。

長女 梅乃さん(84)
「初めて涙出た。
やっぱり帰って来たんだなって思った。
最後は、やっぱり地元に帰って来たんだなって思った。」

三女 秋子さん
「今度から私たちが(姉さんを)大事にして、よい言葉を、母さんが言ったことを全部伝えてあげるからね。」


 

1か月後、札幌の墓に梅乃さんの姿がありました。

長女 梅乃さん(84)
「お父さん、お母さん、お参りに来たよ。」

戦後71年。
ある親子が失われた時間を取り戻そうとしています。
 

長女 梅乃さん(84)
「お父さん、お母さん、また来るからね。」
 

近田
「お墓の完成によって、ようやくサハリン残留邦人の戦後に一つの区切りがつきました。
ただ、その一方で、戦後の帰国事業で日本に帰った人たちの中には、言葉が通じず、支援も限られるなど、厳しい生活を強いられている人もいます。」

小郷
「そうした人たちの暮らしをどう支えていくか、課題が残されています。」

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