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2019年9月29日

第100回 銀座・日比谷・築地へ 岸田劉生若き日の足跡をたどる旅

海外から新たな絵画が伝わった明治末から大正時代、ひたむきに“美”と向き合い、「麗子像」など独自の絵画を打ち立てた岸田劉生。劉生が生まれ育った銀座を中心に巡りました。

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銀座4丁目交差点。この奥、中央通り沿いの銀座ど真ん中で岸田劉生は生まれ育った。

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東京・丸の内/東京ステーションギャラリー

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東京ステーションギャラリー「没後90年記念 岸田劉生展」会場。右は「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年 東京国立近代美術館所蔵 重要文化財

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「麗子坐像」1921年 メナード美術館(左端)他、ずらりと並んだ愛娘「麗子」の作品。

38歳で他界した劉生のメモリアル・イヤーにあたる今年、東京・丸の内の東京ステーションギャラリーでは、「没後90年記念 岸田劉生展」が開催されています(10月20日まで)。
初期の水彩画から、写実の時期の名作。さらに、日本画を試みた時期の掛け軸、最晩年に描いた満州での風景画まで、劉生が追い求めた“美”を代表作の変遷から一望することができます。

「時代ごとに分かれているので、劉生のそのときどきの個展の会場をタイムスリップして巡っているような気分を味わっていただけるかもしれません」(東京ステーションギャラリー 学芸室長・田中晴子さん)

番組では、「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915年 東京国立近代美術館所蔵 重要文化財)など、写実的な傾向が強い時期の作品を深く掘り下げましたが、日美旅では劉生が生まれ育った銀座から旅をスタートし、若き日に親しんだ場所を訪ねてみます。

銀座・中央通り

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銀座4丁目交差点付近。劉生の回想録に登場する老舗のパン屋、楽器店、書店が軒を連ねる。

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中央通りに交差する柳通りから、劉生の実家があった銀座2丁目界わいを眺める。

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劉生が銀座界わいの思い出を記した随筆「新古細句銀座通」挿絵、劉生の実家・楽善堂の図。

岸田劉生は、『東京日日新聞』の記者でありさまざまな商いも手掛けた岸田吟香(ぎんこう)の四男として、銀座の薬局兼書道用品店「楽善堂」に生まれました。銀座を走る「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら、青年時代までそこで育ってきた」劉生は楽善堂周辺の思い出を、のちに「新古細句銀座通」(しんこざいくぎんざれんがのみち)と題した新聞連載に挿画とともに記しています。

銀座中央通りが歩行者天国になる週末の昼下がり、のんびりと「銀ぶら」をしてみました。銀座の中心地、銀座4丁目交差点から劉生の生家があった辺りに向かって、パン店、楽器店、書店など、随筆で目にした屋号が軒を連ねることに気が付きます。劉生がユーモラスにつづった、パン食熱が高まった時代の出店競争のエピソードなどが思い出され、90年近い時を経て、いまだにお店が続いていることが感慨深く思えてきます。

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関東大震災で失われたレンガを組み込んだ「金春通り煉瓦遺構の碑」

「新古細句銀座通」が世に出た1927年、劉生が「忘れられない懐かしいものの一つ」と回想する、雑多な品々を商う勧工場(かんこうば)など、明治期を代表する風物はすでに失われていました。さらに、その4年前に発生した関東大震災によって、明治の初めに築かれた美しい煉瓦(れんが)街も壊滅しました。掘り出された当時の赤レンガの一部が、金春(こんぱる)通りで記念碑として保存されているのを見かけました。

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劉生が楽しみにした縁日の立った出世地蔵尊。現在は百貨店のテラスガーデンに立つ(右は大型複製像。ご本尊は例大祭と毎月7日のみ公開)。

劉生が「旧日本の美の尤(もっと)もなるひとつ」とたたえた縁日の立った銀座4丁目横丁の「出世地蔵尊」は、震災と空襲を逃れ、現在では百貨店のテラスガーデンに移され、明治期の銀座の風情を伝えています(通常は大型複製像が鎮座していますが、毎月7日にご本尊が開帳されます)。

虎ノ門界わい

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外堀通りを経由して、画学生時代の劉生がよく訪れた日比谷・虎ノ門方面へ向かう。

劉生の人生に大きな変化が訪れたのは、14歳のときのことです。
両親が相次いで他界し、兄が継いだ生家の事業にもかげりが見えてきました。
両親の死をきっかけに、劉生はキリスト教へ厚い信仰を抱くようになります。
牧師を志しましたが師と慕った人に反対され、1908年、17歳のときに当時、赤坂葵橋(現在の虎ノ門2丁目)にあった黒田清輝が主宰する白馬会洋画研究所に通い始めました。
当時の劉生のように、銀座から虎ノ門方面に足をのばしてみました。

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虎ノ門。工部大学校跡の碑。劉生が描いた、白馬会洋画研究所近くの洋館があった辺り。

白馬会洋画研究所に進んだものの、アカデミックな教育になじめなかった劉生は、相撲ばかりとっていたと言われています。
記録魔で生涯膨大な日記を残したことで知られる劉生ですが、その頃の日記にはキリストへの思慕とともに、宗教的な葛藤が重苦しいほどにつづられています。
当時まだ劉生は信仰を捨てていたわけではなく、むしろ伝導のために絵を修得し「キリストの足跡を追ってパレスチナに向かい、その生涯を描いて死にたい」という夢想を胸に秘めていたほどでした。

日比谷公園

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西側に面している霞門(かすみもん)。

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第一花壇。後ろのバンガロー風建物は1910年建築の公園事務所(現在は結婚式場)。

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開園とともに創立した洋食店・松本楼。公園設計者・本多静六が首を賭けてまで伐採から守った、通称「首賭けイチョウ」がそびえ立つ。

1911年、劉生にとって第2の転機となる出来事が起こります。
春から愛読しはじめた文芸・美術雑誌『白樺』を通して、ゴッホを知ったことでした。
「自然を自己の眼で見る事を教えられた。それは宗教的な感じを自分に興さした」――
ゴッホの芸術との出会いを、劉生はまるで新しい神の降臨のように表わしています。

この年の12月、後に親友となる画家・木村荘八は劉生との出会いを次のように回想しています。
同じ白馬会洋画研究所に通っていた荘八が、研究所からほど近い日比谷公園で日課の写生をしていると、いつまでも後ろで「貧乏ゆすりをしながら肩の絵の具箱をガタガタ云わせている『研究所の人』」の存在に気がつきます。
初めて会話を交わしたにもかかわらず、ゴッホを巡って意気投合した二人は、劉生は銀座、木村は東銀座の歌舞伎座向かいと近所に住んでいたこともあり、すぐにお互いの家を行き来するようになりました。
二人の画家が出会った日比谷公園の第一花壇を訪ねました。

ドイツ留学から帰った林学博士で造園家の本多静六による幾何学的なデザインは、1903年の開園当初から、ほぼそのままに保たれているそうです。

この日は巨大なユッカの花が咲き乱れていました。
洋花が人々の目に触れる機会が少なかった明治時代、第一花壇に咲くバラやチューリップなどの洋花は、野外音楽堂の洋楽、松本楼の洋食とともに、日比谷公園のシンボルである「三つの洋」の一角をなし、人気スポットのひとつでした。

築地

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劉生が一時期好んで描いた築地居留地の風景。東京ステーションギャラリー「没後90年記念 岸田劉生展」会場より。

画家として独自の歩みを始めた頃、劉生がよく描いた風景に築地旧居留地があります。
築地の顔だった卸売市場は昨年2018年に移転しましたが、幕末から明治にかけての築地(現在の明石町)は、商社や領事館が立ち並ぶ外国人居留地だったことは忘れられがちです。
劉生は木村荘八とともに、しばしば旧居留地で写生を行いました。
エキゾチックな旧居留地の風景は、当時傾倒していたゴッホを思わせる激しい筆跡と鮮烈な色彩で描かれています。
「ここに来るとへんに余はセンチメンタルになる」
旧居留地の風景は劉生を深く魅了したのか、神奈川県藤沢市鵠沼に転居した後にも、木村とともに散策に訪れています。

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かつての築地外国人居留地を貫く居留地通り。右手にそびえるのは聖ルカ礼拝堂。

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トイスラー記念館(非公開)。聖路加国際病院創立者のトイスラー院長が米国から招へいした医療・看護分野の教育者や女性宣教師が大正期に滞在した。

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1874年創立のカトリック築地教会。現在は聖堂の耐震工事中。

関東大震災で、築地旧居留地の建物の多くは失われました。
それでも、旧居留地を貫く「居留地通り」界わいで出会う洋風建築の姿からは、劉生が「センチメンタルになる」と記した、在りし日の面影が感じられます。

再び銀座

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銀座もそろそろ日が落ちる時間。画面右端あたりにかつて劉生の実家があった。

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「新古細句銀座通」より「毛断嬢之図」。「毛断嬢」つまりモダンガール。だじゃれの達人劉生ならではのネーミング。

夕闇が迫る頃、再び銀座に戻りました。
先に紹介した随筆「新古細句銀座通」の中で、劉生は銀座をかっ歩するおかっぱ頭のモダンガールたちを「毛断嬢」というだじゃれの呼び名で風刺しています。
彼女たちが集うカフェの名前はクモトラ、漢字で書けば「雲虎」、音読みすると……。つまりあれです!
モダンガールの美を「味わわしめない美」「いそがしい美」とこき下ろした劉生は、この随筆が『東京日日新聞』に掲載された1927年、写実から離れ東洋的な「内なる美」を追求し始めてから5年以上が経っていました。38歳の短い生涯を終える2年前のことです。

「内なる美」を求道者のように究めるべく制作を続けた劉生。
その眼差しが培われた銀座を中心に、若き日の劉生の足跡をぜひたどってください。

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カフェー・ライオンが前身のビアホールが、今も銀座七丁目にある。

旅の最後に生ビールを一杯。
劉生がよく生ビールを飲みにでかけたカフェー・ライオンの流れをくむビアホールが、中央通り沿い、銀座七丁目にあります。
1934年開店当時のたたずまいを守っている現存する日本最古のビアホールです。
「高村光太郎君に会いビールのコップを林立させた」という劉生のエピソードがよみがえります。

展覧会情報

◎東京ステーションギャラリーでは「没後90年記念 岸田劉生展」が開催中です。10月20日まで。
同展は山口県立美術館(11月2日~12月22日)、名古屋市美術館(2020年1月8日~3月1日)に巡回します。

◎八王子市夢美術館では「素描礼讃 岸田劉生と木村荘八」が開催中です。11月4日まで。
同展は小杉放菴記念日光美術館(2020年9月5日~10月25日)に巡回します。

インフォメーション

◎中央通り銀座地区歩行者天国
銀座通り口交差点から銀座8丁目交差点までの間
実施日時 土曜、日曜、休日 12時~午後6時(4月~9月)、12時~午後5時(10月~3月)
JR「新橋」駅から徒歩2分。東京メトロ銀座線「銀座」駅から徒歩すぐ。

◎東京ステーションギャラリー
東京都千代田区丸の内1-9-1
開館時間 午前10時~午後6時(金曜日は午前10時~午後8時、入館は閉館30分前まで)
アクセス JR「東京」駅から徒歩すぐ。東京メトロ丸の内線「東京」駅から徒歩3分。東京メトロ東西線「大手町」駅から徒歩5分。東京メトロ千代田線「二重橋前」駅から徒歩7分。

◎日比谷公園
東京都千代田区日比谷公園
常時開園
アクセス 東京メトロ丸ノ内線・千代田線「霞ヶ関」駅、東京メトロ日比谷線・千代田線「日比谷」駅、都営地下鉄三田線「日比谷」駅から徒歩すぐ。JR「有楽町」駅から徒歩8分。

◎金春通り煉瓦遺構の碑
東京都中央区銀座8-7
アクセス JR新橋駅から徒歩2分。東京メトロ銀座線「銀座」駅から徒歩8分。

◎銀座出世地蔵尊
東京都中央区銀座4-6-16 銀座三越9階テラスガーデン
見学時間 午前10時~午後8時。通常見学できるのは、大型複製像。本尊は4月、10月の例大祭と毎月7日(土・日の場合は前金曜日)
アクセス JR東京メトロ銀座線・丸の内線・日比谷線「銀座」駅から徒歩すぐ。JR有楽町駅から徒歩9分。