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2017年7月 2日

第47回 岩手県花巻市へ 萬 鉄五郎を感じる旅

20世紀初頭、当時の前衛的な西洋美術の傾向に敏感にアンテナを張りつつ、新たな絵画の境地を求め続けた画家・萬鉄五郎(よろずてつごろう)。その作品にはまた独特の野性味がにじんでいると感じますが、故郷・岩手県花巻市東和町土沢(つちざわ)の風土からの影響があったと言われています。その地を訪ねました。

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岩手県花巻市東和町土沢、萬がスケッチによく訪れた土沢城跡にて。何度となく “木の間から見下ろした町”を描いた。現在この丘に萬鉄五郎記念美術館がある。

東京美術学校の卒業制作に萬 鉄五郎が描いた、「裸体美人」(1912年)。腰には赤い布を巻き、胸元をあらわにして、あっけらかんとしたポーズでこちらを見下ろす裸婦像です。
当時画壇の主流だった写実的な表現に対する挑戦ともとれる、荒々しい筆跡や激しい色彩は、日本の近代絵画の流れに一石を投じました。
萬の制作時期は、結核のため41歳で亡くなる1927年までの20年足らずでしたが、作風はめまぐるしく変わりました。
そして変化の大きな契機のひとつが、故郷・土沢での1年4か月に及ぶ滞在であったと言われています。

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萬鉄五郎の郷里・土沢の町

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JR釜石線の土沢駅。手前は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の記念碑。

東北新幹線の新花巻駅を降りJR釜石線に乗り換えて西に2駅、土沢駅に着きます。

現在は花巻と釜石を結んでいる釜石線ですが、1913年の開通当時は花巻−遠野間のみ運行していました。土沢はその中間にあたります。ここが萬 鉄五郎の郷里です。

ちなみに萬 鉄五郎の誕生より約10年後にここから12キロほど西で生まれたのが宮沢賢治です。彼が「銀河鉄道の夜」などの作品に登場させた「銀河ステーション」は、この釜石線の駅がモデルになっていると言われています。

降り立つと、「アートのまち土沢」というのぼりがたくさん掛かっていて目を引きました。
土沢は、2005年以降、商店街から野山までのさまざまな場所で、現代美術家が作品を展示するアートプロジェクト「街かど美術館」を継続して行ってきたとのことです。

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土沢商店街。中ほどに萬鉄五郎記念美術館がある高台への登り口がある。

駅前の通りを進むと、懐かしい雰囲気の商店街にたどり着きます。

かつての宿場町の面影があるその小さな商店街の中ほどに、萬鉄五郎記念美術館の登り口が見えてきました。
かつて土沢城があった城跡の小高い丘は舘山(たてやま)と呼ばれ、帰郷中の萬 鉄五郎が足しげくスケッチに訪れた場所です。そこから見える風景は、東京に戻ってからも描き続けました。
坂道を登ると、今も木立の間から土沢の町が山を背景に一望できます。
そして現在、この丘に萬鉄五郎記念美術館は建っています。

萬鉄五郎記念美術館

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萬鉄五郎記念美術館。「没後90年 萬鉄五郎展」を開催していた。

取材の日、萬鉄五郎記念美術館では岩手県立美術館との共同開催による「没後90年 萬鉄五郎展 YORUZU Tetsugoro 1885-1927」が開催されていました。

萬鉄五郎記念美術館では水墨画、なかでも萬が熱心に取り組んだ南画(中国の南宋画の流れを組む水墨画)にフォーカスをあてて展示がされていました。
一点一点が持つ、壮大なスケールに引き込まれ、水墨画家としての萬鉄五郎の顔もあったことを、体感しました。
(なお、「没後90年 萬鉄五郎展」は6月18日で終了。萬鉄五郎記念美術館では、常設コーナーで萬の作品を観覧することができます。)

洋画家としてデビューした萬が南画にひかれていった理由について、学芸員の平澤広さんはこう語ります。

「 “描き手の人格が筆に表れる”という東洋的な考え方に萬は共感を寄せました。ある意味、西洋の表現主義に共通する。でも、萬はより高い精神性を南画の中に求め、そこを追求することで萬はヨーロッパの画家以上の存在になろうとしたのではないでしょうか」

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帰郷した時期に描かれた水墨画(左4点)。こちらも、実在の土沢の風景を元にしている。

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従来あまり注目されてこなかった、萬の南画(水墨画)制作に焦点を当て、萬の南画代表作100点とその関連作品を展覧。

また平澤さんは言います。

「(土沢に帰郷する前までは)新しい、ハイカラというキーワードでくくれた萬の作品が、土沢前後あたりから、土臭い、あかぬけないという形容詞が似合うようになりました。土沢の風土からにじみ出てきたものを拒否せず、オリジナルな表現として意識した結果じゃないでしょうか」

東京時代に鮮やかだった萬の油彩作品の色彩は、1914年に土沢に帰郷して、1年4か月この地に滞在し制作する中で、この町の赤土を思わせる、重い褐色に覆われるようになりました。

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萬鉄五郎記念美術館の隣に移築されている、もともと萬の本家にあった「八丁土蔵」。現在はカフェと岩手ゆかりの作家を紹介するギャラリーとして利用されている。

萬鉄五郎のアトリエがあった界隈

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創業110年の醸造元。笹と丁の字を組み合わせた屋号のマークは萬鉄五郎のデザインが元になっている。

次に、萬にとっての土沢を体験してみたくて、アトリエがあった界わいを訪ねてみました。

萬鉄五郎記念美術館から西側に降りると、さきほど通った土沢商店街に再びぶつかり、味噌やしょうゆなどを販売する大きな醸造元の前を通り過ぎます。
帰郷した萬がアトリエにしていた家はこの店の左隣に建っていたと言われていますが、取り壊されて今はありません。

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木桶で熟成させた味噌。土沢の美味しい米で味噌おむすびを握ると最高。

味噌の味見をさせてもらいながらお店の人に萬鉄五郎のことを聞いてみると、「うちのマークは萬さんのデザインが元になっているんですよ」と教えてくれました。

「アトリエがあった頃の様子はわからなくなってしまったけれど、萬さんが東京から戻ってきて土沢で水墨画を販売した時に、この商店街の人たちも応援して作品を買ったんですよ」
萬という画家の記憶は、今も土沢の町に脈々と語り継がれています。

成島地区/三熊野神社・毘沙門堂

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三熊野神社と日本最大の木造毘沙門天像がある毘沙門堂の登り口。

この町に住む人は、萬の作品から具体的な場所を感じると言います。

土沢の中心部から南西方面に足を伸ばし、萬がしばしば訪れたと言われる成島地区にある三熊野神社を目指しました。
しばらく行くと、周囲には水をたたえた田んぼと里山が現れます。
歩きだと4キロの道のりなので、タクシーなど車で行かれるのが良いでしょう。
ようやく右手に三熊野神社への登り口が見えてきました。

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杉の大木に囲まれた三熊野神社。赤ちゃんの泣き声を競う神事「泣き相撲」でも知られる。

宝物館で、兜跋(とばつ)毘沙門天を見ました。

左右に力強い動きのあるこのかたちが、萬のフォーヴィスム的な人間像や、最晩年に描いた「宝珠を持つ人」という作品のシリーズへ影響を与えたとも言われています。
像全体のスケールは圧巻ですが、同じくらい強い印象を受けるのは、毘沙門天を手のひらで支え持つ地天女の姿です。
管理人の女性が60年前の子ども時代の記憶を語ってくれました。

「毘沙門様は子どもには背が高すぎて、地天女様をいつもお参りしているみたいでした(笑)。杉林はいまよりさらに深かったのですが、この辺の女の人たちは、乳房のかたちの飾りを縫って、子どもが無事に育つ願いをかけて杉林の山神様に奉納する習慣があったんですよ」

毘沙門天のようなポーズで宝珠を掲げるたくましい女――謎めいていると言われることが多い萬鉄五郎の「宝珠を持つ人」ですが、毘沙門天を見て、そのイメージが自然なものとして受け止められる気がしました。

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兜跋毘沙門天(中央)。平安時代の作。像高約4.7メートル。毘沙門天の足元を地天女が支え持っているところに注目。

なお、三熊野神社がある成島地区には、萬鉄五郎が山水画に描いた水辺を思わせる場所が点在しています。ただし、離れていますので、やはりタクシーなどを利用して訪れることをおすすめします。

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北上川の支流、猿ヶ石川。柳田国男『遠野物語』のかっぱ伝承でも知られる川。

土沢神楽

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夜8時、演目「三番叟(さんばそう)」の稽古をする神楽会のメンバーたち。女性の舞い手も多くなってきた。

夜。ふたたび土沢駅近くに戻った後、旅の最後に、萬鉄五郎が影響を受けたとも言われている、土沢の神楽を肌で感じたくて、その練習を見学させてもらうことにしました。

向かったのは、鏑八幡(かぶらはちまん)神社。ここでは神楽会の練習が行われています。
萬は鏑八幡神社で舞われる神楽を見るのが好きだった、という証言もあります。
山伏が伝承した山伏神楽の流れを組む土沢神楽は、現在でも例祭の時期などに奉納されています。

夜8時を回り、神社の社務所には仕事帰りの神楽会のメンバーたちが三々五々集まってきました。皆「権現さま」と呼ばれる獅子頭の前に膝をつき、手を合わせます。
トントトントと弾むような太鼓と笛の音、「三番叟(さんばそう)」の通し稽古が始りました。

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獅子頭「権現さま」は神の化身。権現舞は神楽の最後に舞われる。

と、神楽会の吉田隆一さんが、鏑八幡神社に伝わる神楽面を特別に見せてくださいました。

古いものになると江戸時代より前までさかのぼる土沢神楽の面。
神楽の面が持つダイナミックな表情が、萬鉄五郎の描く人物画から感じるものと共通するという説にも、納得がいく気がしました。

「三番叟」の舞はいっそう盛り上がりを見せ始めました。その激しさに、心が沸き立ってくるのを感じました。いつまでも耳に残る太鼓の音を反すうしながら、今回の萬鉄五郎を感じる旅を振り返りました。

風土や自然に触れることで、萬の謎めいた作品はより味わい深く感じられてきます。土沢の町をぜひ歩いてみてください。

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土沢神楽で使用される神楽面。左の2点は江戸より前の時代のもの。土沢神楽ならではの激しい踊りに耐えられるように、角の部分などに革が用いられているのが特徴。

交通/アクセス

三熊野神社以外はすべてJR釜石線の土沢駅より徒歩圏内。

◎萬鉄五郎記念美術館
岩手県花巻市東和町土沢5-135

◎三熊野神社/毘沙門堂
岩手県花巻市東和町北成島5-1
土沢駅より車で約15分。

◎鏑八幡神社
岩手県花巻市東和町土沢5-152

展覧会情報

「没後90年 萬鉄五郎展」7月1日~9月3日 神奈川県立近代美術館 葉山