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2017年1月15日

第34回 京都へ 利休と樂焼を探す旅

千利休の「侘(わ)び茶」の思想を形にしたのが樂焼の起源と言われています。
初代長次郎は秀吉が京都に築いた城「聚楽第」の土を使い茶碗を焼きました。長次郎没後に、「今焼」から「聚楽焼」と呼ばれるようになりました。徳川の時代になり、二代常慶が徳川秀忠から「樂」の字を賜ったことにより「樂茶碗」の呼び名が一般的になったようです。
樂焼を生んだ背景を探るべく、樂家かいわいとかつての聚楽第の跡を歩いてみました。

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京都市上京区の「晴明神社」。実は千利休の屋敷跡に建っている。境内には、利休が茶を点てたときに用いたとされる井戸も残る。

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樂焼は日本の陶磁器の中でも特殊と言われることが多いですが、その理由のひとつは窯元が市中にあるという点です。通常、陶磁器の窯は山間部につくられることが一般的ですが、樂焼は普通に民家の並ぶ街中にあります。窯も登り窯など大規模でなく、内径1メートルに満たない程の小さな窯で、そこに1碗ずつ入れて焼く。燃料も薪ではなく備長炭が用いられます。樂焼が生まれた安土桃山時代から変わっていないそうで、その最初から「都市型」の陶芸だったと言えるでしょう。

樂美術館(樂家)

誰でも訪れることができ、樂焼を常時見られる「樂美術館」。実はその隣が樂焼の窯元の「樂家」です。昭和53年に十四代・覚入が、樂焼の普及・保存のため窯元の一部を美術館にしたのが樂美術館の始まりです。

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樂美術館。その手前にある樂家は窯元。樂焼はずっと変わらずここでつくられている。

初代・長次郎がこの場所で窯を構えていたかは定かではないそうですが、三代・道入からはずっとここで焼かれているそうです。

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左/樂家玄関。右/その奥にかかるのれん。本阿弥光悦の筆蹟と言われている。

なお、玄関の格子戸から奥を覗くと、ちらっと白いのれんが見えますが、そこに記された「樂焼 御ちゃわん屋」の文字は、本阿弥光悦の筆蹟と伝えられています。

本阿弥光悦は、俵屋宗達や尾形光琳で有名な琳派の創始者。書、まき絵、出版、そして茶の湯にもたけたマルチアーティストとして知られています。そんな光悦、陶芸は樂家から学び、二代・常慶と三代・道入と親しかったと言われています。またもともと樂焼は利休の“プロデュース”のもとで生まれたわけですが、利休が没し、また豊臣が滅ぶ中、樂家を徳川家に「つないだ」のが光悦でした。

作風の上でも「無作為」を良しとした初代・長次郎の樂焼から、三代・道入は本阿弥光悦の影響を受けより自由でモダンな表現へと新しい基軸を打ち出していきました。

つまり、450年続く樂焼の伝統においては、利休に加えて本阿弥光悦も重要なキーパーソンと言えます。ちなみに、光悦筆ののれん、樂家の新たな当主が襲名の折には新調されるそうです。

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樂美術館。樂家歴代の作品が所蔵されている。

樂家は窯元のため一般公開されていませんが、樂美術館は誰でも見学することができます。

また、樂美術館では、季節ごとに入れ替わる展示のほか、歴代の作品に直接触ることのできる鑑賞会や、所蔵品を使って実際にお茶をいただける鑑賞茶会が、定期的に開催されているそうです。(※事前予約が必要です)

通常なかなか触る機会のないものですが、やはり手に取り、お茶をいただく体験をしてみたいものですよね。

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樂美術館の庭の先に樂家が見える。今まさに新しい器が焼かれているのでは……と想像してしまう。

取材に伺ったのは年の瀬。学芸員の方にお聞きしたら、樂家はまさに窯入れを直前に控え、1年の中でも最も多忙な時期とのことでした。

見学はかないませんが、この奥で一回に1碗しか焼けない黒樂茶碗(赤樂茶碗は一回に3〜4碗を焼くことができる)が火に入れられようとしているさまを想像して勝手にドキドキしてしまいました。

晴明神社(千利休聚楽屋敷跡)

樂家から歩いてちょうど5分くらいのところに、かつての千利休の邸宅跡があります。訪ねてみると「千利休居士聚楽屋敷跡」の石碑が立っているだけで、現在そこにあるのは、陰陽師で知られる安倍晴明をまつる晴明神社です。

この境内に今もある井戸の湧き水(水を持って帰ることもできます)を使って、利休は茶をたてていたと伝承されています。

初代長次郎は聚楽第建設の頃、現在の地に工房を構えたと言われています。利休が樂家を近くに呼び寄せたのかは定かではありませんが、いずれにせよその距離からして、両者の密接な関係は想像に難くありません。

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晴明神社二の鳥居横の「千利休居士聚楽屋敷跡」石碑。ひっそりとあるので、意識しなければここが利休ゆかりの場所とは気づかない。

一条戻橋

樂美術館から利休邸宅跡(晴明神社)へ向かう途中には、堀川が流れています。

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一条戻橋。

堀川にかけられた一条戻橋は聚楽第があった頃、諸国の大名や、京都御所から招待された天皇なども渡った、聚楽第の玄関口とも言うべき橋だったようです。

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堀川第一橋の樂家側に立ち、聚楽第方向を眺める。

そして一条戻橋と言えば、秀吉に従わず自害をさせられた利休の首がさらされた場所でもあります。

訪れたときはすでに夕方で、部活帰りの学生たちが一条戻橋を足早に渡っていました。よもやここが千利休の首がさらされた場所だと知る京都市民も多くはないでしょう。

聚楽第(じゅらくだい)の痕跡 

1587年、秀吉が天下人としての自身の権威を示すために、京都御所の西、二条城の北に完成させ、そしてそのわずか8年後の1595年に自ら破壊したという幻の天下城「聚楽第」。

発掘調査で堀の場所などが推定はされていますが、まだすべて解明されてはいません。

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左/聚楽第ゆかりの場所にはハローワーク京都西陣。右/その前には、堀の跡を示す石碑が。

聚楽第があったとされるのは、現在の「西陣」地域です。西陣を歩かれたことのある方にはわかると思いますが、住宅地なので、大規模な発掘をすることはできません。公共施設の建て替え工事などに際して少しずつ調査が行われています。

そして「聚楽第址」石碑があるのは何とハローワーク京都西陣のすぐ横。

というのも、1999年、ハローワーク(職業安定所)建て替えの際に、聚楽第の堀があった痕跡と金ぱく瓦が発見されたからです。

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聚楽第跡一帯の街並み。銭湯、理髪店、時間貸駐車場……と、ごく普通の住宅地の光景だ。

碑の写真を撮ろうと立ち止まる私の横を、ハローワークに向かう人や、かごにスーパーのレジ袋を積んだ自転車の女性が通り過ぎてゆきます。秀吉は豪華けんらんな宮殿をこの場所に築き、京都御所から天皇を招いたという記録も残っていますが、そのようなかつての栄華の物語が、目の前に広がる京の人々の庶民的な暮らしの景色に見る影もなさ過ぎて、かえってわびの趣きを感じてしまいました。

松林寺の「段差」

歩き回っても、石碑や由来の地名こそあれ、明確に聚楽第の面影と呼べるようなものにはほとんど出会うことができません。

そんな中で見つけた、ほぼ唯一と言っていい痕跡が「段差」でした。

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写真手前、松林寺の境内が落ち窪んだようになっているのがわかるだろうか。

見つけた場所は、西陣の寺・松林寺。門をくぐると10段程度の石段があり、境内が外に対して、いくらか低くなっていることがわかります。

境内はかつての聚楽第の外堀の部分にあたり、門の外は堀より内側、聚楽第敷地にあたる、というのです。なお松林寺が建立されたのは、1608年、1595年に聚楽第が破却された13年後でした。

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松林寺周辺の道路。ある地点に立って左を見ても(左写真)、右を見ても(右写真)なぜか上り坂。つまりここも堀跡?

周囲の道路にも、その痕跡が確認できます。ある地点に立つと、上の写真のように、右を見ても左を見ても上り坂。

極めて地味な発見ですが、実際に訪れてみると、遺構らしいものが何もない中、この段差を発見しただけでも幻の城の残影を垣間見た気になりテンションが上がりました。

梅雨の井(つゆのい)

秀吉がその湧き水で茶を点てたと伝わる井戸「梅雨の井」が、聚楽第の遺構として本に掲載されていました。

それらしい場所まで辿り着いたものの、見つけられずにうろうろしていると、近所に住むという年配の女性に声をかけられました。「『梅雨の井』を探しとるの違うかな思うて」。時々訪れる人がいるけれどやはり皆迷うそうで、その場所まで連れていってくれました。

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入り組んだ住宅地の奥に、隠れるようにしてある「梅雨の井」。

聞けば生まれも育ちもこの辺りとのこと、かつては「梅雨の井」からくんだ水を毎日の暮らしに使っていたそうです。

「梅雨の井」の名は、梅雨の時期になると井戸水が溢れたことに由来しています。その方自身は経験したことがないそうですが、溢れた井戸水で土間が浸水してげたが浮いたという話を母親から聞いたことがあるそうです。

当時、聚楽第の辺りは地下水が豊かで、その水を利用した酒造りも盛んに行われていたといいます。洛中の造り酒屋の数は、室町時代には300軒もあったそうです。「梅雨の井」が聚楽第の井戸だったかはともかく(現在の考察では、「梅雨の井」がある場所は聚楽第の堀の中に位置するのでは、とも言われています)、この辺りの湧水を秀吉や利休が茶の湯に用いていたとしても、たしかに不思議ではありません。

ちなみに、大きなビルの建設によって水脈が断たれたのか、もうしばらく前から水が出なくなってしまった、とその方は話してくれました。

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「梅雨の井」の近くにはかつての酒蔵跡も残る。

京都国立近代美術館

番組でもご紹介しましたが、現在京都国立近代美術館では、樂家450年の歴史を伝える「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」が開催されています。

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「利休七種」の筆頭「大黒」をはじめ、千利休所持と伝わる茶碗が多数展示されている。

初代・長次郎作から当代・十五代 吉左衞門作まで、約140点の茶碗や焼物が並んでいます。

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初代長次郎 天正2年(1574)「二彩獅子」 重要文化財 樂美術館蔵。現存する長次郎最古の作「二彩獅子」。

この展覧会では、十五代にわたる樂家代々の作陶を見て回ることができますが、利休の影響が色濃い初代、本阿弥光悦との交わりの中で新たな作風が花開いた江戸初期、三千家の隆盛と共に歩んでいった江戸中期・後期、明治に入り西洋化が進む中で訪れた茶道文化全体の危機の時代、戦中戦後の苦難の中からの樂焼再興、そして十五代・吉左衞門の、現代アートのような表現。

今回の旅で感じたことは、秀吉の栄華の残り香でも、秀吉と利休の相克でもなく、ただ聚楽第跡も樂美術館も、またおそらく千家も、京都の人々の暮らしの、なにげない風景の中に溶け込んでいるということでした。

これまでの450年同様、これからの樂焼も私たちの生きる時代や暮らしと共に姿を少しずつ変えていくのでしょう。美術館と合わせて、街を歩き、樂焼が通ってきた「とき」を感じてみてはいかがでしょう。

住所/交通情報

樂美術館/京都市上京区油小路通一条下る
京都市バス「堀川中立売」「一条戻橋」下車徒歩約3分・「堀川今出川」下車徒歩約8分

千利休居士聚楽屋敷跡(晴明神社)/京都市上京区堀川通一条上る晴明町806
京都市バス「一条戻橋・晴明神社前」「堀川今出川」下車徒歩約2分 ・「堀川中立売」下車徒歩約5分

京都国立近代美術館/京都市左京区岡崎円勝寺町
京都市バス「岡崎公園 美術館・平安神宮前」下車すぐ

展覧会情報

樂美術館では「茶のために生まれた「樂」という、うつわ展。」が開催中です。(2月26日まで) 

京都国立近代美術館では「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」が開催中です。(2月12日まで) 
その後、東京国立近代美術館に巡回。(3月14日〜5月21日)