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2017年1月 8日 / 旅の紹介 第33回 長野県小布施町へ 葛飾北斎を訪ねる旅

浮世絵界の大スター・葛飾北斎。
絶えず自己変革を続け、絵師としての高みを目指しました。
その最晩年の足跡が残る長野県上高井郡小布施町(おぶせまち)を訪ねました。

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北斎が天井絵を描いた上町祭屋台(手前)と東町祭屋台(奥)。小布施・北斎館。

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1779年に春朗(しゅんろう)の名前で画壇に登場した北斎は、90歳で亡くなるまで常に画風や様式を変貌させました。
風景版画の傑作「冨嶽三十六景」を世に送り出したのは72歳のときのこと。
生涯に30回以上も画号を変えた北斎ですが、75歳になり、最後の画号「画狂老人卍」(がきょうろうじんまんじ)を名乗るようになります。
浮世絵版画から距離を置き、肉筆画の分野でさらなる高みを目指し精進を続けたのです。

80歳を過ぎてから北斎は北信濃の小布施を4回も訪れたと言われています。
この町の豪農商・高井鴻山(たかいこうざん)との親交がきっかけでした。
今も残る北斎晩年の作品を見るために小布施を訪れました。

岩松院(がんしょういん)

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北斎の天井絵「鳳凰図」で知られる岩松院。室町時代開創の古刹。

北斎が生きた時代、江戸から小布施への240キロは宿場町に立寄りながらの約5泊6日の旅でした。現在は新幹線で長野駅を経由すれば約2時間半です。

小布施駅から、北斎が最晩年に手がけた天井絵で知られる岩松院をまず目指しました。
岩松院があるのは小布施の東端。雁田山を背にブドウ畑やリンゴ畑が広がる里山です。

高井鴻山の依頼で、北斎は高井家の菩提寺である岩松院の天井絵を制作しました。
二人が知り合った経緯は詳しくわかっていませんが、北斎が出入りしていた江戸日本橋の呉服問屋・十八屋を介してと考えられています。十八屋の店主もまた小布施出身の豪商だったのです。綿糸や菜種油の生産で繁栄した小布施からは、数多くの豪商・豪農が誕生しました。
江戸遊学中の鴻山は20代の後半。北斎は70代半ばでした。
遊学を終えた鴻山が小布施に帰った後も、鴻山は北斎を「先生」と、北斎は鴻山を「旦那様」とお互いに呼び合い、その親交は続きました。

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北斎画の天井絵がある岩松院本堂。

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天井絵「鳳凰図」(部分)。別々に彩色された12枚の板からなる。

岩松院山門をくぐり、本堂に上がり大間に足を踏み入れると、頭上からただならぬ気配を感じます。間口6.3メートル・奥行5.5メートルの天井絵「鳳凰(ほうおう)図」です。

朝方のまだ薄暗いお堂の中でも、鳳凰の羽の深い緑色と朱色、青色などの色彩は、その周囲にまかれた金ぱくの輝きとあいまって、まばゆいばかりです。

この「鳳凰図」、どの方向からも鋭い眼差しが感じられることから「八方睨み鳳凰図」とも呼ばれています。確かに、まなざしは迫力にあふれ、天井いっぱいに翼を広げて長い尾羽をはためかせる様子からは生命感が伝わってきます。

ふと、北斎が75歳のときに「富嶽百景」に寄せたあと書きを思い出しました。
「七十三歳にして稍々禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり、(中略)百有十歳にしては一点一格にして生くるが如くならん」。73歳にして生物や植物の何たるかを少し悟った/百十歳になれば生きているような絵が描けるようになるだろう――。  

「鳳凰図」が誕生したのは80代後半。北斎は自らの言葉どおり、依然絵を極めるために格闘を続けていたのです。

北斎館

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1976年創立の北斎館。2015年にリニューアル・オープンした。

小布施の町の中心部に戻り、北斎の肉筆画をはじめ多数の作品を所蔵する美術館・北斎館を訪ねました。
読本の挿絵、一枚ずりの浮世絵版画、肉筆画……と幅広い分野の北斎作品を見ることができますが、小布施と関わりが深くなった晩年の「画狂老人卍」時代の肉筆作品を多数収蔵しているのが特徴です。

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左/北斎館の肉筆展示室。右/北斎が晩年の日課として描いた「日新除魔」

“日課の獅子”との別名を持つ、北斎が毎朝描いた獅子の絵「日新除魔」もそのひとつです。83歳の頃、約1年間にわたって毎日描かれました。

長寿の願いを込めたと考えられていますが、放とうを重ねた孫を追い払うためという説もあります。
この孫がばくちなどでつくった借金の肩代わりや80歳のときに見舞われた火災などで、北斎の暮らしは決して楽なものではなかったようです。

そんな苦境とは裏腹に北斎の筆跡の小気味良いこと! 描かれた獅子は日によって勇壮な唐獅子だったり、扇子などの小道具を手にした少しユーモラスな獅子舞だったりと、その時々の心模様を映し出しているかのようです。
誰に見せるために描かれたわけでもない“獅子”は、起き抜けに描かれるとすぐに丸めて軒下に捨てられたと伝えられています。
三女の阿栄(応為)らが拾い集めたおかげで200数十枚が現存し、一部は明治期にジャポニスム・ブームのヨーロッパに渡りました。北斎館では10点を見ることができます。

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北斎が天井絵を手掛けた2台の祭屋台。左が東町祭屋台、右が上町祭屋台。

美人画から花鳥画、歴史画まで、展示された肉筆画の数々は、北斎の守備範囲の広さをまざまざと見せつけます。
しかし、小布施の北斎の象徴は何と言っても最後の展示室で見ることができる2台の“祭屋台”です。
岩松院の「鳳凰図」と同様に高井鴻山の依頼に基づき、それぞれの天井絵を北斎が手掛けました。

2台の祭屋台は部屋の中央に設置され、ぐるりと周りを巡って全体が鑑賞できるようになっています。
祭屋台は、1階部分が笛や太鼓などの囃子方が入る空間、2階は舞い方が踊るための舞台、という構造。昭和初期くらいまで、実際に町を練り歩いて使われました。

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左/「鳳凰図」。 右/「龍図」(2点とも東町祭屋台天井絵)。

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左/「女浪図」。右/「男浪図」(2点とも上町祭屋台天井絵)。

北斎はそれぞれの祭屋台に「龍図」「鳳凰図」と、「男浪図」「女浪図」の一対の天井絵を描きました。真筆は屋台から取り外され、近い距離からじっくりと鑑賞することができます。
龍と鳳凰の生き生きとした存在感は圧巻です。

もう一対の浪図も、千変万化する水の様子を繰り返し描いてきた北斎の集大成ともいえる作品です。
「冨嶽三十六景」などに描かれた砕け散る波の風景から一歩進み、この天井絵では、遠景の富士も浪間の小舟もない波そのものに画面いっぱいで迫っているのです。にもかかわらず、このスケール感! 86歳の「画狂老人」の神通力ここにあり、といった感があります。

浪図は四方を取り囲む縁絵にも注目です。豪華けんらんな金地に、“麒麟(きりん)”などの中国発祥の神獣のみならず、西洋の植物や翼をつけた天使が描かれ、北斎の衰えることのない好奇心がうかがえます。この縁絵は北斎の下絵に基づき高井鴻山が彩色を施しました。

高井鴻山記念館

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高井鴻山記念館正門。中央は文庫蔵。2017年3月まで記念館は耐震工事のため閉館中。

北斎晩年の作品の数々を見て、この地に北斎を呼び寄せた高井鴻山について改めて興味がわき、旅の最後に鴻山の旧邸・高井鴻山記念館を訪ねてみました。北斎館からは数分の距離です。
記念館は耐震工事のため現在閉館中ですが、敷地内を一部特別に見せていただきました。
高井家の旧宅があった一角の、鴻山の書斎兼サロン・翛然楼(ゆうぜんろう)、文庫蔵、屋台庫は展示室として、また中庭が記念館として公開されています。

北斎にとって鴻山とはどんな存在だったのでしょうか。同記念館の金田功子館長にうかがいました。
「北斎は若い鴻山に強い信頼感があったのだと思います。83歳で北斎が最初に小布施に来た1842年は天保の改革が始まった翌年です。戯作者の柳亭種彦のように捕えられて不可解な死を遂げた人もいたわけですから、ある意味で北斎は江戸から逃げてきたわけです。よほど信頼していないとそんな時に頼りませんよね」

老中・水野忠邦による天保の改革に伴い施行された倹約令は、ぜいたくな風俗の描写のみならず、絵師たちに役者や遊女を描くこと一切を禁じる苛酷なものでした。
江戸から遠く離れた、鴻山のいる小布施は北斎にとって安心して創作に没頭できる別天地だったのです。

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土壁の蔵。鴻山が私財を投じてつくった上町祭屋台は蔵の右側にある屋台庫に納められていた。

北斎が鴻山に寄せた信頼感は、二人の間の手紙のやりとりからも伝わってきます。

現在も北斎研究の一級の資料とされる、明治の中頃に刊行された『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)では、北斎は“酒も飲まず、茶もたしなまない”禁欲的な人物として描かれています。

しかし、北斎が鴻山に宛てた手紙からは、『葛飾北斎伝』の北斎像とは少し異なる雰囲気も伺えます。
例えば、上町祭屋台の飾り人形の完成を知らせる一通。「仕事に苦労した者たちで祝杯をあげたい(中略)豆腐に卵くらいの簡単な飲み会でいいので、どうかよろしく」という頼みごとの手紙ですが、関係者の似顔絵やゆで卵の“絵文字”も書き入れられ茶目っ気たっぷりです。

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高井鴻山記念館東門(右側)。塀に沿って延びる通称“栗の小径”。

鴻山は小布施滞在中の北斎のアトリエ“碧漪軒”(へきいけん)を、東門を出てすぐの場所に用意したと言われています。
小布施に残された北斎渾身の作品の数々の影には、鴻山の全面的な支援がありました。
あらためて、北斎の小布施への旅が4回を数えた意味を思いました。

その後も筆を握り続けた北斎。
90歳で他界する瞬間も、「天が私をもう10年、せめてもう5年生かしてくれれば、本物の絵師になることができるだろう」と語ったとされています。
まさに、“画狂老人”らしい最期です。

常に絵師としての高みを目指し続けた北斎。その足跡が残る小布施をぜひ訪ねてみてください。

 

交通

岩松院 
長野県上高井郡小布施町雁田
長野電鉄小布施駅より徒歩約30分、町内周遊バスで約10分

北斎館
長野県上高井郡小布施町大字小布施485
長野電鉄小布施駅より徒歩約15分

高井鴻山記念館(4月まで耐震工事のため閉館中)
長野県上高井郡小布施町大字小布施805-1
長野電鉄小布施駅より徒歩約10分