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2016年12月11日 / 旅の紹介 第32回 ドイツ・ヴィッテンベルクへ クラーナハを訪ねる旅

ドイツ・ルネサンスを代表する画家、ルカス・クラーナハ(父)。
優雅でなまめかしい女性像は、16世紀前半のヨーロッパ諸侯に愛されました。
クラーナハが活動したドイツ北東の町・ヴィッテンベルクを訪ねます。

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聖マリエン聖堂。「宗教改革祭壇画」とよばれるクラーナハ晩年の作品(子との共作)。

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1472年、南ドイツのクローナハで生まれたクラーナハ(父)は、若き日にウィーンで画家として頭角を現しました。その後、ヴィッテンベルクに向かい、亡くなる前年まで半世紀近くこの町を拠点とします。
きっかけは、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公からの宮廷画家としての招きでした。
ヨーロッパ史を揺るがす宗教改革の大きな波が、やがてこの町で起ころうとしていました。

城付属聖堂

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シュロス通りから眺める城付属聖堂の塔。その名の通りこの教会はヴィッテンベルク城の一部をなしていた。

ヴィッテンベルクの現在の正式名称は、ルターシュタット(ルターの町)・ヴィッテンベルク。
宗教改革発端の地であるこの町のシンボルは今もなおマルティン・ルターです。
ベルリンからヴィッテンベルクへは、特急列車で南西に約1時間。
ヴィッテンベルクの駅に降り立ち地図を眺めると、宗教改革にまつわる史跡が立ち並ぶ旧市街はかつての城壁の跡である道にぐるりと囲まれ、典型的なヨーロッパ中世の町を感じます。

旅の始まりに、ルターが起こした大事件で名高い、そしてクラーナハにもゆかりの深いこの町のランドマークともいえる城付属聖堂を、まず訪ねてみました。

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城付属聖堂の正門扉。ルターによる宗教改革はここから始まった。

この教会で最も有名な正門扉。ルターはここに「95ヶ条の論題」を貼り出したのです(オリジナルの扉は18世紀の戦乱で焼失、現在の青銅製扉は19世紀中頃のもの)。
当時、ローマ・カトリック教会は、購入することで罪が軽くなるとする「贖宥状(しょくゆうじょう)を乱発し、ドイツでも大量に販売を指示しました。
「95ヶ条の論題」に、ルターはこの贖宥状への抗議を記し、大きな反響を呼ぶことになります。

カトリック教会では、聖職者は独身を貫くことが義務付けられていました。
しかし、これに異議を唱えていたルターは修道女のカタリナ・フォン・ボラと結婚します。
この結婚を正式に認めさせることを目的に、ルターは自分と妻の肖像をクラーナハに描かせました。
クラーナハはさらに二人の結婚の立会人を務め、生涯に夫妻の絵を何度も描き深い親交を結んだのです。

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城付属聖堂の祭壇。

思わず見上げたくなる壮麗なステンドグラスと天井装飾の礼拝堂。しかし、ネオゴシック様式のこれら教会内部と外観は、19世紀末に改築された結果だそうです。
クラーナハがこの教会のために描いたといわれる祭壇画、「カタリナ祭壇画」は現在ドレスデン絵画館に収蔵されています。

“クラーナハの中庭”と“クラーナハの家”

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“クラーナハの中庭”の表通り側には薬局が営業している。

ヴィッテンベルクでのクラーナハの成功は、めざましいものでした。
宮廷画家を務めて間もなく、のちに“トレードマーク”として作品に描かれる“有翼の蛇がルビーの指輪をくわえている紋章”をフリードリヒ賢明王から与えられます。
数年後には市の中心部に2軒の家を購入し、手狭になった住居と工房を城内から移転させました。
それらクラーナハが拠点とした場所が“クラーナハの中庭”と“クラーナハの家”として公開されています。

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薬局に掲げられたクラーナハと妻・バルバラの肖像画。

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クラーナハ版画ラベルの薬用酒が売っていた。消化促進効果があるとか。

城付属聖堂からもと来たシュロス通りを戻ると、まず、“クラーナハの中庭”と呼ばれる、文字通り中庭をぐるりと建物が取り囲むエリアにたどり着きます。
通りに面して1階にあるのは、薬局。
商才にたけたクラーナハは、画家として成功するだけでなく、大家としても収入を得、さらに5人の子どもたちとともに、ワインをはじめさまざまな品物を地域で独占販売し、幅広い利益を獲得していました。
薬の独占販売権も持ち、自ら薬局も経営したので、絵の具として使用するさまざまな鉱物などを幅広く入手することができました。
クラーナハ家族が持っていた地域独占販売権は、ワイン、薬のほか、砂糖、香辛料にまで及んだといいます。

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“クラーナハの中庭”。文字通り中庭を囲んで建物があり、クラーナハ像がたたずむ。

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中庭に面した印刷工房では、印刷機が忙しく稼働していた。

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ルター翻訳、クラーナハ工房が木版を手掛けた聖書より(複製)

この建物の中庭側には印刷工房があります。
宮廷画家として成功し、さまざまな事業ですでに財を成したクラーナハが、さらなる富をもたらす新規事業としてはじめたのが印刷業でした。
ルターの偉業として伝えられる聖書のドイツ語への翻訳。
クラーナハは、ルター版のドイツ語聖書に木版装飾を加えただけではなく、印刷の経費を投資してこの書物を世に送り出したのです。
新しい聖書を求める人々は3000部の初版に殺到し、年内に第2版が出版されるなど、出版計画は大成功を収めました。

現在、この印刷工房では、当時の印刷技術を展示するとともに、活版印刷機などを使ってポストカードなどさまざまな印刷物を刷っています。
印刷職人の仕事を眺めていると、17世紀の印刷所にタイムスリップしたような気分になりました。
フレンドリーな工房長が教えてくれました。「ルターとクラーナハの努力で、聖書は手が届くものになったんですよ。豚1000頭と同じ値段だったのが、3頭分になったんですから!」

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左/“クラーナハの家”外観。 右/2階の展示室には、クラーナハ時代の天井装飾画が残される。

もう一軒の“クラーナハの家”までは、距離にして約50メートル。
旧東ドイツ時代には放置されていたこの建物ですが、1990年代に入ってから修復と改装が重ねられ、3階から上は現在ではオフィスなどに使われています(非公開)。
1、2階で住居だった部屋や活動についての展示を見ることができます。

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2階がクラーナハ関連の展示。代表作のパネル

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顔料と金箔(主に衣装部分に使われた)の展示

クラーナハの絵画工房について展示したパネルでは、20名以上にのぼる共同制作者やアシスタントの名前が記されていました。
現存するだけで1000枚以上にのぼる膨大な絵画作品を生み出すことができたのは、工房での共同作業のたまものです。
クラーナハの絵画工房は高まるニーズに応じるためのノウハウを確立していました。
ポイントは、モチーフの徹底した規格化です。
選帝侯たちの肖像からルクレティアをはじめとする歴史上の女性像まで、決定版としての“定型”を作り、工房のどの職人でも描けるように規格化したと言われます。
あくまで聖書をよりどころとして偶像崇拝を否定するルターの教えが広まった影響で、聖画の注文は減りました。しかし、官能的な裸体画は人気を呼び注文が増えていきました。
かくして、クラーナハ・スタイルの女性像の数々はヨーロッパに広まることになったのです。
クラーナハの長男・ハンスは早くから工房で父の片腕を務めていましたが、24歳の若さでイタリア修業中に急死します。これを嘆いたクラーナハは、紋章の蛇に付いた上向きの翼を、横たえたものに改めました。

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旧市庁舎(左手)。クリスマスシーズンを前に広場にはクリスマス・マーケットのテントが並ぶ。

“クラーナハの家”の向いには、マルクト広場をはさんで旧市庁舎がそびえています。
ちなみにクラーナハは、この町の市政においても大きな足跡を残しています。
市の出納役を数回務めた後に、3回も市長に選出されたと記録にあるのです。
万能の天才がきら星のように登場したルネサンス期とはいえ、クラーナハのマルチな活躍ぶりには脱帽です!

聖マリエン聖堂

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聖マリエン聖堂。ルターが説教をした教会として知られる。

最愛の息子・ハンスの死という悲劇から10年後、クラーナハの晩年を決定づける事件が起こります。
反カトリック教会を掲げる諸侯と神聖ローマ帝国との間で勃発したミュールベルクの戦いです。
ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ寛大公が破れ、ヴィッテンベルクはカトリック教会の支配下に入ることになったのです。前年、ルターは他界しています。

クラーナハはルターの生前からその主張に共鳴しつつも、一方でルターに敵対するカトリックの枢機卿からの注文にも応えるなど、現実的な利益を追求する姿勢を崩しませんでした。
しかし、敗戦の結果、ヨハン・フリードリヒ寛大公がアウグスブルクに幽閉されると、クラーナハは幽閉先に向かいます。幽閉が解かれてからもクラーナハはヨハン・フリードリヒ寛大公に従い、ヴァイマールの居城で81歳の生涯を閉じました。

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聖マリエン聖堂祭壇画。中央のパネルに描かれているのは「最後の晩餐」。

さて、旅の最後にクラーナハが晩年に描いた祭壇画を訪ねましょう。
露店で賑わうマルクト広場の静かな一角にある聖マリエン聖堂。
この教会は、クラーナハが描いた「宗教改革祭壇画」と呼ばれる三連の祭壇画があることで知られています。後に絵画工房を継ぐ次男のルカスとの共作です。

中央のパネルには「最後の晩餐」が描かれています。
クラーナハは、使徒たちの姿に、宗教改革にかかわった実在の人物をあてはめて描いたと言われています。
手前右のこちらを向く黒衣の男はルター。頑強そうな顔からは、その強い意志が伝わってきます。
“ルター”に酒を手向けている男はクラーナハ自身の姿だとか。
気のおけない友人たちが食卓を囲む風景をつい連想してしまいます。
しかし、この祭壇が設置されたのはルターが他界した翌年、ヴィッテンベルクが神聖ローマ帝国の軍門に下った年です。ルターが投げかけた波紋は一時的に収束しますが、その後も新たな衝突は各地に広がっていきます。
クラーナハを取り巻く激動の歴史に思いをはせると、この祭壇画がたたえる静けさはむしろ力強いものに感じられてきました。

ヴィッテンベルクの町

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左/ヴィッテンベルクの地ビール。 右/ビアホールで食べた名物料理たち。

石畳の町を歩き疲れたら、地ビールが美味しいビアホールで名物料理を食べるのがドイツの旅の楽しみです。
ビールとともに、ヴィッテンベルクの郷土料理、豚の血を固めたソーセージと、豚レバーのソテーをいただきました。

来年2017年には宗教改革から500年のメモリアル・イヤーを迎えるヴィッテンベルク。
そのため、現在は町の各地で改修工事が行われています(クラーナハの「十戒」を収蔵する“ルターの家”も2017年の3月まで閉館中です)。
歴史の渦の中で、したたかに生きたクラーナハの足跡を、ぜひヴィッテンベルクに訪ねてみてください。

今回の取材は、ベルリン在住のコーディネーター・前岡義人さんとグラフィックデザイナーの阿部寛文さんにご協力いただきました。

交通

ヴィッテンベルク駅からすべて徒歩圏内。

城付属教会 (Schloss Kirche)
Schlosspl. 1, Lutherstadt Wittenberg

クラーナハの中庭 (Cranach-Höfe)
Schlossstraße 1, Lutherstadt Wittenberg

クラーナハの家 (Cranach Haus)
Markt 4, Lutherstadt Wittenberg

旧市役所 (Altes Rathaus)
Markt 26, Lutherstadt Wittenberg

聖マリエン聖堂 (Stadtkirche St. Marien)
Kirchplatz, Lutherstadt Wittenberg