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2016年10月16日 / 旅の紹介 第24回 埼玉・東松山市へ 丸木位里・俊を訪ねる旅

番組「黒の黙示録」では、香月泰男のシベリア抑留を描いた絵画、丸木位里・俊の「原爆の図」、川田喜久治が原爆ドームを撮影した写真を紹介しました。
その中から丸木位里・俊に焦点を当て、「原爆の図 丸木美術館」を中心に、埼玉県東松山市を巡ります。
ふたりがこの地で何を見ていたのかを想像する中で、「原爆の図」がまた異なる角度から見えてくるのではないかと思ったからです。

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原爆の図 丸木美術館。丸木位里は65歳から94歳、俊は54歳から87歳まで、人生の最後を送った地でもある。

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都心から電車で1時間圏内にあり、ニュータウンのイメージもある東松山。今回は、東武東上線高坂駅と東松山駅の西側、丘陵や田園風景などの自然が残るエリアを回ります。

夫妻の平和への願いと響き合う場所として、丸木夫妻が描いた壁画のある小学校と、市内にある埼玉県平和資料館も訪ねました。

丸木美術館と埼玉県平和資料館へはそれぞれバスでも行けますが、今回の3つの場所を巡るには車で回ることをおすすめします。

原爆の図 丸木美術館

東松山駅から車で約15分。最初は、町外れの寂しい場所に来たように感じるかもしれません。しかし、作家の石牟礼道子さんはこう詠みました。「ここは、むかしむかしの国ではあるまいか。万葉あたりの郎女たちの住むところ」。
* 郎女(いらつめ)=若い娘

訪れた10月初旬は草木は枯れかかっていましたが、これからメタセコイアの紅葉が始まります。春は梅や桜、初夏にはたけのこ。夏休みはキャンプや川遊びの親子連れでにぎわいを見せます。この日はアオサギが飛んでいく姿を見ました。

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丸木美術館の庭から都幾川を見下ろす。かつては水量も多く、向こう岸に農家の畑があったという。

1901年広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)の船宿兼農家に生まれた丸木位里と、1912年北海道雨竜郡秩父別町の寺家に生まれた丸木俊(旧姓:赤松俊子)。

広島に原爆が投下されたのは、結婚して4年目の頃。ふたりは埼玉県浦和市大谷場(現・さいたま市南区)に疎開していました。
原爆投下の3日後、位里が広島の父母のもとに駆けつけ、数日後に俊も到着。爆心地には行きませんでしたが焼け跡の惨状を目に焼き付け、1か月滞在して家屋を建て直して帰京します。翌年、位里の父は原爆症で亡くなりました。

「原爆の図」は、転居した神奈川県藤沢市片瀬で、証言や写真などを集めて描かれ、1950年に「第1部」を発表。米軍占領下で報道されなかった惨禍の描写が反響を呼び、日本全国、世界21か国を巡回します。

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「原爆の図」のためのデッサンを描く俊と位里。写真提供=原爆の図 丸木美術館

「原爆の図」が巡回から戻ってきたあと、夫妻は、誰でもいつでも見られるよう美術館を建てたいと考えました。

広島に建てたかったと思われますが、私財で購入できる土地を探してたどり着いたのが東松山でした。家もなく、雑木林を抜けた先に見えた都幾川が、位里の故郷・広島の太田川に似ていたことが決め手になりました。ここなら原爆犠牲者の魂にも安心して眠ってもらえると思ったのではないでしょうか。

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アトリエとして使っていた茶室「流々庵」から見る都幾川。位里はここから見る「里」の風景が好きだった。当時は鉄塔や護岸壁はない。

1967年に開館してからも「原爆の図」は82年まで描き続けられ、全15部の連作となりました(第15部は長崎原爆資料館蔵)。

現在は、第9〜第14部が展示されています(その他は、平塚市美術館とミュンヘンのハウス・デア・クンストに貸出中)。第1〜第6部はフレスコジークレー印刷の精巧な原寸大レプリカが置かれています。凄惨な光景ですが、描線が目を誘導します。

ビキニ環礁水爆実験で被爆した第五福竜丸を描いた第9部の「焼津」や第10部「署名」は、市井のひとりひとりに敬意をもって描かれ、未来を案じる気持ちが伝わります。
そして、第13部「米軍捕虜の死」や第14図「からす」以降、加害にも目を向けていきます。こうした思考の深まりが評価され、95年にはノーベル平和賞に推薦されました。

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第9部の「焼津」、第10部「署名」の展示風景

第12部「とうろう流し」では、どの川もつながっているように感じられます。毎年8月6日には、都幾川でもとうろう流しを行っています。

命のかけらもないほど廃野になった故郷に、東松山の風景を重ね、色彩と光を取り戻すように若い娘の姿に託して描いたのではないかと感じました。

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第12部「とうろう流し」は美術館の2階で描かれた 1968年 原爆の図 丸木美術館蔵

学芸員の岡村幸宣さんは「政治と芸術の距離が近かった50年代には、共同制作は珍しいことではありませんでした。ただし、丸木夫妻の共同制作が40年以上も続いたのは、洋画の俊、日本画の位里という異質な画家同士が持ち味をぶつけ合ったから。ひとりではできない表現がモチベーションを維持し、芸術性の高い表現に行き着いたのでしょう」と語ります。

確かに個々の作品を見ると違いがわかります。さらに位里の母スマの生きものを描いた絵には心洗われます。3人とも、人間や自然をコントロールしないよう努めた人だったのかもしれません。

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前衛的な水墨画を描いた位里の展示室。

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左/女性像や母子などを描いた俊の初期の油彩。右/俊のすすめで、70歳から描き始めたスマの展示室。

俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さんにお聞きすると「位里がせっかちで、俊がゆっくり。対照的だけど相性がよかった」とのこと。
「位里は、熊笹を刈って河川敷まで何本も道をつくっては楽しんでいました。庭が位里の遊び場です(笑)。都幾川では投網をして魚をとっていましたね。ブルガリアの展覧会から帰った後、俊はヨーグルトやチーズづくりにハマっていました。絵本作家の田島征三さんから譲り受けたヤギのボコちゃんの乳を搾ってね。ヤギは気性が荒くて大変でした」と懐かしそうに笑います。

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俊の姪で絵本画家の丸木ひさ子さん。位里と俊がアトリエに使った「流々庵」にて。

東松山に越してきたばかりの頃は、水道が引かれていなかったので井戸を掘り、店もないので、近くの農家から野菜や鶏を分けてもらっていたようです。

ひさ子さん夫妻が世話をしていた晩年、自家製の野菜で料理をすると、俊はなんでも美味しそうに食べてくれたそう。
「位里には、お客様のために『ご飯をいつもいっぱい炊いておけよ』とよく言われました。食卓では制作中の絵の話しがずーっと続きました。例えば、『水俣の図』を描いていたときは患者さんのことですね。二人ともお酒をよく飲みました」

美術館前庭には、広島や長崎で被爆した方々の霊を悼む「原爆観音堂」があります。栃木から移築し、客間などに使用した「野木庵」などでは当時の語らいが聞こえてきそうです。

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左/原爆観音堂のやきもの。右/ひさ子さんの夫が手入れしてきた野木庵。

いちばん心に残った話は、絵本作家でもあった俊が、美術館に来る子どもたちに真剣に向き合っていたということでした。

「『自分の目で見て考えることが大事』などと語っていました。子どもたちに未来を託していたんでしょう」
 二人がもっとも伝えたかったことは「やはり命の豊かさ、尊さじゃないかな」とひさ子さん。身を削るように描いた丸木夫妻の、根底にある深い優しさを痛感しました。

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左/階段のステンドグラス。右/整地する際に拾った砂利に着彩した装飾。

東松山市立青鳥小学校

次に、丸木美術館から車で約10分の青島(おおどり)小学校へ。1982年の開校時に、丸木夫妻が依頼されて描いた壁画があります。校舎に入って間近に見ることができます。
「この壁画があることを誇りに思います。子どもたちにとっては入学したときから当たり前にある存在なんですが、見守ってくれているようにも見えますね」と教頭先生。
校長室に飾られている原画も見せていただきました。
元気な子どもたちの声も聞こえてきます。

開校時から、素足での生活など特徴ある教育で、人権教育にも力を入れているそうです。丸木美術館学芸員の岡村さんも壁画を使って授業をしたことがあります。
親が卒業生だった子どももいるそうで、二世代にわたって壁画が愛されていることを知って、なんだかうれしくなりました。

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「青鳥小学校の誇り」だという壁画。肌の色の違う3人には「人種を超えて仲良く」という願いが込められている。

埼玉県平和資料館(埼玉ピースミュージアム)

最後に、「埼玉ピースミュージアム」の愛称で知られる埼玉県平和資料館を訪ねました。青鳥小学校からは車で約15分、岩殿丘陵の坂道を登った森の中にあります。

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物見山に隣接する埼玉県平和資料館。船の形をイメージした大きな建築。写真提供/埼玉県平和資料館

満州事変から第二次世界大戦の終結までの資料が展示されています。戦争経験者の減少とともに寄贈も年々減少の傾向にありますが、実物資料で伝えることを大切にしているそうです。

体感的な展示で鑑賞者を引き込みます。

世界の動きのなかで、埼玉県民の生活がどう変わったのかもわかります。
東京に隣接する埼玉には多くの軍需・軍事施設がありました。
空襲ではまずそれらが狙われ、次第に無差別になっていきます。
終戦前夜の8月14日午後11時30分から約1時間、熊谷を襲った「太平洋戦争最後の空襲」の不条理さ。
自分の身近な地域ではどうだったのかも知りたくなりました。

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左/熊谷空襲などの展示。死者266人という埼玉県で最大規模の空襲。
右/中央に風船爆弾の模型。現在では世界遺産に登録されている小川町の和紙が使われていた。周囲には、広島や長崎の原爆被災資料、沖縄戦の資料も展示。

戦時下のある1日を体験できる展示もあります。

国民学校の教室を再現した部屋では、「修身」という授業の再現映像が流れます。空襲警報が鳴ったら、ジオラマの防空壕へ。B29爆撃機などの爆音、火災を表す赤い光、振動で空襲を疑似体験する仕掛けです。

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左/飯能市旧北川小学校の木造校舎の一部を復元。右/戦時中の住宅の横には、防空壕のジオラマがあり、中に入れる

小中学校への出前授業『ピースキャラバン』などを通じて、子どもたちへの平和教育にも力を入れているそうです。壁面には子どもたちのメッセージも展示されています。「戦争があった事実を忘れない」「人の痛みのわかる人になりたい」。

歴史の記録や具体的な「もの」と、目には見えない感覚や感情を伝える美術。
展望台から見える景色を見ながら、戦争を知らない世代に語り継ぐには、その両方が必要なのではないか、そんなことも思いました。

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高さ40mの展望台もある。武甲山などの山並み、晴れた日には東京スカイツリーも見える。写真提供/埼玉県平和資料館

住所/交通情報

・ 原爆の図 丸木美術館
埼玉県東松山市下唐子1401
東武東上線高坂駅から市内循環バス唐子コース、「浄空院入口」下車、徒歩4分(日曜運休)
東武東上線東松山駅から市内循環バス唐子コース、「丸木美術館北」下車、徒歩4分(日曜運休)
東武東上線森林公園駅からタクシー12分
開館時間/3月〜11月は9:00〜17:00 12月〜2月は9:00〜16:30

・ 東松山市立青鳥小学校
埼玉県東松山市石橋1150-1

埼玉県平和資料館(埼玉ピースミュージアム)
埼玉県東松山市岩殿241-113/東武東上線高坂駅から「鳩山ニュータウン」行き、または「にっさい花みずき」行き川越交通バス、「大東文化大」下車、徒歩5分。
10月25日〜12月11日、テーマ展「戦時下の子供たち」開催。
開館時間/9:00〜16:30(入館は16:00)

東松山は、「日本スリーデーマーチ」というウォーキング大会でも人気のまち。
健脚の方は1周16キロ徒歩の旅もいいかもしれません。

このテーマで、さらに旅を続けたい人へ

平和祈念展示資料館
東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル48階/都営大江戸線「都庁前駅」A6出口、徒歩1分
香月泰男の絵の背景となった「シベリア抑留」について、実物資料や証言ビデオなどを通して学べます。

展覧会情報
平塚市美術館では「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」を開催中です。(9月17日〜11月20日)