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2016年9月11日

第20回 東京-浅草・向島・両国へ 国芳を探す旅

驚きと笑いに満ちた浮世絵で、幕末の江戸っ子の度肝を抜いた絵師・歌川国芳(うたがわくによし)。

21世紀になって、その人気は高まる一方です。
骨の髄まで下町の江戸っ子、そんな国芳の横顔を東京の東に訪ねます。

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国芳の愛猫たちが眠る、両国・回向院(えこういん)。

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今回の旅では、時代小説家・河治和香さんに教えていただいた「国芳を感じる場所」を巡ってみました。
河治さんは、小説『国芳一門浮世絵草紙』のシリーズで、国芳の娘の絵師・登鯉(鳥、とり)の目から幕末の浮世を描いています。

お祭り騒ぎが大好きで、もらった画料はさっさと使って残さない――今に伝わる国芳像は、絵に描いたような江戸っ子。
ちなみに、河治さんも柴又生まれの江戸っ子です。

浅草寺

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浅草寺(せんそうじ)本堂。身体の悪いところを治してくれるといわれる常香炉の煙は今日も人でいっぱい。写真提供=浅草寺

歌舞伎役者の浮世絵で一世を風靡した超売れっ子絵師、初代・歌川豊国に15歳で入門したものの、鳴かず飛ばずの日々が続いた国芳。

30歳になった頃、江戸を熱狂させた『水滸伝(すいこでん)』のブームに乗り、『水滸伝』の豪傑たちをあふれんばかりの迫力で描いた武者絵の連作がヒット。ようやく人気絵師となりました。

最初に訪ねたのは、浅草・浅草寺。
いつも参拝客でごったがえす浅草寺界わい、すぐ隣の遊園地の乗り物から聞こえる悲鳴や演芸ホール前の芸人さんの呼び込みが、レトロな歓楽地の雰囲気も漂わせています。

国芳の時代、浅草寺本堂裏の奥山と呼ばれる場所では、さまざまな興行が行われていました。
カゴで編んだ巨大な人形や軽業師など、そこで繰り広げられる珍奇なアトラクションの数々が、国芳らしい奇抜な視点と大きなスケールで浮世絵に描かれました。

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(左)浅草寺の西、新奥山と呼ばれる広場から絵馬堂(中央)を眺める。(右)国芳が描いた大絵馬「一ツ家の老婆」(所蔵:浅草寺。) 写真2点とも提供=浅草寺

浅草寺に、ぜひ見てほしい国芳の傑作がある、と河治さん。

その作品とは、国芳が描いた大絵馬「一ツ家の老婆」。
絵馬堂に納められているとのこと(今年の公開は終了)。
浅草寺から少し西の浅茅が原に伝わる鬼女伝説の一場面が、スリリングに描かれています。
「この大絵馬はたいへんな評判になって、将軍も見物に来たと言われます。その話を聞いた国芳は、感激のあまり赤飯炊いて祝ったとか。頬づえをつく浅草寺の観音様が左側に描かれていますが、手と頬の間に隙間があるのは、絵馬は下から見るものなので自然に見えるようにという国芳の工夫という説があります」

駒形の“めし屋”

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(左)駒形橋周辺。朱塗りの駒形堂。浅草寺発祥の地はここ。(右)「駒形の朝霧」(所蔵:国立国会図書館)。画面の生き生きした動きは国芳ならでは。

浅草寺雷門を出て、スカイツリーを左手に眺めながらしばらく南に歩くと、駒形橋のたもとに駒形堂が見えてきます。国芳「駒形の朝霧」に描かれた界わいです。

駒形堂のシルエットが朝もやに浮かぶ早朝、三人の美人が浅草寺の観音様にお参りに向かい、吉原から朝帰りする駕籠(かご)の群れとすれ違います。何とも言えない臨場感です。
「明治の頃、国芳の弟子が森鷗外に問われて答えています。『国芳が生涯にて尤も著明なることは女郎買に耽りしことなり』」と河治さん。
「このすぐ先にある、吉原からの朝帰り客にも人気だった“めし屋”で一休みがおすすめです」

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駒形のどじょう料理の専門店。入れ込み座敷でどぜう鍋を囲む。写真提供=駒形どぜう

向かったのは、創業215年になるというどじょう料理の専門店。

どぜう鍋のダシが効いた割り下の香りが、ふんわりと店の前にも漂っています。
河治さんによると、朝帰りの客はこの香りで女郎のおしろいの匂いを消したとのこと。

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(左)4文字「どじょう」を避けた「どぜう」は縁起を担いで。(右)独自の下ごしらえがされたどじょう、たっぷりのネギとさんしょう、七色(七味。江戸では“なないろ”と呼んだ)でいただきます。

お店の一階は「入れ込み座敷」、つまり、お客さんどうしが席を隔てずに並んで座る、江戸時代そのままのスタイルです。

国芳は、絵師として名を成してからも、「倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)」と呼ばれた彫り物を入れた町火消をはじめ、誰とでも気さくにつきあったと言われます。
座敷で、大勢の客に混ざってどじょうをつつく国芳の姿が目に浮かぶようです。

三囲神社、一勇斎歌川先生墓表(歌川国芳顕彰碑) 

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向島、三囲(みめぐり)神社。江戸時代より三井家の崇敬を受けた神社。

国芳は、浮世絵師の中で最も多くの弟子を集めたと言われます。

70人を軽く超える弟子たちは、師匠の腕前だけでなく、人柄にも魅力を感じて、その門を叩いたのかもしれません。
国芳自身、下積みの時代に苦労したせいか、仕事は一門で分け合いました。

そんな、国芳親方の愛されっぷりを証明する記念碑があるそうです。
場所は、隅田川を渡った向島(むこうじま)にある三囲(みめぐり)神社。
吉原から眺めた向こう岸のシンボルとして、国芳をはじめ、数多くの浮世絵師が隅田川風景にこの神社の鳥居を描きました。
また、向島は国芳が絵師として油がのった30歳頃から50歳頃まで暮らした場所です。

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(左)三囲神社の名前の由来は、三度回った白キツネの伝説から。「コンコンさん」と呼ばれる狛犬ならぬ狛キツネ。(右)一勇斎歌川先生墓表(歌川国芳顕彰碑)。

浅草寺周辺のにぎわいとは打って変わって、ひっそりと静まった境内の奥に、その石碑はあります。国芳13回忌に弟子たちや親交があった人々によって建てられました。

一門の絵師の名前がずらりと並ぶ石碑。国芳の弟子の中には、賭博で牢に入り、ついに獄死した芳鶴のように、ひと癖ある顔ぶれも多かったようですが、絆の強さは人気絵師の中でダントツだったようです。

けんかっ早い「勇み肌」と呼ばれるような男たちとの交流で知られる国芳。でも、この石碑からは意外なことがわかる、と河治さん。
「碑文を書いているのは東條琴台です。当時の有名な町儒者で、国芳と大のなかよしだったようです。儒者と浮世絵師とは意外ですが、幅広い交友関係がうかがえて興味深いですね」

回向院、猫塚

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両国、回向院(えこういん)にて。(左)猫によく出会う境内。(右)力士を慰霊する「力塚」。新弟子が力を祈願する碑でもある。明治末に旧国技館が建つまで回向院は相撲場でもあった。

弟子たちをかわいがった国芳。

ところで、国芳がかわいがったといえば、“猫”を忘れるわけにはいきません。

河治さんいわく、数々の逸話が、国芳の並外れた猫好きを証明しているそうです。
「国芳の猫好きは有名でした。お気に入りの白の大猫が死んだときは、悲嘆のあまり数日ぼんやりして仕事が手につかなかったほど。死んじゃった猫たちの戒名を記した過去帳まであったといいます。猫が死ぬと弟子になきがらを持たせ回向院で手厚く葬ってもらいました」
この話にはオチがある。
「あるとき、弟子は両国橋から猫のなきがらを投げ捨て、回向料を着服して吉原に行ってしまいました。でも、師匠に猫の戒名を聞かれて答えられず発覚したそうです(笑)」
当時から動物供養で知られた回向院を、両国橋の近くに訪ねました。

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(左)江戸っ子の猫好きの証、猫塚。(右)義太夫協会が建てた三味観世音犬猫供養塔。

1657年、江戸の半分以上を焼いた明暦の大火があった年に、無縁仏を葬ったことが回向院創建の由来です。

境内には、江戸から最近建立のものまでさまざまな霊をまつった供養塔や慰霊碑が立ち並んでいます。軍用犬軍馬慰霊の碑、オットセイ供養塔……。動物供養の碑が目立ちます。
それらに交じり、小さな「猫塚」が奥のほうにひっそりと立っています。
世話になった魚屋に小判を運んで恩返しをした猫がまつられていると言われます。

猫塚ができたのは、1816年。国芳が20歳の頃です!
国芳みたいな猫愛の持ち主は、江戸の町に他にもいたようです。
猫をはじめ、生き物への共感に満ちた国芳のまなざしは、江戸っ子にも共有されていたからこそ、その浮世絵も人気を集めたのでしょう。

豪胆、そして繊細――どちらも国芳の魅力のように思えます。
国芳の人間臭い面影が、いまも密かに残る下町を訪ねてみませんか?

住所/交通

●浅草浅草寺 東京都台東区浅草2-3-1/東武スカイツリーライン浅草駅より徒歩5分、東京メトロ銀座線浅草駅より徒歩5分、つくばエクスプレス浅草駅より徒歩5分、都営地下鉄浅草線浅草駅より徒歩5分。
●駒形どぜう(どじょう鍋の店) 東京都台東区駒形1-7-12/東武スカイツリーライン浅草駅より徒歩10分、東京メトロ銀座線浅草駅より徒歩5分、都営地下鉄浅草線浅草駅より徒歩2分。
●三囲神社 東京都墨田区向島2-5-17/東武スカイツリーラインとうきょうスカイツリー駅より徒歩8分。
●回向院 東京都墨田区両国2-8-10/JR総武線両国駅より徒歩3分、地下鉄大江戸線両国駅より徒歩10分。