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2016年6月12日 / 旅の紹介 第10回 北海道・山形・三重へ 井浦新・円空への旅 

「井浦新 円空への旅」で北海道・山形・三重を旅した井浦新。

「円空との出会いが日本美術の扉を開くきっかけのひとつ」と言い、私的なものもあわせると円空を訪ねる旅はもう10年以上に及んでいます。 
今回の「出かけよう、日美旅」は番外編。
井浦新に、円空をめぐる旅についてインタビュー。彼の言葉、そして写真で、それぞれの場所の魅力をお届けします。

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山形・出羽三山の湯殿山にて。番組の撮影を始めようとした瞬間、アオダイショウに出会った。ヘビは自然の中で神のような存在だと思う。出羽三山の神様に「ようこそ!」と迎えられたような気分だった。

「足を運ぶ」ことが大事 

美術館や博物館など、館の中に保存・保管されて、照明なども整った、「見る」という行為に特化させた環境で美術を楽しむのももちろん好きですが、僕の中での一番は「その美が生まれた場所」に行き、それがどんな風土や土地の習慣、地域の人との触れ合いの中で(あるいはあえてそれらを閉ざした中で)生み出されたのかをじかに感じることです。
知識だけでは美術は楽しめない。やっぱり“体感”するもの。
だからこそ本来その美があるべき場所をできるだけ自分の足で訪れたいです。 

それと美の旅って、体力が必要だと思うんです。
作家は命を削ってその作品をつくるじゃないですか。
結果、受け取る側も作品を通じて、つくっている人の命を感じることになる。
念のこもった作品をきちんと受け取るためには、
体力や精神力を整えて臨まないといけない。
美術館でいい作品を見ると、ぐったりして起き上がれなくなってしまうことがよくあります。
外に出てそれがあるべき場所を訪ねるとなればなおさらです。
美術を鑑賞するアクティビティって実は体育会系だと思います。

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北海道・木古内町の、みそぎ祭り。今までに円空の足跡を日本全国にたどってきたが、円空仏を「使う」神事は初めて見た。地元の方が「こういう形でずっと受け継いできた。身近で、当たり前で、ありがたい」と語っていたのが印象的だった。

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山形・出羽三山の湯殿山。この雪壁の向こうに、円空も滝打したであろう滝がある。修験者の坂本大三郎さんに導かれ、円空同様に“沢駆け”をさせてもらった。心が澄んでゆく感覚にもなったが、心が澄みわたりながら“怖さ”、自然への畏怖を感じずにいられなかった。

「にっぽん」を感じる

北海道。山形。伊勢志摩。季節も土地柄も異なる3つの場所を訪ね、「にっぽん」を感じました。
1月の北海道、木古内町(きこないちょう)の神事「寒中みそぎ祭り」では、水の中の方が温かいという状況で雪の冷たさをしっかりと受け取りました。
山形ではかつて修験道の霊場として知られた出羽三山に登り、東北の気候や風土、そして山岳修行の苛酷な環境の中、円空がどのような想いで自然に身を置いたのかを肌で知りました。 
三重の伊勢志摩は、前の2つの場所とは全く異なるリズムを持つ太平洋側の、黒潮で温暖な気候。風俗も習慣も、人々の気質も山岳のそれとはまったく別物でした。
円空仏もそれぞれの地域性を受けてでしょうか、表情が全然違っていました。

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三重・志摩の崖。岩肌を眺めているうちに、どこか円空仏に似ていると感じた。円空は行く先々で巨石・奇岩と出会っている。自然の造形は、円空に何かを与えたのか。

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山形・月山の麓にある五色沼。水鏡。五色沼は不思議な沼で、こうして木々が映って緑色に見えることもあれば、青く見えるときも。それらが混じり合ったピーコック・グリーンにも。雨が降れば乳白色になりミントグリーンに。時間ごとに色を変える、素敵な沼。

「自然への畏怖」こそが円空旅

このコラムでは、あえて円空仏そのものは見せなくていいのかもしれない。
そんな風に思ったのは今回の円空の旅のあらゆる場所で感じたのが、圧倒的な自然の美しさや怖さだったからです。
神が宿っているのではないかと畏怖の念を覚えるほどの自然。
それは命を生かす恵みでもあるけれど、同時に“死”とも隣り合わせることも意味する。
命を与え、同時に奪うものでもある。
円空を辿る旅は、今の時代では感じることが少なくなっている「自然観」や「死生観」というものを知ることに他ならない。
円空の造形の向こうにあったのは圧倒的な大自然でした。

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北海道・木古内町の縄文遺跡で撮影した2枚。(左)は土偶、(右)は縄文人の足跡。縄文人の足跡を見たのは初めて。「これ何の板?」と思ってよく見るうちに足跡が残っているのだと分かり、ぞくぞくっとした。よく見る器や住居跡からは感じたことがない、「人間味」を感じた瞬間だった。

「縄文」ともつながっている

円空は仏教の僧なんだけど、どこかシャーマン的なんですよね。
仏教だけでは完結しない道教や自然信仰、アニミズムも円空の中には自然と芽生えていたのでは。
目に見えない存在、岩や木や山など、すべてのものに神が宿るという考え方につながっている気がする。
僕にとって「縄文」はとても大きな存在なんですけど、円空仏を見ていると、そこから遠い存在ではない気がしてきます。
僕の好きな土偶や、縄文の土器に感じるのと同じものを円空仏に感じるのです。

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三重・志摩。漁港で水揚げした魚を買いに来た地元の人たち(と猫)。みなさんに「円空仏、ご存じですか?」と即席インタビューすると「知らない」と言いながら「あそこの寺にあるかなぁ…」と真剣に考えてくれて感激。熊野から船でこの地に入ったという円空も、こんな風に地元の人と話したのだろう、と想像。

「ほほえみ」のわけ

なぜ円空仏はほほえみをたたえているのか。
それは、世の中の苦しみというものをすべて自分で背負おうという覚悟があるからではないか、と感じています。
命を奪われるほど厳しい自然の中に身を置き「笑うことが出来ないほど」の苦しい思いや苛酷な体験を円空自身がしているからこそ反対の表現ができるのでは。
苦しみを知らないと喜びを人に伝えることができないのではないだろうかと思うのです。

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山形・庄内町。見政寺(山形県でただひとつの円空仏がある)の近くに、たくさんの野の花が咲いていた。シロツメクサを、低い目線から撮影。

「野の花」のような存在

神仏は通常、下から見上げたときに見える表情を意識してつくられていますが、円空仏は正面から見たときに一番良い顔をしているんですよ。
逆に下から見上げると違和感がある。
同じ目線の高さで接したときに一番きれいに見える仏様。
それは同じ目線でめでると美しい野の花とよく似ている。
きれいに着飾っているわけではないけれど、僕らの生活に一番近いところで力強く咲いてくれている。
円空仏と人間との距離感は野の花の身近さによく似ていると思っています。

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五色沼。水鏡のように、風景を映して。

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情報

番組で井浦新が訪れたのは以下の場所です。
● 北海道/木古内町 「寒中みそぎ祭り」 毎年1月13・14・15日 佐女川神社、他 北海道上磯郡木古内町字木古内155
● 北海道/有珠山 「有珠善光寺」 北海道伊達市有珠町124
● 山形県/庄内地方 「見政寺」 山形県東田川郡庄内町狩川阿古屋33
● 三重県/伊勢志摩 「片田三蔵寺」 三重県志摩市志摩町片田 
● 三重県/伊勢志摩 「立神少林寺・薬師堂」 三重県志摩市阿児町立神2051