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2016年5月 1日 / 旅の紹介 第4回 奈良・飛鳥へ 安田靫彦を探す旅

「聖徳太子」や邪馬台国の女王「卑弥呼」、万葉の歌人「額田王(ぬかたのおおきみ)」など、歴史上の人物を描き続けた日本画家・安田靫彦。 

東京・日本橋に生まれ、神奈川・大磯町にアトリエを構え制作を行いましたが、自身の作風を確立するうえで強い影響を受けたのは、20代はじめに9か月間滞在した奈良だとされています。

というわけで今回の「出かけよう、日美旅」の舞台は奈良。
古人(いにしえびと)に想いを馳せながら、安田靫彦の絵画を読み解きます。

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奈良県高市郡明日香村にある「甘樫丘(あまかしのおか)」展望台からの眺め。安田靫彦もここに上ったという記録があります。「額田王」背景の参考にもしました。 

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奈良で安田靫彦と縁の深い場所といえば、金堂壁画の模写を行った法隆寺がすぐに思い浮かびますが、あえて今回は「飛鳥」にしてみました。
現在の「明日香村」を中心に、もう少し広くとらえて昔の飛鳥地方、すなわち「畝傍山(うねびやま)」「耳成山(みみなしやま)」「天香久山(あまのかぐやま)」――いわゆる「大和三山」で囲まれた、大和平野の南東部一帯をめぐります。

飛鳥寺 

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(左)飛鳥寺。この季節、寺の周りにはレンゲ草の花が咲き乱れていました。(右)堂内に鎮座するのは現存する日本最古の仏像、飛鳥大仏。

最初に向かったのは、日本最古の本格的な仏教寺院「飛鳥寺」。
安田靫彦が描いた歴史画との接点をいくつも見出すことができ、この場の空気を直に感じながら、ひとつひとつ読み解いていくのが楽しい場所です。

まず、直接関連するところでは『飛鳥大仏と止利仏師』という作品があります(1972年作)。止利仏師、またの名前を「鞍作止利(くらつくりのとり)」。飛鳥時代における仏像制作の名工として知られ、法隆寺金堂の釈迦三尊像もこの人の作と言われています。

完成当初、大き過ぎて本堂の扉から入らなかったが止利仏師の機転によって何とか安置することができた、という言い伝えが残っている飛鳥大仏。安田靫彦の作品はまさしくその安置の場面を描いています。高さ3メートルもある仏像なのですが、安田の絵を思い出しながら実際にそんな風にお堂に入れたのかな、と想像してしまいました。

6世紀末に飛鳥寺を建立したのは蘇我馬子。そのライバルが「物部守屋(もののべのもりや)」です。政争に負けて馬子に滅ぼされたもう一人の権力者です。
安田靫彦の初期作で人気の高い一枚『守屋大連』、そこに描かれている人物こそ物部守屋です。
その中で守屋は、迫り来る危機に緊迫した表情を浮かべています。
実は、安田靫彦が語ったところによればもともとこの一枚で完結ではなく、守屋と馬子、そして聖徳太子の絵を並べた三幅対の絵画として計画されていたとか。最終的に実現しませんでしたが、本当は守屋、馬子、聖徳太子3人の関係を描いた絵画だったということになります。

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(左)飛鳥寺の堂内にある聖徳太子立像。(右)蘇我馬子の息子・蘇我入鹿の首塚。

安田靫彦にとって、聖徳太子は好んで何度も描いているモチーフですが(代表作が1912年の『夢殿』)、この飛鳥寺はまた、聖徳太子との関わりも大変深い寺です。飛鳥大仏の脇には聖徳太子の木像が据えられています。
蘇我馬子は仏教推進派、物部守屋は排仏派。聖徳太子はもちろん日本に仏教を広めた人物ですが、仏教推進派の蘇我馬子がつくったこのお寺に朝鮮仏教の高僧が招かれ、太子もここで学んだとされています。

甘樫丘(あまかしのおか) 

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(左)甘樫丘。向こうの方に見える左の山が「耳成山」、右が「天香久山」。(右)建立当時の飛鳥寺のイラスト。安田靫彦の『飛鳥の春の額田王』の背景にこの伽藍が描かれています。 

飛鳥寺から徒歩15分ほどで行ける「甘樫丘」の展望台。ここからは、万葉集にも詠まれた「畝傍山」「耳成山」「天香久山」の大和三山が一望できます。

中大兄皇子が詠んだ万葉集の「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき」が有名。
「香具山は畝傍山のことが愛しくて、耳成山と争った。昔の(山の)神々においても恋の争いはそうなのだから、現代においても誰が妻にするか争うのは当然だろう」という意味だそうですが、中大兄皇子と弟の大海人皇子の間で争われた女性こそ、額田王(ぬかたのおおきみ)。
安田靫彦の作品『飛鳥の春の額田王』では大和三山が背景に描かれていて、中大兄皇子の歌になぞらえていると言えます。

安田靫彦は19歳で飛鳥を訪れた際、実際にこの丘に上ったと著書の中で語っています。「大和の山々は夕靄(ゆうもや)に包まれ、夕暗の裡に畝傍御陵を参拝した。」(安田靫彦著『画想』 「大和の憶い出」より)

『飛鳥の春の額田王』の背景には、大和三山と一緒に、飛鳥時代の寺がいくつも描かれています。そこには橘寺や山田寺(現在は跡地のみ)などと一緒に、先ほどの飛鳥寺も。今の飛鳥寺と姿が違う!? 
いえ、その当時は安田の絵に描かれている通りに、立派な五重塔もある大きなお寺だったのです(上右写真は飛鳥寺に掛けられている、建立当初の様子です)。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

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(左)畝傍山のふもとにある奈良県立橿原考古学研究所附属博物館。(右)4世紀の古墳から出土した「玉杖(ぎょくじょう)」。

畝傍山の麓にある「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」、こちらも歴史好きには大変魅力的な場所です。

主に奈良県下の遺跡から出土したさまざまな時代の石器・土器・鉄器・装具などが展示されています。
どの展示物からも歴史ロマンをかき立てられますが、その中に、茶臼山古墳から掘り出された玉杖(ぎょくじょう)があります。
記録によると、安田靫彦は1968年の『卑弥呼』を描くにあたり「奈良県桜井市の茶臼山古墳から出土した4世紀の玉杖を参考にした」とありますから、まさしくこれを参考にしたことになります。

そこで思い起こすのは、邪馬台国の畿内説と九州説。茶臼山古墳や箸墓古墳などがある奈良県桜井市は畿内説における有力候補地とされてきた場所でもあります。
安田は絵の中の卑弥呼にこれと同じ形をした玉杖を持たせています。 

ところが! この作品の背景の山は、どう見ても奈良の山という風情ではありません。
描かれているのは噴煙たなびく火山。それは阿蘇山であると言われています。奈良で見つかった玉杖を持ち、阿蘇山をバックに佇む卑弥呼。

安田靫彦の絵画では細かく史実を考証しつつ、同時に、画家自身の独創的な主題解釈を加えたとされています。
なぜ歴史画を描くのか。安田靫彦は質問に答えてこう述べています。

「現実には見られぬ美しい世界を組み立ててみたい、高い完成された美を求めて、今の吾々の解釈で表現してみたい」

そこに描かれた歴史ロマンは、「正しいか正しくないか」が大事ではなかった。
こうだったんだろうか、ああだったんだろうか。
安田靫彦の絵画を頭に携えながらの奈良の旅は、そんな、想像して楽しむことの楽しみを倍増させてくれる気がします。

みなさんも、イマジネーションを膨らませて、古を旅してみませんか?

追記:法隆寺

今回は飛鳥に旅しましたが、もちろん安田靫彦に大きな感銘を与えたと言われる法隆寺の金堂壁画(安田は晩年、その後焼失した金堂壁画の再現事業に中心的に関わっています)や、玉虫厨子や百済観音など観覧できる法隆寺大宝蔵殿を見て回るのもおすすめです。
また名作『夢殿』の舞台になった法隆寺夢殿では普段は非公開の秘仏、救世観音像(聖徳太子を表しているとされる)が5月18日まで公開中です!(毎年春秋に公開されます)

住所など案内

●飛鳥寺 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥682 最寄り駅/近鉄 橿原神宮前駅
●甘樫丘 奈良県高市郡明日香村大字豊浦 最寄り駅/近鉄 岡寺駅
●奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 奈良県橿原市畝傍町50-2 最寄り駅/近鉄 畝傍御陵前駅
●法隆寺 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 最寄り駅/JR法隆寺駅

※飛鳥寺や甘樫丘は駅からさらにバスに乗り継ぎます。今回の旅はできるならば車のほうがオススメです。