救命胴衣をつけなかった娘へ

救命胴衣をつけなかった娘へ
「船が傾き海水がどんどん入ってくる中、ニナ先生は生徒たちを落ち着かせ、救命胴衣の着用を手伝っていた」

夢だった日本語の教師になって3年あまり。

セウォル号の沈没事故に巻き込まれた娘は、事故から50日あまり後に船内から見つかったとき、救命胴衣をつけていませんでした。

「生徒の救助を優先したことを誇りに思いますが、自分の命も守ってほしかった」

事故から10年。最愛の娘を失った両親が、その思いを語りました。

(ソウル支局ディレクター 長野圭吾)

憧れの教師になったニナさん

韓国ソウル郊外・アンサン(安山)にあるタヌォン(檀園)高校2年1組の担任だったユ・ニナさん。第2外国語の日本語を受け持っていました。
ニナさんは中学生の時、日本に暮らす親戚の影響で日本語に関心を持ち勉強を始めました。

その後、地元の南部チンジュ(晋州)にある大学で日本語を専攻。交換留学生として九州大学でも1年間日本語を学びました。

子どもの頃から教師になるのが夢だったニナさん。

大学で教員資格を取得し、日本語を教えられる高校を探しました。地元では就職先が見つからず、2011年、故郷を離れタヌォン高校に赴任することになりました。

生徒に日本語に興味をもってもらえるよう、ニナさんは授業に工夫を凝らしました。浴衣姿で授業をしたり、食文化を伝えるため生徒に梅干しを食べさせたりもしました。
2年目に担任を任されてからは実家に戻るたびに「教師生活は充実している」と話していたと、ニナさんの母親、キム・ウンレさんは言います。
母親のキム・ウンレさん
「いざ教師になってみると、思ったよりやることが多いと話していました。でも面白いことも多く、楽しい授業になるよう夜遅くまで起きて準備をしていたそうです」

忘れられないあの日

2014年4月16日。農作業中だった父親のユ・ジンスさんは妻からの電話で事故を知りました。
「最初は、大きな船なので事故が起きたとしてもたいしたことないと思いました。あんな大事故になるとは想像もしていませんでした」
両親はすぐに沈没した海域に近いチンド(珍島)に向かいました。

当時NHKが撮影した映像には、港近くの体育館で無事を祈るウンレさんの姿が映っていました。
2人はそこに寝泊まりしながら、沈没した海域に毎日のように船で出向きました。しかし50日あまり後、ニナさんは船の中から変わり果てた姿で発見されました。

ニナさん 最後の姿を追って

セウォル号の中でニナさんはどんな状況だったのか。

私たちは船内に設置された64台の防犯カメラの映像をすべて確認しました。その中に、ニナさんの姿を見つけました。
事故前日(4月15日)の夜8時すぎ、デッキで生徒と談笑するニナさんです。

実はセウォル号は出港予定の午後6時半を過ぎても港に停泊を続けていました。
チェジュ島への航路が深い霧に包まれていたからです。港を出たのは、予定から2時間半遅れた夜9時でした。

出港後、カメラには船内を忙しく動き回るニナさんの姿が映っています。
生徒たちの様子を確認しながら、ケガをした生徒の手当てをする姿や船内での行事を楽しむ姿もありました。

また、クラスの生徒に向けてSNSでメッセージも送っていました。
ニナさんが送ったメッセージ
「陸地から離れるほどスマホのバッテリーがなくなるので、夜遅くには電源を切っておくこと」(15日21時8分)
「10時から花火が上がるようです~」(15日 21時54分)
「みんなご飯食べた?」(16日8時24分)
4月16日、朝8時すぎ。

生徒たちが食事を終えた後に、食堂にやってきたニナさんです。映像に残っていた最後の姿です。
この後、8時48分頃にセウォル号は大きく傾き始めます。

船内では、「救命胴衣を着て船内で待機しなさい」との指示が繰り返し放送されていました。

この時、ニナさんは生徒に最後のメッセージを送っています。
ニナさんが送ったメッセージ
「みんな落ち着いて」(16日 9時19分)

最後まで救助にあたったニナさん

沈没していく船内でニナさんのとった行動は、事故をめぐる一連の裁判で複数の生徒が証言した内容から明らかになっています。
「セウォル号の事故当時、5階の教師用船室にいたユ・ニナさんは、船が横に傾き海水が急激に流入する状況で4階と3階に降りて生徒たちを落ち着かせ、救命胴衣の着用を手伝うなど救助活動をしていたところ、脱出できず亡くなった」(裁判記録より抜粋・要約)
ニナさん自身は救命胴衣を着けない姿で発見されました。

船が傾き始めてから船首以外が水没するまでの時間は100分あまり。この間ニナさんは、両親にあててメッセージを送ることはありませんでした。
父親のジンスさん
「緊迫した状況の中で生徒を助けることを優先して、私たちに連絡する暇がなかったんだと思います。自分の仕事を果たそうと努力したことを誇りに思っています」
母親のウンレさん
「自分の命より大事なものがあるでしょうか。自分の命も守ってほしかったと思います。電話1本もできずあの世に行ってしまったことが、誇りには思っても母親としては悔しいです」

話せなかった10年

乗船していたタヌォン高校の生徒325人のうち250人が犠牲になりました。

事故の後、保護者たちは家族会を作り、進まない事故原因の究明を訴え続けるほか韓国政府の対応を批判し続けてきました。
しかしニナさんの両親はこうした活動にはあまり関わってきませんでした。

修学旅行という学校行事の場で多くの生徒たちの命を守れなかった事実が、常に重くのしかかっていたからです。
母親のウンレさん
「事故直後、生徒の親は助けられなかった学校への恨みが大きかったんです。娘のことで悲痛な思いの中、教師が厳しい目で見られることに言葉では表せないほど悲しい思いでした」
娘を亡くした悲しみと、多くの生徒の命を失った責任。

2人はその胸の内を他の人と分かち合うことができないまま、10年という時間を過ごしてきました。

ニナ先生が生徒たちに遺したもの

しかし最近、2人の気持ちを癒やすような出来事がありました。

タヌォン高校のそばには「記憶教室」というセウォル号の追悼施設があります。
犠牲となった2年生の教室と職員室を再現していて、机などの備品も当時のものが使用されています。

犠牲者にとって大切な場所を残すとともに、訪れた人に生徒1人1人の命に目を向けてもらうことが目的です。

ニナさんの机の上に置かれた1冊のノート。

最近そのノートに、ニナさんの教え子たちから思いがけないメッセージが寄せられるようになったのです。
「こんにちは、先生。先生の姿をよく思い出しています!特に先生の笑顔。もう先生よりも年をとりました」(2022年4月)
「先生のおかげでその後も日本語を勉強し、交換留学生にも選ばれ、今は日本語に関わる仕事に就きました。高校に赴任した時から私を支えて人生の案内人になってくださったニナ先生。本当にありがとうございました。」(2022年7月)
ニナさんが教壇に立ったのは、わずか3年あまりでした。

しかしその時の教えを胸に成長している人たちがいることに、ニナさんの両親は気づいたのです。
ジンスさん
「これいいね。”先生のように輝かしい大人になる”って書いてある」
ウンレさん
「娘は本当にいい教師だったんですね。10年もたったのに教え子が忘れずにメッセージを残してくれるなんてうれしいです」

最後の”教え子” いまも抱える思い

あの日セウォル号に乗船し生還した生徒もいます。

ニナさんの最後の教え子だったパク・ソヒさん(28)が書面での取材に応じてくれました。

ソヒさんはかつて「ニナ先生のような先生になりたい」とメッセージを寄せたことがありました。現在は結婚し、育児に専念しています。
Q:ニナさんはどのような先生でしたか?
ソヒさん
「先生のような教師になりたいと、思わせてくれた方でした。楽しくわかりやすく教えるためたくさん準備していました。また、メモすることが大事だと教えてくれました。その教えは今も守っています」
Q:セウォル号が沈没するまでの間、ニナさんの姿を見ましたか
ソヒさん
「船が傾いて沈没するまでの間に、私は部屋の友だちどうしで助け合って脱出しました。ニナ先生には会えませんでした」
そして、生還した1人として、罪悪感を背負って生きていると打ち明けてくれました。
ソヒさん
「先生と同年代になり、先生がこんなにも若かったことに気づき、胸が痛みます。私は生き残った罪悪感を今も持ち続けています。船が傾き、窓が床になり出入り口側が天井になった時、私は一番先に部屋から出ることができました。脱出する時、1人でも多くの友達の手を握っていたらという思いを消すことはできません」

悲しみの4月を乗り越えて

4月16日を前にした週末。

ニナさんの両親、ジンスさんとウンレさんの姿は韓国中部テジョン(大田)にある国立墓地にありました。
朝鮮戦争で亡くなった兵士や殉職した警察官・消防員などの墓が建てられている一画に、セウォル号で亡くなった10人の教師の墓があります。

修学旅行を引率していた教師14人のうち、生還したのはわずか3人。

亡くなった教師たちは沈没する船内で生徒たちを救助しようと懸命に活動していたことから、ほとんどの人が国立墓地に葬られているのです。

10年目の命日。ジンスさんとウンレさんはニナさんが好きだった料理やお菓子を供え、静かな時間を過ごしました。
梅の栽培で家族を支えてきたジンスさん。

春、梅の花が咲く頃になると、ニナさんを亡くした痛みを強く感じると言います。
ジンスさん
「4月は本当にいい季節です。いい季節ですが、私には大きな痛みがあったのであまり好きではありません。心は痛いですが早く回復しなければなりません。ずっと抱えているわけにはいかないので」

取材を終えて

10年前、私はテレビ画面を通してセウォル号の事故を見ていました。

たくさんの乗客を取り残したまま沈んでいく巨大な船体。目に焼き付いてその後も頭から離れることはありませんでした。

韓国に赴任後、「記憶教室」を訪ねた際、犠牲者の1人に日本語の先生がいたことを知りました。

そして今年1月に再訪した際、成長した生徒たちが、いまも先生にメッセージを寄せていることに気づきました。

いったいどんな先生だったのだろう。それが、ユ・ニナさんの遺族を訪ねるきっかけとなりました。
「地域の人にも自分がセウォル号の遺族だとは知らせていません」
初めて会った時、そう話してくれた父親のジンスさん。

これまで私は、ドキュメンタリー映画などを通して、セウォル号の遺族が真相究明を求めて一緒に戦ったり、悲しみを乗り越えようと互いに交流したりしている姿を見てきました。

一方で、10年間、孤独と戦い、家族だけで最愛の娘の死と向き合ってきた遺族がいることに気づかされました。
ジンスさん
「様々な事故が起きていますが、最もいい方法は事前に防ぐこと。そして起きた事故から学ぶことだと思います」
セウォル号の船体は引き揚げられ、安全教育などに活用していくため、永久保存されることが決まっています。

2度と同じような事故を繰り返さないでほしい。

かけがえのない家族を失った遺族たちの願いです。
4月16日 ニュースウオッチ9で放送
ソウル支局 チーフ・プロデューサー
長野 圭吾
1998年入局 21年7月にソウル支局に赴任
韓国の社会問題や映画などの文化を主に取材