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ドラマがわかるミニ解説 「徳政令」

鎌倉時代の永仁5年(1297)、永仁の徳政令というものが発布されました。「徳政」とは本来「あるべきものをあるべきところへ戻す」といった意味合いでした。永仁の徳政令は鎌倉幕府の御家人体制を維持するために発っせられ、御家人の所領の質入れや売買を禁じ、所領の処分権を抑えることに重点が置かれていたのです。
これが14世紀になると、「仁政」「善政」と表現される部分も見えるようになり、さらに中世後期になると意味合いが変わっていきます。戦国期には「徳政」の語義が土地などの「売買・貸借関係の破棄・軽減」に特化されるようになったのです。ひと言でいうと“債務の破棄”のことを意味するようになりました。
為政者が徳政を実施する場合、何らかの契機が必要となります。きっかけがなければ徳政令は発せられないのです。そのきっかけは、①災害 ②戦乱 ③代替わりなど、さまざまです。きっかけを受けて大名が徳政令を発するのですが、徳政が実施されるというのはよほどのことでした。

直虎が城主となったころは、いまだ遠江国内では戦闘が続き、井伊谷の土地は疲弊していました。そのため、瀬戸方久のような銭主(せんしゅ)が登場し、本百姓たちが放棄しそうな土地を集積し始めたのです。
その土地の百姓らは、債務者として方久などの銭主に渡っていた土地などを取り戻そうと交渉を続けていました。一方、銭主は井伊氏の庇護のもとにある本百姓だけでなく、井伊谷周辺の今川氏の給人(領主の命を受けて領地を支配している武士)にも債権者として金の貸し付けを行っていたのです。こうした状況は今川領の遠江だけでなく、家康の領国となった三河にも広がっていて、永禄8年前後から徳政要求運動が活発化していました。
銭主ら債権者は単なる「金貸し」ではなく、地域の人々のために金を貸し付け、さらに領主クラスの軍備を整えることもありました。直虎は、債務者側と債権者側の間で苦悩したことと思います。
解説:大石泰史(時代考証)