先日の1月17日で、阪神・淡路大震災から28年です。
プロ野球・元中日ドラゴンズで、昨シーズン限りで現役を引退した福留孝介さん。
当時、高校2年生だった福留さんは、震災から2か月後に行われたセンバツ高校野球に出場。ホームランを放ち、プロへの扉を開きました。
その後、日米で24年に渡る現役生活。そこには震災から持ち続けてきた、ある思いがありました。
(NHK名古屋 アナウンサー 別井敬之)

福留孝介さんが、インタビューのはじめにつぶやきました。
28年前のあの朝、大阪・PL学園の寮で感じた揺れを、いまも鮮明に覚えています。
「最初ドンという突き上げみたいなので「あれ?」と思って目が覚めて起きて、そのあとにすごく大きな横揺れがきて、ものすごく怖かったのを覚えています」
震災からわずか2か月後、センバツ高校野球が行われることになりました。
甲子園球場も被害を受け、被災地の生活再建もままならない中での開催に、当時キャプテンだった福留さんは、大会直前まで複雑な思いを抱えていました。

「プレーをするその姿で皆さんが少しでも笑顔になる、その言葉に関しては素直に自分の中に入ってきた言葉ではありましたけど、でも、それでも、被災された方々のことを考えると、素直に喜んで野球できるかな、と」
センバツ開催へ、準備は急ピッチで進みました。
災害復旧優先で、選手も電車での球場入り。車窓にはブルーシートに覆われたり、建物が崩れたりしたままの街並みが広がっていました。


生々しい傷痕がまだ残る中、なんとか開幕にこぎ着けることができました。
大会初日の第3試合。PL学園は銚子商と対戦。
福留さんはセンターバックスクリーンに3ランホームランを放ちますが、延長の末、敗れてしまいます。
ところが試合後には、勝ち負けとは違った感情が湧いてきました。
「悔しさはありました。それは皆さんに笑顔を届けられる、そういう場であればよかった、勝っていってどんどん笑顔が(届けたかった)と思いましたけど、僕らも逆にそこでプレーさせてもらったというので、チーム全体も笑顔になれたので」
たくさんの人の助けがあって、野球ができる。
このときの思いが、その後の福留さんの野球人生を支えたといいます。
「ひとりじゃできない、助けてもらっている、だからやっぱり感謝するっていう気持ち。 逆に言えばまわりの人たちを少しでも自分が助けられる、そういう選手でありたいというのは、やっぱり強く思いながら24年間やらせてもらいましたね」
2011年、東日本大震災。当時、大リーグ・シカゴカブスでプレーしていた福留さんは、アメリカから多額の寄付をします。今度は自分が助ける番と考えての行動でした。
2013年からは阪神タイガースでプレー。
本拠地・甲子園で守備に就くたびに、グラウンドに残る震災の傷痕を感じていました。

「震災前の、高校生の時にプレーしたのと比べると、少しだけ外野がね、外野の芝がうねるんです。ちょっとだけうねってるんですよ。(阪神)園芸さんに聞いたら「液状化の影響だ」と聞きました。そのときの影響ってすごく大きいなって、毎回プレーしながら思ったりすることもありました」
最後の2シーズンは中日ドラゴンズに復帰し、積極的に若手に自らの経験を伝えた福留さん。
現役生活24年。チームを助ける存在であり続けました。
震災から28年。現役を引退して迎えた1月17日。
福留さんは、はじめて、自分の子どもに当時のことを伝えたいと考えています。

「自然の大きな災害とかやっぱりそういうときになったときって、僕らって本当に「無力」だとすごく感じることもあるし、助け合うということというのも本当にすごく大切なことなんだというのはね、そういう経験をしたからこそ、より強く思うところではありますね」
取材を終えて
昨シーズン、福留選手の引退試合の実況を担当した私には「勝負強い」印象の強かった福留さん。その原点が「まわりを助けられる選手でありたい」という思いにあることを聞き、改めて背負っているものが違うと思い知らされた。現役選手の頃は、1月17日は自主トレ期間中だが、必ず黙とうをささげていたという。現役引退し家族と過ごす時間も増え「喜んでくれてるのか、うっとうしがられるのか、これからですね」と父親の顔ものぞかせた福留さん。
家族といっしょに迎える1月17日、どんな話をどんな風に伝えられたのか、またお話を聞いてみたい。
筆者

別井敬之 アナウンサー(NHK名古屋放送局)
震災当時は大学生。大阪の実家で、感じたことのない揺れに突き上げられて飛び起き、枕元のタンスを押さえながら揺れが収まるのを待った。人生初のボランティアを経験したのも震災のとき。初任地は神戸放送局で、当時は駅前のビルに間借りしていた仮の局舎のころ。新人からの5年間、たくさんの被災者のみなさんにお話を聞かせていただき震災10年までを過ごす。
「28年ですか。でもやっぱりそう簡単にね、人の記憶から消えるとか、ということではないですよね」