小学校の先生だった母は、テストで90点をとっても褒めてくれなかった。世間体を大事にしていたという母との向き合い方に、長年思い悩んできたタレントの青木さやかさん。転機は2019年、母が末期がんで入院したことでした。母と向き合いわだかまりを乗り越えた先に何を見いだしているのか。ふるさとの愛知で聞きました。
(聞き手・取材 越塚優アナウンサー)
褒めない母 気にしたものは世間体
青木さんのふるさとは、名古屋市の隣にある愛知県尾張旭市。住宅地が広がる中にある青木さんの母校の小学校でお話をうかがいました。
まず見せていただいたのは、青木さんが卒業した時の文集です。
青木
覚えている。
越塚
タイトルは「主役は私」
青木
怖いですね。おそろしいですよ、自分が。読みましょうか。
主役は私。青木さやか。10年後と30年後を書いたのですね。みんなでね。10年後、私は21歳、東大に入ろうかと思ったけれどもやめました。読みたくないですね。
越塚
東大に入ろうと思ったけれどもいきなりやめたのですね。
私は劇団「カッパこ」に入っています。毎日がとても忙しい。
30年後、私は41歳、すばらしくおばさん。劇って1人の人間がオオカミでもヘビでもなれるからとても楽しい。40年たっても60年たっても私は主役
恥ずかしいな...。
越塚
どうですか?
青木
やばいな。でも、この時から舞台に立つ、一人で立つということをどこかで希望していたのかと思います。

青木さんは、教師だった両親と弟の4人家族。母親は校長まで務め、地元では有名な存在でした。
越塚
周りからお母様への声って当時から聞かれたのですか?
青木
そうですね。私が小学校の時は外に出ると、青木先生のお嬢さんみたいな感じで言っていただけましたし、学校に行けば先生方も同僚だったり先輩だったりするので、よくうちの母の話題は出ましたね。
越塚
青木さんのお母様はどんな人だったんでしょうか?
青木
まさに団塊の世代で、両親。母はとてもよくできた、成績がよかったと聞いていますけど、いい高校を出て、いい大学を出て、首席で卒業して先生になって、校長先生になった。私にとっては結構厳しい母でしたけど自慢の母でしたし、母に褒めてもらいたいと思って子どものころとかは勉強とか頑張ってきたなと思ってますね。
越塚
どういうところが厳しかったのですか?
青木
褒めてもらった記憶はないですね。
越塚
ない?
青木
ないですね。
私は成績はそんなに悪い方ではなかったんですけど、90点のテストを持って帰って褒めてもらえるかなと思ったら、「なんであんたあと10点取れんの?」ということを言ったりですね。
ピアノを習っていて、発表会で『エリーゼのため』を弾けることになったんですけど、『エリーゼのために』といったら花形なので、褒めてもらえるかなと思ったら、「『エリーゼのために』は去年同級生のなになにちゃんが弾いとった、あんた遅いね」「もっと頑張らなあかんわ」と。
いとこやよくできる同級生の子と比べられて、叱咤(しった)激励されたっていう印象が強いですかね。
越塚
お母様はどういうことを考えて青木さんにそういうふうに接していたと思いますか?
青木
私が恥をかかないために、自分が恥をかかないために、ですかね。大切にしていたものは世間体です、と言うと、ちょっと聞こえが悪いですけれど、やはり、どう見られるかということは重要だったと思います。
うちの母がよく言っていたのは、「大学は出た方がいい」ですとか、「いい大学だとよりいい」「離婚したらかわいそうね」っていうことだとか。
友達には、ちょっと、本当の成績よりいい成績を言ってみるとか、家でけんかがあったとしても、そういうことは友達には言わないとかですね、きれいなところだけを伝えていたと思いますね。みんなから褒めてもらえるような青木家の長女でなくてはいけないし、模範となるような一家でなきゃといけないと思ってましたかね。それが家族、うちの家族だと思っていました。

しかし、青木さんが高校生のとき、母との関係に亀裂が入ります。両親が離婚したのです。
青木
離婚というのは見られ方が悪いのではないの。今まで教えてくれたこととは真逆ではないのかというのもありましたし、離婚の原因がどちらかだけとかはないのかもしれませんが、当時は母にあるのではないかと私が思い込んでしまったということもありますし、そのあたりの母というのは母親像という、私が思っていた母ではなくて、母っていうよりも教師であり、母というよりも女であるというように見えた。見えてきた。それが思春期の私にとっては母は母であって欲しかったので、同性の母親に対しても嫌悪感を持ってしゃべりたくなくなってしまった。当時は思ったのですね。
越塚
何がそんなに許せなかったのでしょうか?
青木
やっぱり母ではなくて教師である。母ではなくて女であるというところをとったのでは、というところでしょうか。
越塚
青木さんにとっては裏切られたという気持ちがあったのでしょうか?
青木
今までそれが最重要事項で生きていた私にとっては、では何を信じればというか、今まで良い子でいるとか良いおうちであることを目標でやってきたのに、ガラガラと何かが崩れ落ちたというのがありますかね。
お笑い芸人の道へ
「大学卒業後は公務員になってほしい」と母が希望したのに対して、青木さんが進んだ道は、公務員とは全く異なるお笑いの世界でした。
名古屋市にある、ライブなどができるスタジオ。青木さんはここで、先輩の舞台を見てお笑いを学んだと言います。ときには、自らここでネタを披露したこともありました。

青木
母が最も嫌な仕事だろうなというふうに思いましたから、「だから、なってやる」みたいな気持ちもあったと思う、だから成功してやる、そこで、という思いはあったと思いますけど。モチベーションのひとつではあったかな。
26歳で上京。芸人としてテレビでも活躍するようになりました。ネタの中には、反発していた母の姿がにじんでいたものもありました。
青木
うちの母は評価をする人でしたから、テレビを見ていてもこの歌手の人、きょうは85点ね、とか言うんですけど、私の授業参観に来ても点数をつけたりするような人でしたね。母が評価してきたように、私も、おもしろく評価をして大声を出すのは私のひとつの武器だったと思いますから、それは、母の癖をそのままネタにしていた、というところはあるかもしれませんね。
褒められても満たされない
さまざまな番組に出演するようになった青木さん。周りから期待される"毒舌芸人"を演じていたといいます。
青木
自分軸と他人軸があったら完全に他人軸で仕事をしていたと思いますが、呼んでいただいたらその人たちに褒められるように、という行動、言動だったと思いますけれども、母に褒めてもらいたかったというところが、次はマネージャーさんに褒めてもらいたかったとか、つきあっている人に褒めてもらいたいとか、スタッフさんに褒めてもらいたい、視聴者の人に褒めてもらいたいという。
越塚
褒めてくれるようになったわけですよね、いろいろな人が?その褒めてくれる言葉をどう受け止めていたのですか?
青木
自分が自分を褒めてあげられないから、人から褒められても信用ができないので、なかったです。だから嘘だとか、この人は私の何を知っているのだろうとか、そういう感覚になりましたね。世の中のみなさんがわたしのことを知ってくれたら自信が持てるかもしれないと思っていたのですけれども有名になった時にそれとこれとは関係ないのだと、有名になったからといって、自信を持てるわけではないのだと思ったのですね。
越塚
気付いた時はどうでした?
びっくりしました。関係ないのだと思って。
出産しても消えないわだかまり
芸人としてブレークした後も、母親との関係はわだかまりが残ったままでした。
そんな中、青木さんは、2010年に女の子を出産します。
自らも母となったことで、親子の関係が変わるのではと考えていました。

青木
自分が親になったときに、これは絶対に、親に感謝ができる瞬間だろうと思ってました。それは、大いに期待しました。
越塚
会うときにどんなことを考えていましたか?
青木
私が生まれたばかりの娘を母に抱いてもらって、見たことがないほど幸せそうな顔をしていました。そのときに私が最初に思ったことは、私の大事なものに触らないでほしいと思いました。というふうに思っちゃったんですよね。それはなんで思ったかというと、私はそんなふうに大事にしてもらった記憶がない、という娘に対する嫉妬なのかもしれませんし、いまさらそんな幸せそうな顔をするのを許さないという気持ちだったかもしれませんし、そのどちらもかもしれません。
越塚
どうでしたか?その気持ちに気づいたときには?
青木
うーん、なんか人間失格みたいな感じがしましたし、もしかしたら人生で一番幸せな時間かもしれない、このときに、わざわざ来てくれた自分の母親に対して、「何してんの」っていう感じだったので。あ、本当に自分はどこかが欠落しているのだと思いました。と同時に、どうしようもないんだという思いもありました。
2017年、青木さんにがんが見つかります。そのころは仕事もうまくいかず、精神的に追い詰められていきました。その2年後、母が末期がんだとわかります。そんなときに、友人から、あることばをかけられました。
青木
友人が「青木さん、これが最後のチャンスだよ。親と仲直りしておいで」と言ったんですね。そんなこと、頭ではじゅうじゅうわかっているけどできない、心が動かない、と言いました。そうしたら、友人は「親子関係がよくなると青木さん自身が楽になるからやってごらん」って。
私自身が八方塞がりだったんですね、当時。私が肺がんだったこと、いつまでこの仕事を続けられるのかわからないっていう中で、人間関係もそんなによくなかった。余裕がなかった、いっぱいいっぱいだった。何か変えたいと思っていたんですけど、答えが見つからなかった。やってみようかな、って。
母がたとえこのまま亡くなったとしても、この世からいなくなったとしても、母のことが好きじゃないという、このわだかまりみたいな感情は、どこまでも追ってくるだろうと思ったんですね。
越塚
だから一歩踏み出した?
青木
自分を変えたかった、っていうことですかね。母のためではない。自分のためです。
ホスピスにいる母と向き合って
2019年夏、青木さんは毎週、愛知に帰ることにしました。車で5時間かけて、母が入院しているホスピスに通いました。特別に許可をいただいて、その施設でお話をうかがいました。
病室に入る前には、声のトーンに気をつけて、にこやかな顔つきでいようと心がけたと言います。

青木さんが、母に会ってすぐ伝えたことばがあります。
青木
初日に、決意表明を、伝えようと思いまして、「私は今までいい子じゃなかった。ごめんなさい」ということをずっと東京からここ(愛知県)まで稽古をしてきて、それを言いました。ベッドに母が寝ていて、私がいすに座る前に言いました。そうしたら、母が「何言ってるの、さやかは誰よりも優しかったでしょう」って言ったんですね。全然優しくないんですけど、そう言ったんですよね。
越塚
あの「いい子でなくてごめんなさい」っていうことばをどういう気持ちで言ったんですか?
青木
自分が変われば相手が変わるっていうことしかもうないな、っていうところに来たからやってみたという感じですかね。チャレンジでした。
私が思うのは、自分を変えよう変えようと思ってきたんです。そこまでも。でもいつもちょっと変えようと思ったんです。30度変えようとか、60度変えようとか、でもそれじゃ変わらないんですよね。180度変えようと思いました。そうしたら、まあまあ変われました。
見いだしたのは風通しのいい関係
母親と正面から向き合った時間。ことばを交わすうちに、2人の間の空気が少しずつ変わっていきました。
青木
亡くなる前だからいい人になるかといったらそんなこともない。苦しいでしょうし、私が苦手だとする母の性格が、ものすごく大きく出てきたのをかいま見た部分もありますので。
こう2段上がっては1段下がりながら、ジグザグジグザグと上がっていって、絶対初日には戻らないぞ、あの決意表明した日には、という思いの中で頑張って進んだ、っていう感じですね。
越塚
そして関係も変わった?
青木
関係が変わったかどうかはわかりませんが、私自身の中での母への思いは、相当変わりました。
越塚
どう変わったのですか?
青木
まず、亡くなる前に、(母が)嫌いではなくなりました。すごく楽になりました。
越塚
それは距離が近づいたからでしょうか?
青木
距離なのかな。何かが埋まっていったような感じがします、自分の中に。
越塚
何が?
青木
なんでしょう。
あ、この人、私のことが大事なんだ、っていう、何か、大事にされたかったとか、大切にされたかったとか、愛されたかったっていう気持ちが、ちょっとずつ埋まっていったのかもしれないですね。

青木
母が亡くなったときに、ふと、弟と「うちの母親ってこういう人だったよね」と、何て言うのかな、冗談っぽく話せたときに、「あれ?記憶が重いものでなくなっているな」と思いました。意識があるうちに、親子っぽい時間が持てた、人として通じあう時間があった、っていうのは、きっと母もそう思っていると思いますから、もう、よかったなあって思っています。
越塚
お母様に嫌という感情がなくなって、青木さん自身にどんな変化がありましたか?
青木
自分を嫌いじゃなくなってきた、っていう方向に進めるようになりました。私は娘と関わっているときに母を自分の中に見つけることが多いんですけれども、この声のトーンは母に似ているなとか、言い方とかですね。母が嫌いだったときは自分の中に母を見つけると、それをなくしたくてしようがなかったですね。そんな自分を嫌いだった。でも母のことが嫌いでなくなってからは、自分の中に母を見つけると、懐かしささえ感じる。
越塚
懐かしさを感じるのですか?
青木
感じますね。
娘が「その言い方はおばあちゃんに似ているよ」と言って、「おばあちゃんよりひどくないでしょ」みたいな、すごく風通しのいい記憶になっている。それは生きやすさにつながっていると思います。
越塚
生きやすさ、どういうことですか?
青木
自分のことを嫌いにならなくて済む。たぶん、自分の親を嫌いになってるということは、自分の何かどこか根源みたいなところを嫌っているのかもしれないな、って思うんですね。今考えると。自分の親を嫌いじゃなくなるっていうことがこんなに楽なことなのか。
なぜか。
自分の中の元の部分を嫌いじゃなくなったからでしょうか。
いま、思う"母"
越塚
今お母様ってどういう存在なのですか?
青木
支えてくれているなという感じがしますし、生きているときよりも近くにいるなという感覚はよく感じます。今はすごく大きな存在だと、そこしかないのだと思うようになりました。間違いなく私の事を考えて親というのはいろいろな発言をすると思うのですが本当に私の事を考えて、それがあっているか間違っているかはともかくですよ、発言してくれる人はどれだけいるよ、世の中に?と思うと、親ぐらいしかいないかもしれないですよね。
越塚
厳しかったと思いますが、愛の裏返しだったのかもしれない?
青木
不器用だったと思いますね。相性という問題があったのかもしれませんし、母と私の間に通訳みたいな人がいればね、笑い話だったのかもしれません。やっぱりほかの人の母親の話を聞いていてうちの親ってこんななのだよねって聞くとかわいくない?って思ったりするのですよね、人の話だと。自分の事だと許せなくなりますけれどもとらえ方というか近くにいると、どうも見えてこないというか許せないところもあるなっていう気がしますけれどもね。
越塚
多くの家庭がそうかもしれません。
青木
私が思うのは逃げられないということだと思います。私の場合は何十年も苦手だった母と頑張って仲直りしなければならなかったのですが、やはり結果的には母と仲よくしたほうが得だと思っています。得だと思っています。だから逃げずにやるということを私はしています。
青木さんの娘は、今、中学生です。青木さんには、目指している母と娘の関係があります。
越塚
青木さんが親として心がけていることはどんなことですか?
青木
固定観念を持ってもらわないようにする、っていうことでしょうか。ああいう人もいる、こういう人もいる、いろいろな人がいてみんな全員違うんだということをたくさん知ってほしいと思います。
越塚
ご自身の経験からですか?
青木
そうですね。私は勉強をしなさいというふうに言われてきまして、娘には勉強なんかしなくていいとずっと言ってきたんですけど、あるとき娘が「私に、勉強するなって押しつけないで」と言ってきたんですね。難しいものだなって思いました。
同じことをやっているんですよね。私はそんなに変わらない、親に言われてきたことは私も持っている癖でもあるから、こうしないようにしようというのは難しいことだと思っているのですが、せめて娘と「ママのそういうところが嫌なんだけど」という、風通しのいい関係でいられたらいいなと思います。
越塚
青木さんは今年50歳。節目の年ですよね。今の目標を教えてください。
青木
自分が楽しく笑って生きるという事が難しいのですよ、私はですね。でもやっぱりそれに挑戦しているということですし、では自分がやりたいことは何なのかというと、よく分からないのですよ、それを考えてきた人生ではなかったので。でも本当に楽しいと思う事を、本当に会いたいと思う人に会う、ということに挑戦する。
越塚
楽しみですね?
青木
はい、私が楽しむという事が、人に迷惑をかけないで私が楽しむという事が、娘が楽しくなる事だと思っていますから。
- インタビュー特集「母と娘 葛藤の先に タレント・青木さやか」
筆者

越塚優 アナウンサー(NHK名古屋放送局)
2005年入局
鹿児島放送局などをへて2019年夏から名古屋放送局へ
スナック菓子をこよなく愛するが40歳を過ぎて落ちにくくなってきた皮下脂肪とどう向き合うか現在検討中
越塚
何を書いたか覚えています?