被爆から72年。長崎原爆に関するさまざまな知識・情報を夕方のニュース「イブニング長崎」で毎日、お伝えします。

長崎原爆ノート55「永井隆博士」永井隆博士は明治41年、島根県で生まれました。父の影響で医師を志し、旧制長崎医科大学、現在の長崎大学医学部に入学、卒業後は放射線物理療法の研究に取り組みました。満州事変や日中戦争に軍医などとして赴いたあと帰国し、長崎医科大学の助教授となりました。しかし、戦時下の劣悪な医療環境で結核のX線検診に従事するなどした影響で昭和20年6月、白血病と診断されました。その2か月後には長崎医科大学で被爆し、割れたガラスが刺さるなど、大けがをしました。しかし、その3日後の8月12日には永井博士は長崎市三ツ山町に救護班を設け、多くの被爆者の救護にあたったほか、原爆の被害報告書を執筆しました。昭和21年には教授に就任しましたが、病状が悪化し療養生活を送ることになりました。それでも「如己堂(にょこどう)」と呼ばれる小さな部屋で執筆活動を続け、「この子を残して」などの作品を通して平和を訴え続けました。そして、昭和26年5月1日長崎大学医学部附属病院で静かに息を引き取りました。43歳でした。生前、長崎市の名誉市民の称号を贈られていた永井博士は、市によって公葬が執り行われました。「如己堂」の隣には、その後、「永井隆記念館」が建てられ、平和を願った博士の精神を今も伝えています。
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