2017/08/17(Thu) 11:00戦後72年 ラジオ特集「信州平和インタビュー」

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終戦から72年目の夏です。

 

この夏、私は、打越裕樹アナウンサーと共に、「ラジオ特集 信州平和インタビュー」という番組を制作しています。信州ゆかりの2人の男性へのインタビューを通して、戦争と平和の意味を改めて考えようと企画しました。

 

お話を伺うのは、中国帰国者の孫やひ孫に対し歴史を教えてきた長野市立篠ノ井西中学校教諭の飯島春光さん。そして、ことし3月、国連本部の「核兵器禁止条約」の会議の壇上で演説をした日本原水爆被害者団体協議会、事務局次長の藤森俊希さんです。

 

私は飯島春光さん(64歳)にインタビューしました。

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昭和のはじめ、国は、「満州へ行けば豊かな暮らしが手に入る」と盛んに宣伝しました。結果、多くの日本人が旧満州、現在の中国東北部へ移住しました。その数は、およそ27万人にものぼります。しかし、終戦間際、旧ソビエト連邦が、国境を越えて満州へ侵攻。男性は「根こそぎ動員」で軍に召集され、終戦後、多くは捕虜となり、シベリアへ送られました。女性や子どもは行く当てもなく逃げ惑いました。中には、集団自決に追い込まれた人たちもいました。旧満州へ渡ったおよそ27万人の内、およそ8万人が亡くなりました。

 

この国策「満蒙開拓」で、長野県は、全国最多となる、およそ3万3千人の開拓団員を送り出しました。その中には、およそ7千人の15歳から19歳の青少年義勇軍も含まれていました。終戦直後の混乱の中、多くの子供たちが家族と離ればなれになり、中国に取り残されました。戦後、帰国した人たちは「中国帰国者」と呼ばれ、慣れない日本の文化や制度の中、生きてきました。

 

そして、戦後72年が経った今も、中国から長野県へ帰ってくる人々がいます。

 

長野市立篠ノ井西中学校の社会科教諭、飯島春光さんは、20年近く、中国帰国者の孫やひ孫を教えてきました。中国で生まれ、日本語が話せない状態で日本に来る子どもたちは、どのような環境で育ち、どんな困難を抱えてきたのか。彼らを迎え入れたクラスメイトたちはどのように接してきたのか。そして、社会科教師である飯島さんは、子どもたちにどのような言葉をかけ、どんな授業を展開してきたのか。

 

私自身、飯島さんへのインタビューを通し、「満蒙開拓」は決して遠い過去の話ではなく、信州で暮らす私たちの今につながっているのだと強く感じました。

 

また、日本原水爆被害者団体協議会事務局次長の藤森俊樹さんには、打越裕樹アナウンサーがインタビューしました。藤森さんは、ことし3月、国連本部で行われた核兵器禁止条約の会議で、被爆者の代表のひとりとして、およそ7分間の演説をしました。この演説をそのまま放送すると共に、藤森さんがどんな思いを持って演説したのか、今、振り返って何を思うのか、インタビューしています。

 

ラジオ特集「信州平和インタビュー」

ラジオ第1 8月22日(火)夜8:05~(長野県域放送)

 

是非、お聴き下さい。

投稿者:関根太朗 | 

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