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2012年10月5日(金)

木曽~知られざる山の記録~

樹齢300年を超えるヒノキの巨木が無数にそびえる「長野県木曽地域」。木曽には歴史の表舞台にほとんど登場してこなかった「山の民」の暮らしや文化の記憶が、今も色濃く残っている。
木の伐採をなりわいとしてきた「杣(そま)」と呼ばれる人たち。木を知り尽くした彼らは、斧を使った独特の伐採技術を数百年にわたって伝承してきた。20年に1度、伊勢神宮の遷宮の際に奉納されるご神木は彼らの守ってきた独特の方法で伐り出される。
木曽地域で1500年以上も前から飼われてきたという在来の馬「木曽馬」。農耕や木材運搬など、山での暮らしに欠かせない存在だったが、一時は絶滅の危機に瀕した。しかし、地元の人々の熱意によってその血統が守られ、数は少しずつ回復している。
木曽の山奥には、「木地師(きじし)」と呼ばれる木工職人たちの集落がある。「漂泊の民」だった彼らの祖先はおよそ1千年にわたって、日本中の山に自由に立ち入ることが許可されていたと伝わっている。明治時代に木曽に定住した後も、独自の暮らしを続けている。大昔から山の恵みを享受し、山の神々に感謝を捧げてきた木曽の人々。知られざる山と日本人との関わりをたどる物語。

  • オープニングの「馬の骨」
    まじないとして、馬の頭骨を建物の梁に置くなどする風習があり、家によっては今も残されている。当地の馬との関わりの深さとして紹介。
  • ヒノキのせりと木之霊神社の例祭
    上松町にある木曽官財市売協同組合で毎月行われている製材の市。組合員である製材業者が材木をセリ売りにかける。7月の市は特に規模が大きく、この回では同時に、敷地内にある木之霊神社の神事が行われ関係者が参席、木への感謝の祈りを捧げる。
    製材の市は、一般の人は参加できない。その場で取引されなかったものについて市の開催時以外に一般の人も組合で購入できるものもある。
    また製材ではなく原木については、原木の市の時に購入できる場合がある。
    【木曽官財市売協同組合】 電話:0264(52)2480
  • 木曽地方について
    「木曽」についての明確な定義はないが、番組では木曽の歴史も含めてテーマにしているため、現在の長野県木曽郡ではなく、かつての尾張藩の支配域である「旧長野県西筑摩郡」周辺地域ととらえた。旧西筑摩郡は、現在の
    ・長野県木曽郡(面積1546.26km2)※面積の93%が森林(木曽森林管理署HP)
    ・長野県塩尻市の旧楢川村(面積117.82km2)※面積の95.7%が森林(塩尻市HP)
    ・岐阜県中津川市の旧長野県神坂村(面積47.67km2)※市平均で面積の73%が森林
    ・岐阜県中津川市旧長野県山口村(面積24.67km2)※市平均で面積の73%が森林
    ・長野県松本市の旧奈川村(117.65km2) ※面積の96%が森林(「松本市の環境」松本市)
    以上の合計1853.51km2
    これらから、森林面積は9割以上、また香川県の面積(1876.55km2)とほぼ同じとした。
    <木曽地方への交通>
    ・JRは、塩尻市と名古屋市を結ぶ中央西線が、木曽川沿いを縦断している。 長野・名古屋間の特急があり、ほぼ1時間に1本運行されている。
    ・自動車の場合は、中央道の岐阜県中津川インター、または長野道の長野県塩尻インターから、JRと同じく木曽路を縦断する国道19号線に入るか、隣の谷筋にあたる中央道長野県伊那インターから国道361号線権兵衛トンネルを抜ける。
    御嶽山方面へは、国道19号線上松町から県道50号線で王滝村方面に入るか、19号線木曽町から国道361号線で開田方面(木曽馬の里方面)へ入る。
  • 木曽のヒノキの「伐り尽くし」について
    もともとヒノキの生育地だったが、江戸時代初期にほとんど伐り尽くされたとみられている。
    樹齢千年以上と思われるヒノキの伐根が上松町内に残されている。また江戸初期の文献に伐りすぎて「尽山」すなわち材にできる大きさのヒノキを伐り尽くしたという表記が残されている。
  • 「奥千本」について
    上松町にある国有林の一部の通称。林野庁中部森林管理局木曽森林管理署の管轄。
    今からおよそ350年前の1665年に尾張藩が作った留山制度で、奥千本を含む赤沢周辺の小川入南山が「御留山」となった。以来、明治時代の御料林、終戦直後の神宮備林、現在の赤沢ヒノキ等林木遺伝資源保存林として、一貫して人の手が入らない森となっている。
    一般立入禁止。公共団体などの主催の勉強会などで見学できる場合もある。撮影についてはもちろん木曽森林管理署の許可を得て入山している。
    すぐ近隣の赤沢自然休養林は遊歩道があり、ヒノキの森を味わうことができる。
    【上松町観光協会】 0264-52-4820
  • 中山道の浮世絵について
    『木曾街道 馬籠驛 峠より遠望之図』渓斎英泉作
    『岐阻街道 奈良井宿 名産店の図』渓斎英泉作
    『木曽海道六拾九次之内 贄川』歌川広重作
    『木曽海道六拾九次之内 須原』歌川広重作
    いずれも中津川市にある中山道広重美術館の所蔵。表記は全て原典によるもので、「きそ」の表記、字体も、広重作の「木曽海道」の海の字の使用も原典のまま。
  • 「木曽馬」について
    江戸時代の書物「和漢三才図会」に、木曽地方の馬が初めて朝廷に665年に献上とあり、木曽馬保存会ではその頃以前から木曽で馬が飼われたとしている。よって「1300年以上前から飼われているという」とした。日本馬事協会が現在認めている「日本在来馬」のうち本州で唯一の種。
    木曽の馬市は、明確に廃止された時期はなく、いまの家畜市場として牛の取引が続いている。
    JA木曽によれば、昭和40年代はじめには馬の取引はほぼなくなったとの事。
  • ヒノキ伐り出しの歴史について
    900年前から木曽ヒノキが切り出されているとしていることについては、平安時代、藤原道長が1020年から造営に着手した「法成寺無量寿院」に、木曽ヒノキが使われたとされていることによる。(東海農政局資料より)
  • 「木曽式伐木運材図絵」について
    「木曽式伐木運材図絵」に関して明治以前の数少ない資料としたのは、林業研究者・所三男氏(徳川林政史研究所元所長 故人)の研究見解や上松町誌の記載による。杣の人数の記録などは、庄屋の日記や尾張藩役人による「木曽巡行記」などがあるが、その暮らしぶりの資料はほとんどない。「木曽式伐木運材図会」は、暮らしぶりや仕事を絵で図解し解説したという意味で唯一の貴重な資料。幕末の飛騨地方の役人で国学者でもあった富田禮彦が作成したもので、長野市にある林野庁中部森林管理局が巻物の原本を所蔵。同所で1954年に図書として出版もしている。
  • 「三ッ紐伐り」について
    木の幹の三方から斧をいれ、幹中央部で切り込みの空洞を結合させる。切り込みから上部が、根株から3本の足で立ったような形になる。この足の部分を紐と表現したもの。倒す方向を制御する面で林業技術的に最も安全性の高い伐り方とされ、チェーンソーの伐木にも活かされているとされる。
  • 御嶽山について
    木曽地方西部、岐阜県境の火山で標高3067m。平安時代からの登山記録があり、古くから修験の場や霊山として登拝の対象とされてきた。白装束は信仰の団体「講」の人々。
    観光に関する問合せ先
    【王滝観光総合事務所】(御嶽山の麓、王滝村の観光協会にあたる組織)
    電話:0264(48)2257
  • 「駒ヶ嶽神社」について
    1532年に創建されたと伝わる。表記「嶽」は神社の正式名称で、上松町誌もこの表記。
    神楽は200年前から続くとも言い、かつて20軒以上の氏子が参加していたが、山の強力の仕事などが減り、今は13軒が参加。
  • 「木曽馬の里」について
    木曽馬の里は木曽町の財団法人で、木曽町西部、開田高原にある。木曽馬の保存・繁殖・提供と観光などでの活用、個人所有の木曽馬の放牧などを行う。見学や体験乗馬を行っている。
  • 木地師の里・南木曽町漆畑について
    番組でも触れたように、「御綸旨之写」の真偽は不明ではあるが、全国各地に当地教育委員会が史料にもとづいて認定している木地師の在住跡が多数あること、発祥の地とされる滋賀県東近江市内の神社による氏子調査が明治初期まで全国規模で行われており、その調査と実際の在住の史料が一致しているものが多いこと、また木地師に小椋と大蔵姓が極めて多いこと。これらから、近江発祥のろくろ木工技術集団が全国の山に入って材を調達し、木工製品を供給していたと考えられている。
    南木曽町漆畑は存続する木地師集落としては全国的にも大きなもので、町当局も含め木地師の里をアピールしている。
    行き方は、国道19号線南木曽町から国道254号線で飯田方面。もしくは中央道飯田山本ICから254号線を南木曽方面へ。
  • 個人の連絡先について
    番組に出演いただいた個人の方の連絡先については、お教えできません。
    どうしてもご連絡をとりたいという方は、「NHK新日本風土記」宛に、お手紙をお送りください。お送りいただいた手紙は、ご本人に必ずお送りいたします。
    ただし、返事があるかどうかはお約束できかねますので、あらかじめご了承ください。

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