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2023年2月6日
あの日放送は何を伝えたか 第10回-2
【1943年1月7日】“声の慰問袋”、「前線へ送る夕(ゆうべ)」放送開始A
80年前の「あの日」、当時の放送(ラジオ)はどんな放送を流していたのかをたどっていますが、今回は太平洋戦争が始まって2度目の新年を迎えた1943年1月7日に初めて放送された戦地と内地をつないだ番組、「前線に送る夕」に注目しています。

さてこの日から始まった「戦地に送る夕」は、「放送」1943年1月号の記事によると毎月7日(8月からは毎月9日に変更)と24日の月2回放送することになっており、うち月初めの1回は日比谷公会堂や劇場などに出征兵士の家族を招き、その会場から公開中継で行われました。
1月7日の第1回の放送には出征兵士の家族3000人が招待され、番組では満州の部隊からリクエストのあった管弦楽を、また南方の部隊からは三遊亭金馬の落語の希望が寄せられ、会場の家族と前線の兵士が同時に放送を聞いたということです。また会場からは出征兵士の娘が歌を披露し、作文を朗読した様子も写真に残っています。

戦地に送る手紙の朗読(「放送」1943年3月号)
この番組は聴取者から多くの好評を得たようです。「放送」1943年3月号の「聴取者の声」の投稿には「たとえ見ず知らずの少女であろうとも日本の懐かしい子供たちの声であるからは、国に残したわが子への切ない愛情を呼び起こしたであろう」「前線の喜びを喜びとする銃後の国民たちの感謝を限りなく明るく送りたいものである」といった言葉が並んでいます。「前線に送る夕」で放送したラジオ劇の台本の一部は当館3階のヒストリーゾーンで展示しています。


第1回目の1月7日はおもに音楽と落語が放送されましたが、その後の放送内容を見ると、このほかに講談やラジオ劇のほか「慰問文の朗読」など1時間の番組ながらバラエティに富んだ内容になっています。
ところでこの番組のオープニングとして毎回冒頭で演奏されたテーマ曲は、オランダの作曲家ジョニー・ハイケンスの手による「セレナーデ」でした。

ハイケンスの生家前 オランダ・フローニンゲン
ハイケンスはオランダ人ですがナチスの支持者でした。このため戦後連合軍からヒトラーに協力した作曲家だったことを問われ収監、そのまま獄中で亡くなりました。こうした経緯からハイケンスは音楽史において顧みられることはほとんどなく、ほぼすべての作品が消失してしまいました。ただこの曲だけは日本では「ハイケンスのセレナーデ」として広く知られています。
この曲がなぜ日本人に広くなじみがあるのかというと、この番組のテーマ曲だったからだけではありません。それはこの曲の一節が戦後国鉄の車内放送のチャイムとして利用されたからです。この「ハイケンスのセレナーデ」のチャイムは現在もJR北海道の特急電車など一部の列車で使用されています。

「ハイケンスのセレナーデ」のチャイムが
搭載されているJR北海道789系電車
なぜこの曲が車内放送に使われたのかは今となっては知る由もありませんが、番組の記憶とともにおそらくそのぐらい日本人の耳に残ったメロディーだったのではないでしょうか。戦争の記憶とともにある曲が戦後平和な時代になって列車の中で流れたとき、当時の人たちはどんな思いでこのメロディーを聞いていたのでしょうか。こんなところにも放送と鉄道の縁がありました。
ところでこの放送が始まった当時、多くの国民はこの放送を聞いて「国ために前線で戦う兵士」に対して敬意を払い、番組を通じて銃後の国民が前線の兵士を支えることで日本は戦争に勝てると思っていたことでしょう。ただその実態は「国民が思っていた戦争」ではなかったことをこの後の2年間で知ることになります。