あの日放送は何を伝えたか 第9回

2022年12月23日

【1942年12月7日】「開戦から1年~有線放送が始まった日②」

今回は太平洋戦争開戦からおよそ1年、1942年12月7日から戦時下に対応した新しい放送システムについてご紹介します。それは通常の電波による放送ではなく、市中電話回線を利用した有線放送です。当時の日本放送協会発行の「放送研究」1943年1月号には小さく「有線放送いよいよ開始」という記事が掲載されていました。

記事によるとこの有線放送は当時の東京市内のうち、銀座。四ツ谷、下谷の各電話局管内で各電話局から半径3km以内の電話加入者に対して行われることになっていたようです。
そもそもなぜこのタイミングで有線放送が始まったのかというと、この頃になると米軍機による空襲が始まっていたため、電波管制が強化されていたことがその理由です。敵機が本土に近づいた際に、日本からの放送波を傍受することで自機の現在地を正確に把握されることを防ぐためにとられた対策でした。電波管制自体は開戦直後から始まっていて、1941年12月8日には既に第2放送(当時は「都市放送」)が放送休止になりました。また電力線を使った有線放送はこれより少し前の9月から東京市内で始まっています。 有線放送を聞くために専用の受信機もあらたに開発されました。
ではこの列車の中はどうなっていたのでしょうか?今回はその内部がわかる貴重な画像からご覧ください。

オーダD50型受信機 1942年

これは当館で保存されている、有線放送開始に合わせて発売された中波放送と有線放送どちらも受信できる交流式のラジオです。

ラジオの背面をよく見ると「有無線切換」というつまみがついていることがわかります。 放送が無線(放送波)から有線(電話線)のみになった際に、ラジオ側で切り換えて放送を聞くようになっていました。

戦時設計のため、極力鉄や銅など金属類を節約しトランスも省略、スピーカーのフレームは強化段ボールでした。
さて悪化する戦況の下で有線放送のエリアは次々と拡大していきました。最初期の電話線による有線放送は周波数155キロサイクル(今のキロヘルツに同じ)を使って行われましたが、その後は電力線を利用した有線放送も始まります。中でも1942年3月に開局した沖縄放送局は、開局時から空中線を使った放送は行わず、電力線を介した有線放送だけが実施されていました。当時の写真には大きな電波塔が2本立っていますが、実際には電波を発射しない特異な放送局でした。

旧沖縄放送局局舎(1942年)
開局からわずか3年後には米軍の爆撃で破壊された

しかし当時の有線放送は中継局から数キロ程度の範囲までしか受信できなかったため、沖縄放送局の場合は、局舎の周辺部だけでした放送を聞くことはできなかったようです。米軍機が場所の特定をできないようにすることが目的だった有線放送ですが、戦後はその役割を終えいったんは姿を消します。その後は1950年代後半になって電話の普及と合わせて、有線放送電話という名で地域の情報ネットワークとして再び普及していきます。戦争の中で生まれた有線放送ですが、今ではネット動画サービスのように放送局からの大出力の電波にたよらない情報手段が、姿を変えた有線放送のひとつといえるのかもしれません。

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