あの日放送は何を伝えたか 第4回-2

2022年05月12日

【1942年4月18日「ドーリットル空襲」~戦時下の情報操作が始まる②~】
1942年4月18日(土)、日本の戦勝ムードに沸いていた国民に大きな衝撃を与えた「ドーリットル空襲」は放送を通じてどのように伝えられたのでしょうか。前回ご紹介したように大阪放送局(BK)の番組表には当日の夜10時の放送休止前に「本日の空襲について」という放送があったことが記載されていました。

この放送で使われた原稿そのものは特定できませんが、この放送とは別に、当時の新聞記事の中に午後1時57分東部軍司令部の発表として次のようにラジオで放送した、との記載がありました。
「午後零時三十分頃敵機数方向より京浜地方に来襲せるもわが空、地両防空部隊の反撃を受け逐次退散中なり、現在までに判明せる撃墜機数9機にしてわが方の損害は軽微なる模様なり。・・・」
ところがこの発表文の中に出てくる「撃墜機数9機」という内容は真実ではありませんでした。実際には米軍機は攻撃目標を爆撃後、中国やソ連の領土に向かって日本上空を離脱しており、日本側が撃墜した飛行機はありませんでした。そもそも90人近い犠牲者が出ているにもかかわらず「損害は軽微」となっているのは、いかに軍部がこの奇襲攻撃を矮小化して伝えようとしていたかがうかがえます。おそらくBKで放送された中部軍管区の発表も同様のものだったと考えられます。
その一方で、この日の空襲について、当時東京放送局が海外向けに発信していた国際放送「ラジオ・トウキョウ」の速報としていち早く伝えたという記録が残っています。それがこちらの雑誌です。

これは当時の日本放送協会が発行していた「放送」という月刊誌です。元々は「ラジオ講演・講座」というラジオテキストから始まった雑誌ですが、戦争の進展とともに「放送」と改題してからは放送関連の記事に加えて時局解説、戦時の心構えなどの論説が中心となっていました。特に太平洋戦争開戦直後は冒頭から東条英機首相による演説全文など国威発揚をあおる内容が掲載されるなど政府のプロパガンダ的な記事がほとんどです。この「放送」の1942年6月号の「放送戦時色」というコラムにドーリットル空襲に関する興味深い記事が載っています。
タイトルは「わが海外放送の勝利 東京空襲デマを完封」というものです。

記事の主旨は、「今回の空襲はアメリカが続けざまの敗戦に自国民の批判をかわすために、全く成果のなかった空襲を大成功のようにデマを流すための口実だったが、それをいち早く日本は事実(奇襲は失敗だった)を国際放送で伝えたため、アメリカの目論見をつぶしたのだ」という事のようです。

なかなか回りくどい感じですが、いずれにしても空襲は襲来機数に対してかなりの被害が出ており、ここでも日本国民に今回の空襲を矮小化して伝えようとしていたことがわかります。
ただ軍部はこのドーリットル空襲にかなり衝撃を受けたとされており、このあと戦局は大きな転換を迎えます。同時に放送も「真実」よりも一段と「演出効果」を重視するようになっていきます。(つづく)

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