戦後75年がたち、戦争を経験した世代が少なくなる中で、ことし初めて戦後生まれの男性が水戸市の語り部となりました。

なぜ語り部となったのか。男性の思いを取材しました。

【戦争は“ひと事”ではない】

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水戸市で初めての戦後生まれの語り部となった、ひたちなか市に住む須藤健治さん(65)です。直接戦争を知らない世代ですが、幼いころに母から戦争の体験を繰り返し聞かされ、もしかしたら自分はここにいなかったかもしれないという恐怖を感じたといいます。

「飛行機が墜落してエンジンが飛び込んできたという話、母自身が駅前でアメリカの戦闘機の機銃掃射であやうく命を落とすところだったという話。両親がもし戦争で命を落としていたら、自分は存在しないんだなと思うと怖くなりました」(須藤健治さん)

中学校の社会の教員だった須藤さん。授業だけでは子どもたちに戦争は「ひと事」ではないのだと伝え切れないもどかしさを感じ、20年余り前、地域の戦争について調べ始めました。

「戦後生まれの自分でもできることはあるんじゃないかと。なんとかこの戦争を繰り返さないように、事実を調べ、そしてそれを埋もれさせないように残し、伝えていかなくちゃならないという、ちょっと大げさに言うと使命感のようなものを感じていました」(須藤健治さん)

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母から戦闘機の墜落について聞いていた須藤さんは、昭和20年2月に水戸市上空での空中戦で日米双方の戦闘機が墜落してパイロットが死亡していたことを知り、当時の状況を詳しく調べることにしました。

分かっていたのは墜落したおおよその場所と、日本側のパイロットの名字のみ。須藤さんは現地に何度も足を運び、当時を知る人を探し回りました。

【立ちはだかる“時間の壁”】

しかし須藤さんには土日も部活の顧問などの仕事があり、思うように調査の時間を作ることができませんでした。
そんな須藤さんの前に立ちはだかったのは、「時間の壁」でした。

このときの空中戦で別の戦闘機に乗っていて生き延びた、横山金次さん。須藤さんが連絡したときには、すでに亡くなってから3年が経っていました。

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横山さんは戦後、当時のことを家族に語ることはありませんでしたが、手書きで詳細な記録を残していました。

「部隊構成、機材、人材、訓練の様子も含めて克明に写真や資料で残されていました。意外だったのは息子さんには一切そういう話はしていなかったらしいです。資料があること自体、中身までは息子さんは見ていなかったということで、訪問したときに仏壇の下から取り出して、段ボール箱に入っているものを初めて見せていただいた。

もうちょっと早く自分が行動を起こしていれば、体験された方の生身の情報が聞けたかなと、自分の行動が遅かったことをすごく悔いました」(須藤健治さん)

【約束のその日に】

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もう1人、須藤さんが忘れられないという人がいます。水戸市の語り部だった佐藤隆男さんです。


学徒動員で戦闘機の整備をしていたという佐藤さんは、須藤さんが空中戦について調べていると知り、資料を送ってくれました。

資料には、佐藤さんからの手紙が添えられていました。
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「本年87歳、人生の残りを考え 私たちの苦い戦争体験を語り継いでいただける方を心待ちにしている毎日でした」(佐藤さんの手紙より)

資料をもらった須藤さんは、3週間後に佐藤さんの自宅を訪ねる約束をしました。

しかし佐藤さんは突然体調を崩し、約束のその日に亡くなりました。

「すぐ翌日にでも行けばよかったのですが、つい仕事など理由を付けて。本当に、驚きと、胸が痛むというか、無念だったろうなと。これは本気になって調査をするしかないという決意を固くしました。

ほかにも、情報をくださった方にあいさつに行った時にはもう亡くなっていたり、資料ができあがって届けに行った時には亡くなっていたということもありました」(須藤健治さん)

【時間との闘い あきらめない】

当時を知る人が次第に少なくなっていく中、調査を続けて20年あまり。須藤さんはようやく日米のパイロットを特定し、双方の遺族にも面会することができました。調査の結果は風化させてはならないと、日本語版と英語版の冊子にまとめました。

調査を通じて、戦争を伝えなければという強い思いを受け取った須藤さん。亡くなった人たちの思いを背負い、地域の戦争の歴史を掘り起こして、語り部として伝えていく決意を固めています。

「もう75年も過ぎてしまいましたけど、でもやっぱりここであきらめないで、時間との勝負ですが当時を知る方から少しでも聞き取りをして、残していければと思います」(須藤健治さん)

取材:飯田 暁子記者

 

 

 

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