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よみがえった戦跡 「鹿島海軍航空隊跡」美浦村

執筆者のアイコン画像金澤嘉昭(カメラマン)
2023年09月26日 (火)

茨城県美浦村にある鹿嶋海軍航空隊跡。

ことし7月、四半世紀にわたり放置され、廃虚となっていた戦跡が

一般に公開されました。

一時は取り壊す方針でしたが一転、保存につながりました。

なぜ残すことができたのか、戦跡の新たな可能性について取材しました。

 

 

時間が止まったままの鹿島海軍航空隊跡

20230925k_1.jpg鉄筋コンクリート造りの本庁舎。(映像提供:美浦村役場)

20230925k_2.jpg高さ35メートルの煙突が残るボイラー棟など。

霞ヶ浦の湖畔に手つかずのままに残された戦時中の施設、鹿島海軍航空隊の跡地です。

これほどの規模で当時のまま残る戦争史跡は全国でも珍しく、貴重な戦跡です。

 

7月に一般公開

20230925k_3.jpg戦跡は、7月下旬、「大山湖畔公園」として一般に公開されました。公開は週末だけですが、多いときには1日に200人ほどが訪れます。 

水戸市から来た親子
海軍の人たちがどういう生活をしていたのか、より目にしてイメージが湧きました。この子が大きくなったらまた見せに来たいです。

 

鹿島海軍航空隊とは

20230925k_4.jpg(画像提供:プロジェクト茨城) 

「鹿島海軍航空隊」は霞ヶ浦で水上機の操縦訓練を行う旧海軍の航空隊で、1938年に設立されました。
太平洋戦争の末期、ここで訓練を受けた隊員の中には特攻作戦に参加する人もいました。

20230925k_5.jpg戦後、一部は病院として活用されていましたが、1997年に閉院すると放置され、廃虚となりました。

一時は心霊スポットとも呼ばれ、荒れ放題でした。

管理する村では、取り壊してスポーツ施設にする方針でした。

 

なぜ?取り壊しが一転、保存へ

この施設を後世に残したいと考えた人がいます。

金澤大介さん(52歳)です。

20230925k_6.jpg

金澤大介さん
ここは本当に時間が止まってしまったみたいで、その時代の景色を今でも感じることができます。こういったものを新しく作ることは出来ないのでもったいないと思いました。

 

戦跡保存につながった理由

実は金澤さん、笠間市にある戦跡「筑波海軍航空隊跡」にある記念館の館長を務めています。

金澤さんには、筑波海軍航空隊跡を取り壊しの危機から救い、一般公開につなげた実績がありました。

なぜ一般公開につなげることができたのか。

そのきっかけとなったのが、金澤さんが以前から県からの依頼で行っていた、映画やドラマのロケ地を誘致することでした。

その結果、テレビやインターネットなどで多くの人に戦跡が知られるようになり、保存へとつながったのです。

金澤さんは、鹿島海軍航空隊跡も、ロケ地として使われれば、多くの人に知られ、保存につながるはずだと感じていました。

20230925k_7.jpg金澤さんは、これまでの経験を生かし、さまざまな映画やドラマのロケを誘致。

20230925k_8.jpg(画像提供:いばらきフィルムコミッション)

20230925k_9.jpg(画像提供:いばらきフィルムコミッション) 

戦跡が有名な映画やドラマのロケ地となったことで、多くの若い人からの関心が寄せられ、見学を希望する声も届くようになりました。 

そうしたなか、戦跡を管理していた村にも保存を求める声が寄せられるようになります。

村は、金澤さんの実績を認め、施設の管理を任せることにしました。 

金澤さんは一般公開にあたり、保存を望む人たちにインターネットを通して整備費用の協力を求めたところ、およそ400人から1000万円近くの資金が集まりました。

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金澤大介さん
戦跡の保存って誰かひとりでできるようなものじゃないと思います。本当にありがたいです。

 

戦跡に関心を持ってほしい ~さまざまな工夫~

20230925k_11.jpg一般公開にあたり、金澤さんは見せ方にさまざまな工夫をしました。

そのひとつが地図を頼りに謎解きのポイントを探してクイズに答える“体験型”の見学です。子どもたちにも興味を持ってもらうのが目的です。

20230925k_12.jpgさらに展示コーナーも作りました。

隊の歴史やかつて所属していた隊員の経歴を調べ、紹介。

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20230925k_14.jpg実際に隊員が使っていた帽子や時計なども集めて、展示しています。

この地で何が行われていたのか直接、感じてもらうためです。

 

かつて所属した隊員の人生とは

展示されている遺品の持ち主、群馬県出身の加藤亀雄さん。

去年、95歳で亡くなりました。 

20230925k_15.jpg当時は17歳。操縦師の訓練を受け、特攻作戦で沖縄に出撃しましたが、悪天候で引き返し、生き残りました。 

20230925k_16.jpg遺品を寄贈した娘の市川小百合さん(68)。

この日、初めて現地を訪れました。

20230925k_17.jpg展示室で父親の足跡を紹介したパネルに見入った市川さん。

父の亀雄さんは、晩年になるまで戦争の話は一切しなかったため、特攻作戦に参加したことなど、ずっと知らなかったそうです。

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市川小百合さん
隣にいたいつも一緒に話をしていた人が、朝、もういないっていうのが、すごく悲しかったみたいです。いつでも命を捨てられるって覚悟していたにも関わらず、残ってしまったっていうところにじくじたる思いがあったみたいです。そういう話をするとやっぱり涙をうっすら浮かべていましたね。すごく無念な気持ちだったのだろうなと思います。
父も本望だと思いますね。日本を守るためにこれだけ訓練して頑張ったのだということが、少しでも分かってもらえるといいですね。こんなこと起こさないで欲しいって思います。

 

後世に語り継ぐために

 

遺族の話を聞くうちに、そこで生きた人たちを忘れないで欲しいという思いを受け取ったという金澤さん。

その思いを後世に伝えるため、戦跡を残し、さまざまな工夫をして、見てもらう努力を続けることが大切だと感じています。

20230925k_19.jpg金澤大介さん
戦争に詳しくない、特に若い世代の知識がないような世代の方々にとって、そこが何だったのだろうと関心を持ってもらうきっかけはやっぱり大事です。

 

取材して感じた、戦跡の新たな可能性と伝承のあり方

今回、映画やドラマのロケ地誘致という、戦跡の新たな活用が保存につながりました。

今後、公開される映画によって、この地がさらに注目されることが期待されています。

きっかけはさまざまでも、興味を持った人たちが実際にこの地を訪れれば、何か感じるものがあると思います。

多くの人に関心を持ち続けてもらうことが戦争の事実を忘れないことにつながる。
そのことをあらためて感じた取材でした。

 

 

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