『私が語り継がないと』ふるさと思う福島弁の語り部
清水嘉寛(記者)
2023年04月03日 (月)

「私が語り継がないと、ふるさとがなくなっちゃう気がして」
東京電力・福島第一原子力発電所の事故で福島県富岡町から茨城県に避難してきた女性の言葉です。
女性が胸に抱えるのは、地域の歴史や民話を伝える資料。帰還困難区域だった自宅にようやく一時帰宅がかなった際に持ち出しました。
なぜ民話に強い思いを注ぐのか。女性に思いを聞きました。
避難者から避難者に贈る 福島の芸能
3月4日、福島の伝統芸能を披露する催しが水戸市で開かれました。震災で福島からの避難を余儀なくされた人たちが、同じ立場の人たちを元気づけようと企画したものです。
ふるさとの相馬弁で民話を披露したのは、富岡町から茨城町に避難してきた吉田孝子さん(66)です。
福島で暮らしていたころから、子どもたちに民話を伝える語り部として活動していました。
「あの暮らしに帰りたい」
吉田さんは、福島第一原発がある富岡町に、夫の輝男さんと娘2人との家族4人で暮らしていました。
豊かな自然の中、米作りと畜産で生計を立ててきましたが、その暮らしは突然、失われました。
帰りたいというのは、12年前のあの暮らしに帰りたいという意味です。でも、それがかなわないから、新しいところで生きていこうと決めました
茨城町では、夫婦でくりの栽培をしている吉田さん。茨城で暮らし始めて8年になりましたが、語り部として伝えてきた福島の民話は、いまも心に刻まれているといいます。
この話はあのおばあちゃんに聞いた話だとか、あの山の話だとか。福島の話や言葉を聞けば昔のことを思い出せる
民話への思い
吉田さんが民話に触れたきっかけは、20年ほど前のことでした。小学生だった次女に本を読み聞かせようと図書館に足を運ぶと、語り部が子どもたちに囲まれ、福島の民話を披露していました。
「私もやってみたくなって」という吉田さん。図書館の史料を読みあさったり、語り部を訪ねては内容を伝え聞いたりして、民話の台本や資料を集めていきました。
そんななか、ふるさとを襲った東日本大震災。「2、3日で帰れるだろう」と思っていたという吉田さんは、最低限の衣類と食べ物だけを持って家を出ました。
ようやく一時帰宅がかなったのは、震災から半年後。吉田さんは家に着くやいなや、民話の資料をしまっていた引き出しを確認しました。
資料にはネズミにかじられたような跡があり、ボロボロになっていました。「もうだめかな。」半ばあきらめながらページをめくっていくと、民話のところは、破れずに残っていました。タオルで汚れを丁寧にぬぐい、茨城町の自宅に持ち帰りました。
宝物を見つけたような気持ち。この史料には台本とか、民話を語る上で大切な歴史の背景とか、福島のなまりの説明も詳しく載っているんです。『しっかり残ってくれてありがとう』と言いたい
ふるさとの なまりなつかし
自分と同じように福島を離れた人たちに、ふるさとに思いをはせてほしい。茨城の人たちにも、福島を知ってほしい。3月4日。吉田さんは震災で福島を離れて初めて、語り部として舞台に立ちました。
福島の方言、相馬弁で、町にあった城が豪族に攻め込まれたという富岡町に伝わる鎌倉時代の民話を語りました。
笑みをこぼしながら聞いていたのは、福島県南相馬市から水戸市に避難してきたという女性です。女性は催しが終わると、吉田さんのもとに歩み寄りました。
民話の中身も懐かしくて、町の景色がよみがえってくる感じがして、うれしい気持ちになりました。避難してしばらくは、方言を話すこともできなくて
避難者だって知られるのが怖かったもんね。分かります
民話、すごくよかったなって。心にしみるっていうかね
ふるさとの歴史や文化を、ふるさとのことばで語り継いでいかなければならない。吉田さんの思いが、決意に変わりました。
方言や文化は生き物みたいなもの。誰かが語り継がないといつか消えてなくなってしまう。たくさんの人に被災地のことを知ってもらいたい。被災したところにもこんな文化が残っていたんだっていうことを知ってもらいたいです
東日本大震災から12年。茨城県には今も、福島県などから避難してきた2000人余りの人たちが暮らしています。その人たちの心にある“ふるさと”が消えないように、さらには茨城の民話も知りたいと、吉田さんは語り部として活動を続けていきます。