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名著、げすとこらむ。

西研
(にし・けん)
東京医科大学哲学教室教授

プロフィール

1957年鹿児島県生まれ。哲学者。東京大学教養学部卒業後、同大学院総合文化研究科修士課程修了。京都精華大学助教授、和光大学教授などを経て現職。おもな著書に『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)、『哲学は対話する』(筑摩選書)、『別冊NHK100分de名著 西研 特別授業『ソクラテスの弁明』』(NHK出版)、『集中講義 これが哲学!』(河出文庫)、『よみがえれ、哲学』(共著、NHKブックス)、『超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』』(共著、講談社現代新書)など多数。

◯『純粋理性批判』 ゲスト講師 西研
はじめに 哲学の歴史を書き換えた一冊

今回は、十八世紀に活躍したドイツの哲学者、イマヌエル・カント(一七二四~一八〇四)の『純粋理性批判』を読み解いていきます。「近代哲学の最高峰」とも称されるこの本は、哲学史上もっとも難解な著作のひとつです。しかも、かなりの大部です。平凡社ライブラリー版では全三巻、各巻を薄くして詳しい解説をつけた光文社古典新訳文庫版では全七巻のボリュームがあります。

そんな難著をあえて取り上げることにしたのは、古今数多の哲学書のなかでも五指に入る重要な著作だからです。この本でカントは、人間が備える「理性」の限界を明らかにし、近代哲学が直面していた難問に体系的な答えを示しました。これは、哲学の根本を揺るがすほどの、決定的なインパクトを与えるものだったのです。

哲学の起源は古代ギリシアにまで遡ります。哲学が長い間メインテーマとして探究してきたのは、「究極の真理」です。世界の根源にあるものは何か、世界の始まりはあるのか、世界に果てはあるのか、魂は不死なのか、神は存在するのか――これらの問いをめぐって、哲学者たちはさまざまに答えてきました。

たとえば、「世界には始まりがあって、そこから現在まで時の流れが続いてきたのだ」という説もあれば、「そもそも世界の始まりなどはない。過去に遡れば果てしなく時は広がっている」という説もあります。死後に魂は存続するのか、神はほんとうに存在しているのか、についても対立する答えが出されてきました。

しかしカントは、宇宙の果てや神の存在などの究極真理の問いは、どんなに考えても答えは出ないといいます。そして、これらの問いについて答えが出せない理由を、『純粋理性批判』で徹底的に論じました。この主張がいかに衝撃的だったかは、カント以後、神の存在証明を試みる哲学者がほとんどいなくなったことからも明らかです。

ただしカントは、旧来の哲学の営みを一刀両断にしただけではありません。それと同時に、人間の理性で答えを出しうる領域があることも明らかにしました。「そもそも人間は何を、どのように認識しているのか。そのとき理性はどのように働くのか」をカントは解明しようとします。こういう問い方を「認識論」といいますが、カントは人間の認識の基本構造を明確にすることによって、きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲はどこまでで、ここからはそれを逸脱するので共有できる答えは出ない、ということを示そうとしました。こうしてカントは旧来の哲学を破壊しただけではなく、まったく新しい発想――「合理的な答えの出る領域と、そういう答えがもともと出ない領域とがある」――によって、哲学を真に有効な知として再生しようとしたのです。

ところで、こんなふうに思う読者もいるかもしれません。

「そもそも、共有できるということは重要なんだろうか。哲学というものは、答えの出ない問いにいろんな人がその人なりの答えを出してみせる、そんなものだと思っていたけれど」

私は、人それぞれの答えでよい領域と、「だれもがこう考えるしかない」という意味で共有できる領域とがあると考えています。

たとえば、「私はどうやって生きるべきか、どんな人生でありたいか」という生き方の問いはどうでしょうか。これについては、最終的に「人それぞれ」で決めていくしかありません。答えがひとつに決められたら、自由がなくなってしまいますから。

しかし、生きることについて共有しうる知はまったく成り立たないのか、といえば、そうではないかもしれない。たとえば、善悪の基準は人によってある程度違いがありますが、「善悪という価値観をもつ」ということじたいは、ほとんどの人に共通しています。すると「なぜ人は善悪をもつのか」という問いに対しては共有できる答えがありそうです。

また、科学はどうでしょうか。科学の知識を私たちは信頼していますが、それは単なる信仰ではなく、「これこれの根拠があるから信じてよい=共有してよい」と思っているはずです。

こうやって考えてみると、合理的な根拠をもって共有できる知識と、そうでないものとを区分できそうです。そうすると、「どのような知識であれば合理性をもって共有しうるのか。いかなる仕組みで共有が可能になるのか」という問いが出てきます。まさしくこれが『純粋理性批判』の中心課題なのです。

カントがこの難題に取り組んだ背景には、近代に入って飛躍的に発展した自然科学の影響があります。詳しくは本文でお話ししますが、カントは自然科学の信頼性の根拠を解明することによって、客観的な知識の土台を固めようとしました。

しかしその一方で、カントはこう考えました。科学だけでは人間が生きていくには足りない。人は「よく生きる」ことを求めているのだから「よく生きるとはどういうことか」という問いに答えなくてはならない、と。

こうして、『純粋理性批判』の課題は、①科学が合理的な根拠をもって共有できる根拠、②なぜ人間の理性は究極真理を求めて底なし沼にはまってしまうのか、さらに③よく生きるとはどういうことか(道徳の根拠)、を明らかにするということになります。

これらの課題は、いまも決して古びていません。AI(人工知能)や脳科学の研究が加速度的に進み、ビッグデータを背景とした新たな科学至上主義が勃興するなかで、人間の存在意義はいったいどこにあるのか、これからどう生きていけばいいのか、不安や生きづらさを感じている人は少なくないのではないでしょうか。

科学の信頼性の根拠を明らかにするとともに、「よく生きること」を問おうとしたカントの問題意識は、いまもう一度受けとめられるべきだと考えます。もっとも彼の答え(理論)のすべてが決定的な正解とは言えません。この点については、カントを紹介しながら、私なりのコメントも差し挟んでいきたいと思います。

カントの『純粋理性批判』は、哲学の問い方を変え、哲学の歴史を変えた本です。しかし冒頭で述べたとおり、おそろしいほどの大部で、非情なまでに読みにくい。ページをめくると「悟性」「現象界」「ア・プリオリ」「超越論的」「アンチノミー」等々、難解な用語が次々と飛び出してきて、心が折れそうになるかもしれません。

ですが、安心してください。『純粋理性批判』に限った話ではありませんが、哲学書を読むときは、それが何のために書かれたのか、つまり著者の問題意識を理解することが大切です。とくに『純粋理性批判』のような大部の本は、一つひとつの言葉の意味や細かい議論に入り込むと、かえってわからなくなります。問題意識は何か、著者がそれにどう答えようとしているかという「大きな道筋」に着目し、わからないところは読み飛ばすくらいのつもりで取り組むことをおすすめします。

本講でも、カントの問題意識と答えのエッセンスを、ポイントを絞って解説していきます。第1回は、カントが直面した近代哲学の二大難問について解説し、それに答えるべく彼が展開した認識論を概観します。その認識論を前提として、カントが自然科学をどのように基礎づけたのかを第2回で、究極真理を求める問いをどう始末したのかを第3回で解説します。最後の第4回では、科学が答えてくれない生き方の問題に対して、カントがどのように答えたかを見ていくことにしましょう。

ときにはイラストを用いて、わかりやすく説明するように心がけました。また、巻末には「カント哲学を読むためのキーワード集」を付しました。もしカントの深い森に迷い込んだら、そちらも参考にしてください。
 先行き不透明な時代に何を信じ、どう生きていけばいいのか。AIやビッグデータ全盛の時代に、「考える」ことにどんな意味があるのか。カントの徹底した思索を通じて、皆さんと一緒に探求していきたいと思います。

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