おもわく。
おもわく。

「知性改善論」「神学政治論」といった哲学史に残る名著を著し、近世哲学の一つの潮流を生み出した17世紀の哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632 - 1677)。とりわけ彼の哲学は、現代思想にも巨大な影響を与え続け、人間の行為や感情、知性、ひいては社会のあり方にも深い洞察をもたらすものとして今も多くの人々の注目を集め続けています。そんなスピノザが最晩年、自らの哲学的な営為の集大成として、世に問おうとしたのが「エチカ」です。

現代でこそ哲学史上の名著とされる「エチカ」ですが、出版当初は無神論者による冒涜の書として黙殺されました。その理由は、常識を覆すあまりにも革新的なスピノザの思考法にありました。この世界のすべてのものは神のあらわれであり、神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。それをベースとして、「自由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、常識とは全く異なる考え方が導かれていきます。

私たちが漠然と前提しているものの見方がことごとく覆されますが、そこには不思議にも私たちが日常の中で見過ごしている物事の本質が浮かび上がってきます。とりわけ「意志」や「自由」に関するスピノザの洞察は、精神医療やケアの現場にも新たな知見を与えてくれることもあるといいます。幾何学の方法を徹底的に適用し一見冷めた非人間的な記述とも思えるスピノザの哲学は、深く読解していくと、「人間の幸福」「人生を正しい方向に導く方法」「真の善の発見」といったテーマが貫かれていることがわかっていきます。

哲学研究者、國分功一郎さんは、新自由主義が世界を席巻する中、人間の行為があらゆる領域でマニュアル化され、思考の自由が奪われつつある現代にこそ「エチカ」を読み直す価値があるといいます。スピノザの哲学には、現代では失われつつある思考の本来のあり方や自由の根源的な意味を考えるための重要なヒントが数多くちりばめられているというのです。

番組では、20年来スピノザを研究し続けている國分功一郎さんを指南役として招き、哲学史上屈指の難解さをもつという哲学書「エチカ」を分り易く解説。スピノザの哲学を現代社会につなげて解釈するとともに、「意志とは何か」「自由とは何か」「人間はどうやって真理を知りうるのか」といった根源的な問題を考えていきます。

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第1回 善悪

【放送時間】
2018年12月3日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月5日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月5日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子

「エチカ」を直訳すると「倫理学」。つまりこの本は「人はどうやって生きればよいか」を問うた本である。それは、要するに「生きていく上で、「善い」「悪い」の区別をどうするかという問題だ。スピノザは音楽を例にして説明する。「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」。すなわち、すべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はないという。その視点から善悪を再定義すると、その人の活動能力を増大させるものが善であり、減少させるものが悪だととらえることができる。第一回は、「エチカ」が生み出された背景やスピノザの人となりを紹介するとともに、スピノザが再定義した善と悪の見方から、私たちの行為の意味を捉えなおしてみる。

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第2回 本質

【放送時間】
2018年12月10日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月12日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月12日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子

古来ものごとの本質は「形」とされてきた。たとえば、馬と牛はその外形や解剖学的な差異で分類される。私たちの知は、本質を固定した「形」とすることで成り立っているのだ。しかし、スピノザは、本質を「力」とみることでこれまでとは違った見方を提示する。たとえば、同種の馬でも、環境や関係や歴史が違えば、野生馬、競走馬、家畜といった風に、自らの力を増大させるために異なった生態を生きることになる。人間もそうした視点でとらえてみると、決められた本質を目指すのではなく、それぞれの特性にあった「力」ののばし方を考えるべきだという発想に変わっていく。第二回は、あらかじめ固定された「形」ではなく、それぞれの環境で独自にのばしうる「力」として本質をとらえることで見えてくる、スピノザ独自の人間観に迫っていく。

名著、げすとこらむ。ゲスト講師:國分功一郎
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第3回 自由

【放送時間】
2018年12月17日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月19日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月19日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子

「力=活動能力の増大」がスピノザ倫理学の目標だが、言い換えると「自由」という言葉で表現できる。しかし、この自由は単に制約からの解放ではない。たとえば、魚は水という制約の中でこそ活動能力を発揮できる。水を離れては自由にはなれない。同じように、人間が自由になるとは、何の制約もなくなることではなく、その条件にうまく沿って生きることで活動能力が増大させることなのだ。さらにスピノザは「自由意志」をも否定する。私たちが一つの行為を選ぶとき、実際には非常に複雑な要因がからまっているにもかかわらず、自由意志が唯一無二の原因で選んでいると単純化してとらえてしまっているという。第三回は、固定観念で覆われ、私たちが見逃しがちな「自由」や「意志」の本来の意味を、スピノザの視点から照らし出す。

アニメ職人たちの凄技アニメ職人たちの凄技
安部みちこのみちこ's EYE赤毛のアンの収録を終えて
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第4回 真理

【放送時間】
2018年12月24日(月・祝)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年12月26日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年12月26日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
國分功一郎(東京工業大学教授)…著書『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)で知られる哲学者。
【朗読】
白井 晃(俳優)
【語り】
加藤有生子

スピノザ倫理学の肝「活動能力の増大と減少」。ではその増減をどう判定すればよいのか。近代科学は、「数値」「データ」といった他者と共有できる根拠のみを真理の判定基準としてきた。しかし、これは知識が扱えるものの範囲を非常に狭めてしまったと國分さんはいう。スピノザが提示するのは「体験」としての認識。他者と共有できなくても、体験自体が明々白々と真実性を語るような知のあり方が、科学の一方で、確かにありうるという。第四回は、近代が切り捨ててきた「体験」という知のあり方をスピノザにならって提示し、あらゆるものが数値化、マニュアル化する現代、もう一つの思考のあり方の可能性を考える。

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『エチカ』 2018年12月
2018年11月24日発売
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こぼれ話。

思考のOSが書き換えられる経験!

スピノザ「エチカ」を解説してくださった國分功一郎さんとの出会いは、國分さんとブレイディみかこさんとのトークショー会場でした。ブレイディみかこさんの新刊「子どもたちの階級闘争」を巡るトークショーということもあって、内容は昨今の社会情勢の話題が中心でしたが、その端々に鋭い哲学的な考察が閃きます。國分さんの手にかかれば、難解な哲学書を、巧みに現代につないで解説いただけるに違いない。そう確信した私は、その場で名刺交換させていただきました。

それにしてもまざかスピノザ「エチカ」が題材になるとは! 最初の打ち合わせのときには、さまざまな哲学者(ドゥルーズとかハイデガーとかホッブズとかアーレントとか)のアイデアを持ち込んだのですが、「やっぱりぼくはスピノザがやりたい」と、強い思いをもたれていて、「やっぱり國分さんにお願いするなら、スピノザしかないか」という覚悟を決めました。実は、学生時代、まったく歯が立たなかった哲学者だったので、スピノザ……というアイデアは当然もっていたのですが、私自身、およびごしになっていました。スピノザ「エチカ」を取り上げることに踏み切ったのは、何よりも國分さんの情熱によるものです。

以来、大学の講義とか、シンポジウムとか、学会発表とか、さまざまな場所で、國分さんの思考の軌跡を追いながらなんとか企画化にこぎつけました(これまで取り組んだ中でも屈指の難産でした)。苦労の甲斐あって、またディレクターや関係者のたいへんな奮闘もあって、非常に素晴らしいスピノザ入門になったのではないかと思います。

國分さんによる「エチカ」解説で、私たちが漠然と前提しているものの見方がことごとく覆されていきました。そこには私たちが日常の中で見過ごしている物事の本質が浮かび上がってきます。近代社会の延長にある私たちの頭の中のOSでは、スピノザが扱っている概念はうまく走ってくれない。そう語る國分さんの解説の通り、最初はとりつくしまもないように感じられた「エチカ」の思考が、私たちの日常の中にぐいぐいとはいってくるような経験でした。私の中では、既存の思考のOSが書き換えられていくような経験といっても過言ではありませんでした。それは大げさに言っているわけでは決してなく、仕事の仕方や物事の見方が明らかに変わってきている

実際に「意志」や「自由」に関するスピノザの洞察は、精神医療やケアの現場にも新たな知見を与えてくれることもあるといいます。実際に、國分さんがスピノザにもヒントを得て研究を深めている「中動態」という概念は、そうした分野に携わる人々の間で、今、大きな注目を集めています。

では、いったいどのように思考のOSが書き換えられたのか? それについては、年末のホームページ更新締め切りが迫っているので、年明けにあらためて書いてみたいと思います。みなさま、よいお年をお迎えください。(続く)

(承前)それにしても、スピノザ「エチカ」という今から300年以上前の本が、まさか現代の私の仕事の仕方にまで影響を与える本になろうとは! もちろん國分さんの読み解きのおかげではありますが、今回の番組制作のプロセスは、哲学や思想を深く理解していくことの意味やスリリングさをかみしめる体験でした。もしかしたら誤読もあるかもしれませんが、私が「エチカ」から影響を受けたポイントを短めにご紹介します。

〇本質を「形」(エイドス)ではなく「力」(コナトゥス)としてとらえる
第二回で展開されたスピノザの本質論。ギリシャ哲学(とりわけアリストテレス)以来、ものごとの本質は「形」とされてきました。このとらえ方に、実は意外にも私たち現代人も縛られています。少年時代に昆虫図鑑が大好きだった私は、「昆虫といえば、足が六本、翅は四枚」などなど、昆虫という存在を「形」で分類する極めて強固な博物学的な知というものに知らず知らずに縛られています。この見方でいえば、たとえば蜘蛛は八本足だから昆虫ではないと。

この近代人ががんじがらめにからめとられている見方をスピノザは解体してみませます。國分さんは、哲学者ドゥルーズの「スピノザ・実践の哲学」の例を参照しながら、スピノザの本質観を見事に解説してくれました。たとえば、常識では、馬と牛はその外形や解剖学的な差異で分類されます。このように私たちの知は、本質を固定した「形」とすることで成り立っています。しかし、スピノザは、本質を「力」とみることでこれまでとは違った見方を提示するのです。たとえば、一見同じ形態の馬といえども、環境や関係や歴史が違えば、野生馬、競走馬、家畜といった風に、自らの力を増大させるために異なった生態を生きることになります。このように「本質」をとらえると、農耕馬と競走馬よりも、農耕馬と農耕牛の本質のほうが近いというとらえ方になります。

人間もそうした視点でとらえてみると、あらかじめ決められた「形としての本質」を目指すのではなく、それぞれの特性にあった「力」ののばし方を考えるべきだという発想に変わっていきます。私がこの例で最初に連想したのは、イチロー選手の「振り子打法」のことでした。ある理想的な形態のバッティングフォームを本質として固定してしまうと、この「振り子打法」は全くダメな打法と決めつけられてしまう。実際に、当初は多くのコーチからこの打法は否定されてきました。おそらく仰木監督だけが、「形」にとらわれず、イチロー選手の「力」(コナトゥス)を見抜き、彼が存分にその「力」を発揮できるよう活躍の場を与え育てていったのでないか。

スピノザの哲学によって、本質を「力」としてみる見方のもつ大きな可能性に気づかされました。これは、まさにプロデューサーとして、人材を育成する際に、「部下やスタッフのもつコナトゥスに注目する」という非常に豊かな視点を与えてくれました。

〇「意志という神話」
國分さんは、現代は「意志という神話」にとらえられてしまっている、といいます。これは、「人間は意志次第でどんな行動も決定できる」という神話です。この観点からすると、意志は、ゼロから行動を立ち上げる万能の起点であり、「朝寝坊して遅刻する」のも「お酒がやめられずアルコール依存症を治せない」のも「意志が弱いからだ」ということにされてしまいます。

しかし、本当に、人間は意志だけの力で行動を決定しているのか? ここにスピノザは疑問を呈するのです。國分さんは、大学の講義で、「生協でラーメンを食べると決めるケース」を例に挙げてわかりやすく説明していました。今、生協でラーメンを食べようと決めて食券販売機のボタンを押す選択は、自らの意志だけが決めているのか? それは最終的に「これだな!」とボタンを押すことを意識が引き受けているだけで、実際にはその選択の背景には、自分が意識化しきれない、多様な原因がからみあっているのではないかというのです。つまり、結果を引き受ける瞬間だけをみて、「意志がすべてを決めている」と錯覚しているだけではないかと。

実は、この瞬間にラーメンを食べようと決めたのは、「昨夜、おいしいラーメンを紹介するテレビ番組をみていて、その記憶が鮮明に残っていた」とか「ちょうど今の体調がラーメンがもつ塩分を欲していた」とか「そもそもその人が麺類を好きだという傾向をもっていた」とか「時間がないので学外ではなく生協でぱっと食べなければならないという時間的制約があった」とか、さまざまな原因がからみあってなされたのであって、何もないところに「自由意志」が立ち上がってすべてを決めたのではないのです。「意志」というものは、数多くあるさまざまなファクターのたかだか些細なファクターにすぎない。それを絶対視すると、人間の行為の在り方を見誤ってしまう。こうした観点がスピノザの哲学から導きだされるのです。

こうした見方は、現在、精神医療の最前線でも大きな注目を集めています。たとえば「アルコール依存症」などの症例を、意志が弱いから断酒の意志を強くもたせようといった「意志形成支援」というアプローチから、さまざまな原因のからみあいをきちんと見つめ、それを解きほぐしていくことで、よい方向へと欲望を立ち上げることで症状を緩和していこうという「欲望形成支援」(國分さんの造語だそうです)という新たなアプローチへ、ベクトルを変えていこうという動きも現れれているとのことです。このアプローチは、番組制作上のミスや失敗をどう防いでいくかを考える上で、強制ではなく、それぞれのスタッフの内発性を引き出すというやり化を導く大きなヒントになります。

〇真理の基準
國分さんは、私たちが選択した近代が、「何かを知り、それが真かどうかを判断する」基準を、あまりにも狭めているのではないかといいます。たとえば、ウィルスなどの影響でのどの奥が炎症を起こしているとき、それが病気であるかどうかを知るためには、近代医学は、炎症部分がどの程度赤みを帯びているかといった度合いや患部にウィルスがどれだけ発生しているか、体温の上昇を伴っているか、白血球の量がどうなっているのか、といった計測可能で他者と共有できるようなエビデンス(証拠・根拠)をもとに判断します。しかし、この方法では、本人がどれだけ痛いと感じているかといった体験を完全に理解することはできません。現に、物理的・身体的に何ら以上が認められなくても、精神的なトラウマなどが原因になって痛烈な痛みを感じる症例というものがあり、これは、近代医学的な範疇でのエビデンスを示すことができません。

また何かを学ぶという場面においても、たとえば水泳や自転車運転ができるようになるために、どれだけ精密なマニュアルや教本を熟読しても、「泳ぐことができる」「自転車を乗りこなすことができる」という、ある種の真理にはたどり着けません。それらの知は「情報」ではないのです。水泳も自転車も、知識や情報を吸収するだけではなく、試行錯誤や手探りをしながら、ある瞬間、「あ、泳げるということはこういうことだったのか、自転車に乗れるとはこういうことだったのか」ということを直観的に把握することなのです。こうした知は、厳密に計測することも、他者と共有することもできません。

スピノザの哲学にならっていうならば、体験自体が明々白々と真実性を語るような知のあり方が、近代科学や情報の一方で、確かにありうるのです。スピノザの哲学を読み解いていくと、近代が切り捨ててきた「体験という知」のあり方が浮かび上がっていきます。そうした知のあり方は、デカルトに発する、「数値」「データ」といった他者と共有できる根拠のみを真理の判定基準とした知のあり方を決して否定するもではありません。ただ、私たちが選んだ近代が、知の対象とはできないものについて、スピノザは、新たな真理の判定基準を提示してくれるのです。

現代に敷衍していうならば、新自由主義が世界を席巻する中、人間の行為があらゆる領域でマニュアル化され、思考の自由が奪われつつある現代社会に対して、スピノザ「エチカ」は大きな問題提起をしているともいえます。たとえば、笑顔の作り方から付随した商品の売り方に至るまですべてがマニュアル化して、「その人自身が深く考えて、サービスとは何か、どうしたら人が喜ぶのか、どのような工夫が仕事を高めていくのか」といったことを自由に考える余地すら奪われているというファーストフード店に象徴される実態が、あらゆる領域にみられるのが現代社会です。私たちは、自由に思考する力を常に奪われていく社会にいるといっても過言ではありません。スピノザの哲学には、現代では失われつつある思考の本来のあり方や自由の根源的な意味を考えるための重要なヒントが数多くちりばめられていると、今回の國分さんの解説によって気づくことができました。

いかがでしょう? 17世紀の哲学が現代に生きる私たちにここまで影響を与えることができるのです。「哲学」は現実に何も役立たない机上の空論などでは決してありません。私たちの思考のOSを書き換え、私たちの行為や思考の在り方を限りなく豊かにしてくれるものなのです。

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こぼれ話。

『エチカ』ディレクターのおもわく

2012年8月放送の『夜と霧』から断続的にこの番組のディレクターを担当しているテレコムスタッフの羽根井信英です。最初にスピノザの『エチカ』のことを僕に教えてくれたのは、知り合いの、あるディレクターでした。おそらく3,4年ほど前になりますが、僕が「名著」を担当していることを知った彼から「ぜひ100分de名著で取り上げてほしい本がある。すごいことが書いてあるらしいが、どうもわけがわからない。気になって仕方がないからわかるように教えて欲しい。」と連絡があったのです。それがスピノザの『エチカ』でした。ページを手繰ると、確かに読むものを拒むような「定理」と「証明」の連続。。。こういう本こそ『100分de名著』に相応しい。では誰に『エチカ』を教えてもらうか?その少し前、Eテレでは『哲子の部屋』というとても面白い哲学番組を放送していて、そこに國分功一郎さんがご出演されていました。この頭の切れる哲学者はどんな人なのだろう?と調べてみると、博士論文が『スピノザの方法』。これはうってつけ、と何度か番組の提案会議に出したのですが、その頃はたしか國分さんは海外に留学中、それに「難解な哲学書は視聴率が取れない」と、日の目を見ることはありませんでした。しかし、それから数年、やっと念願の『エチカ』を担当できることになりました。

しかしここから『エチカ』との格闘が始まります。番組テキストは、時間的にも内容的にも、そのままでは番組になりません。番組では、ヴィジュアルでこの本の構造や思想を視覚化するべく工夫しました。居眠りしながらも『エチカ』を読み込み、スカイプで國分さんと議論を重ねながら、時にテキストから離れ、番組独自の構成をしていきました。
幾何学的な発想や証明の手順、抽象的な概念を説明するのには、親しみやすいアダチマサヒコくんのアニメに大いに助けられました。朗読には、スピノザの性格や『エチカ』の雰囲気を表現していただける方を吟味する中から、同僚が提案してくれた白井晃さんに打診。多忙な舞台演出の合間を縫って参加して下さいました。「厳密な言い方が難しい!」と苦労されておりましたが、イメージ通りで素晴らしかった。大変感謝しております。

自由、意志、力という本質。神のあらわれとしての私たち。『エチカ』には、書かれてから300年後を生きる私たちにとっても大きな気づきを与えられる考え方があり、これこそ名著だな、とあらためて思いました。現代の生きづらさは、スピノザを忘れていたためかも知れない。その意味でも今この時期に100分de名著で『エチカ』を取り上げられたことには大きな意味があったと思います。それは放送後の反響の大きさが証明してくれています。この番組を担当したことで、僕はすっかりにわかスピノジストとなりました。これからも、いつの時代にも大切な価値を持つ名著に光を当てていくこの番組に関わっていければと思っています。

テレコムスタッフ ディレクター
羽根井信英

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