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名著、げすとこらむ。

岸見一郎
(きしみ・いちろう)
哲学者

プロフィール

1956年京都府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)非常勤講師。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著/ダイヤモンド社)をはじめ、『三木清『人生論ノート』を読む』(白澤社)、『幸福の哲学』(講談社現代新書)、訳書にプラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)、アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)などがある。

◯『人生論ノート』 ゲスト講師 岸見一郎
今、三木清を再読する意味

 三木清(一八九七~一九四五)は日本を代表する哲学者の一人です。四十八歳で無念の死を遂げるまで、三木は精力的に自らの思想を世に問い、二十巻におよぶ全集が編めるほど膨大な著作を遺しました。

 哲学にあまり馴染みがなく、三木の名にも、思想にも触れたことがない──という人の身近にも、彼は足跡を残しています。みなさんの本棚に並ぶ文庫本です。

 今からちょうど九十年前の一九二七年、岩波書店から日本初の文庫本が出版されました。ドイツのレクラム文庫に範をとり、この文庫本というスタイルを発案したのが三木です。当時、彼は法政大学で教鞭をとる傍ら、岩波書店で編集顧問のような仕事をしていました。現在も岩波文庫の巻末には「読書子に寄す ──岩波文庫発刊に際して── 」という文章が掲載されていますが、その草稿を手掛けたのも三木です。

 文庫本の登場によって、私たちは古今東西の名著を気軽に手にすることができるようになりました。今回取り上げる『人生論ノート』も文庫本で読むことができます。

 本書が創元社から刊行されたのは一九四一年。太平洋戦争が始まる直前でした。これは「文学界」という雑誌に三木が連載していたエッセイを一冊にまとめたもので、刊行されるやベストセラーになりました。戦後、『三木清全集』(岩波書店)の第一巻に収められましたが、一九五四年に新潮文庫版が出て、以来六十年以上も版を重ねながら読み継がれています。

 私が『人生論ノート』を初めて手にしたのは高校生の時。きっかけは、高校で倫理社会の授業を担当していた先生との出会いでした。

 哲学に憧れを抱いていた私は、先生が京都帝国大学哲学科で学ばれたということを知って、俄然興味をもちました。京大哲学科といえば、『善の研究』の著者で京都学派の創始者でもある西田幾多郎が薫陶し、多くの哲学者が輩出した学び舎です。私もこの難著に挑み、その流れで西田の後継者と目されていた三木のことを知りました。

 数ある三木の著作の中で、一番手にとりやすいと思えたのが秀逸なタイトルの『人生論ノート』でした。目次を見ると「死」「幸福」「怒り」「孤独」「嫉妬」「希望」など、人生の中で誰もが一度は突き当たるであろう問題が並んでいます。人生とは何か、人はいかに生きるべきかということについて、きっと興味深いことが書いてあるのだろうと予感したことを覚えています。実際には、高校生の私が読み進めることは『善の研究』と同じほど困難でした。それは哲学書を読み解く緻密な思考力が足りないというよりは、若い私には哲学を理解できるだけの人生経験がなかったからかもしれません。

 ともあれ、西田や三木に強い刺激を受けて哲学を志した私でしたが、思いがけず先生は翻意を促しました。考えてみれば、先生の口から西田や三木の名が語られることは一度もありませんでした。年齢を考えると京大在学中に西田の講義にも出ていたはずです。先生と三木は五歳違いですから、三木のことも知らないはずはありません。

 これは後で知ったことですが、戦後、京都学派の人々の一部は戦争犯罪人として公職を追われていました。女子高等師範学校の校長の職を解かれたという先生も、その一人だったのです。戦時下の厳しい言論弾圧、戦後の不遇──。先生が大学時代のことについて頑なに口を閉ざしたのは、そうした背景があったからなのかもしれません。自分のような苦労を私にさせてはいけないと思われたのでしょうが、哲学を学ぶことを断念しない私を見て先生は放課後の教室で、哲学の基礎やドイツ語を個人授業してくださいました。

 戦争へと突き進む時代の重苦しい空気は、『人生論ノート』にも影を落としています。平明でストレートに響いてくる断章もありますが、あえて難解な書き方を選んでいると見えるところも多いのです。
『人生論ノート』の連載が始まったのは一九三八年、三木が四十一歳の時でした。その前年の日記には「狂人の真似をしなければ、正しいことが云えない時世かも知れない」と記されています。たびたび不掲載や発禁処分を受けてきた三木は、哲学用語やレトリックを駆使して晦渋な書き方をするほかなかったのです。

 私は紆余曲折あってギリシア哲学を専門とすることを選びましたが、一方で西田や三木の思想にも絶えることのない関心を抱き続けてきました。なかでも三木の『人生論ノート』は、今という時代にこそ再読されるべき一冊だと思います。なぜなら、彼がこれを書いた当時と今の社会状況が酷似しているからです。

 戦後、日本は未曽有の経済発展を遂げ、情報技術の革新によって私たちの生活スタイルは大きく変わりました。しかし、改めて『人生論ノート』を読むと、今の時代のことを念頭に置いて書いたのではと思わせるような記述が驚くほど多い。三木の言葉は、今の時代にも通じる問いを投げかけているのです。

 難解であっても、読む人が読めば真意は伝わるはず──。三木はそう信じて書き続けました。彼はこの本を〝完成形〟とは見ていません。タイトルからも読みとれる通り、これは一種の研究ノート。「これで終るべき性質のものではなく」(「後記」)、さらに深め、発展させていくことを読者に託しています。ここに刻まれた言葉やレトリックの真意を一つひとつ読み解き、三木が本当に伝えたかったことを探る作業は、この遺産を引き継いだ私たちの責任でもあるのではないでしょうか。

 経済的な豊かさや社会的な成功が幸福と見なされ、厳しい競争社会や効率至上主義の風潮の中で自分を見失いがちな現代だからこそ、本書を通じて幸福とは、孤独とは、死とは何かという普遍的哲学的な問いと向き合い、人生を真に豊かにする術について、一緒に考えていきたいと思います。

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