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名著、げすとこらむ。

中野東禅
(なかの・とうぜん)
龍宝寺住職

プロフィール

1939年静岡県生まれ。駒澤大学仏教学部禅学科卒業、同大学院修士課程修了。京都市・龍宝寺住職のほか、曹洞宗総合研究センター教化研修部門講師も務める。『日本人のこころの言葉 良寛』『読む坐禅』(ともに戧元社)、『「ブッダの肉声」に生き方を問う』 (小学館101新書)、『仏教の生き死に学』(NHK出版)など著書多数。

◯『良寛 詩歌集』 ゲスト講師 中野東禅
「どん底目線」と「徹底した言語化」

「良寛」という名を聞くと、多くの人は子どもたちと一緒に手まりをつきながら遊ぶ温厚な老僧の姿を思い浮かべることでしょう。しかし、その思想や生きざまについて問われると、意外に答えに窮する人が多いのではないでしょうか。
良寛の名前が全国に知られるようになったのは大正七年(一九一八)、新潟県糸魚川出身の良寛研究家で「早稲田文学」編集者を務めたこともある相馬御風の著書『大愚良寛』が出版されたのがきっかけです。その後、現在に至るまで、良寛についての伝記や児童書が数多く出版されていますが、そのほとんどはこの本が元になっていると考えていいでしょう(そして、その『大愚良寛』の大本となったのが、良寛と生前親交があった解良栄重によって書かれた『良寛禅師奇話』です)。
良寛の伝記や逸話集を読むと、諸国を放浪したことや、寺には属さずに生涯乞食僧として自由な生き方を貫いたこと、優しい人柄でみんなに慕われたこと、漢詩や和歌を愛したことなど、おおよそのプロフィールや人柄についてはわかります。しかし、彼自身は生前自分のことをほとんど語りませんでした。
だからこそよけいに好奇心をそそるのでしょう。今も出身地の新潟には熱心な良寛研究家、良寛ファンが多く、地元には市井の研究家たちの手による膨大な数の研究書や資料が存在します。そうした良寛研究書のすべてを読破したわけでもなく、「全国良寛会」に所属してもいない私が、良寛についてあれこれ語るのは心苦しい限りですが、今回は同じ仏道を志す者としての視点や解釈で、彼の魅力を解説させていただければと思っています。
仏教的な視点で良寛の生きざまを理解しようとした場合、以下のようないくつかの疑問が浮かび上がってきます。まずは「なぜ出家しようとしたのか?」という疑問です。良寛は越後国出雲崎の名主の家の長男として生まれましたが、十八歳のときに家を飛び出して僧の道を自ら選んでいます。何不自由のない生活から何も持たない暮らしへと、彼を向かわせたものはいったい何だったのでしょうか。
また、良寛は生涯にわたって自分の寺というものを持つことなく、故郷に戻ってからも乞食僧として生きる道を選んでいますが、そこには「なぜ乞食に徹した生き方を選択したのか?」という疑問も生じます。
さらに、僧侶は説法や説教という形で、仏の道を言語化して民衆に伝えるのが一般的なのに、良寛はほとんど説教を行うことがなく、その代わりに約五〇〇首の漢詩と約一四〇〇首の和歌を残しています(数え方によって数字は異なる場合もあります)。それを知ると「なぜ表現活動にこだわり続けたのか?」という疑問もわいてきます。
これらの疑問を解いていくためには、二つのキーワードが重要になると私は考えています。まず一つ目は「どん底目線」です。良寛は誰に対しても決して偉ぶることなく、常にどん底の立ち位置から社会や人間を観察し、批判眼と許しの眼を持って他者に接しました。このどん底目線はどこからきたものなのか、それを知ることで良寛の目指した「悟り」とは何なのかが見えてくるはずです。
二つ目のキーワードは「徹底した言語化」です。良寛はどん底目線から見たもの、感じたものを自分の心の中だけに留めておくのではなく、常に漢詩や和歌で言語化しようと試みています。その理由を探ることで、今度は良寛の表現活動の根っこにあるものが見えてくるでしょう。
番組とテキストでは、この二つのキーワードを手がかりに、「誰に対しても優しくて自由気ままに生きた」というような良寛の表層的な部分から一歩踏み込んで、「求道者」としての良寛の精神世界や思想について解説させていただこうと思います。なお、今回の『良寛詩歌集』というタイトルは、良寛の遺した漢詩や和歌の総称として便宜的につけたもので、良寛自身はまとまった著書を一冊も残していないということを申し添えておきます。

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